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9 家を出る

 この日のことは、ひまりにとっては「つまらない映画を観ている最中に居眠りした」だけの日。


 だけど、僕にとってはあまりにショックなことが起こり、意識が変わった日になる。

 大事件だった。

 そんな大事件から、数ヶ月後。



 高校から家に帰ってくると、母から「ちょうどよかった」と声を掛けられる。


「浩太郎。この食器、あっちに返しに行ってくれない?」

「ん。おっけー」


 母親から皿を受け取る。


 この間、小倉家からおかずのおすそ分けをもらったときの食器だ。

 食器を返すために、僕は玄関にある小倉家の鍵を手に取って、そのまま家を出た。


 数歩歩くだけで小倉家に辿り着き、扉を開ける。

 特に声を掛けることなく家に上がり、キッチンに向かった。


 そこでは、ひまりのお母さんが晩ご飯の支度をしていた。


「あぁ、浩太郎。どうしたの?」

「お皿返しにきた。豚の角煮、おいしかったよ。おばさんのは本当においしいね」


 僕はお皿をテーブルに置く。

 おばさんは「でしょ~」とひまりそっくりの笑みを浮かべた。


「浩太郎、羊羹あるけど食べる?」

「え、食べる。ひまりが好きな店のやつ?」

「そうそう。買っておいたから」



 僕はそのまま近くの椅子に腰かけた。

 おばさんがサッと羊羹を切ってくれて、お茶まで淹れてくれる。

 僕がそれをありがたく頂戴して、適当に雑談をしていたところだった。


「ただいまー」とひまりの声が聞こえてくる。


「お母さん、ただいまー」

「おかえり」

「おかえりー」


 制服姿のひまりがキッチンの前を通りかかり、そう声を掛けていく。

 僕がひまりの家にいるのはしょっちゅうだから、普段の彼女なら「んー」と返事をして、そのまま自分の部屋に入っていくところだ。


 しかし、今日は違った。

 僕の姿を見て、「あ!」と声を上げた。


「ちょっと、こーたろー!」

「ん? あ、羊羹あるって。ひまりの好きな店のやつ」

「ひまりも食べるでしょ?」

「食べる! いや、そうじゃなくて! 羊羹は食べるけど、そうじゃなくて!」


 ずかずかとキッチンに入ってきて、ひまりは僕に詰め寄った。

 目を三角にして、声を張り上げる。


「おばさんから聞いたよ、こーたろー! 浩太郎、一人暮らしするんだって!?」

「うん」

「うんって……」


 そうだ。

 そう決めていた。


 大学進学を機に、一人暮らしを始める。

 それもこれも、あの日のことがきっかけだ。


 僕とひまりは、あまりにも距離が近すぎる。

 このままでは一生、彼女には家族としか見てもらえない。

 そう確信した。



 このままいっしょにいて、僕が彼女に男として認識してもらえる可能性はおそろしいほど低く。

 反面、ひまりは出会いさえあれば、彼氏なんてすぐに作れてしまう。

 今更ながら、この状況がまずいと本格的に危機を覚えたわけだ。

 

 現状を打開するために、僕は一人暮らしをすることに決めた。

 ひまりと離れる必要があったから。


 ひまりが僕を家族と感じるのは、この環境のせいだ。

 家族としか言えない距離感のせいだ。


 だから、この環境から離れ、ひまりに家族の認識を薄めてもらおうと思った。


 僕が他人であることを思い出してくれれば。

 ひとりの男であることを認識してくれれば。


 そこでようやく、スタートの位置に立てる。


 ……僕はてっきり、今もある程度は前に進んでいると思っていたのだけど。

 まさかスタートすらしていなかったとは。


 だから、これは必要なことだ。


 けれど、ひまりは反対している。

 今も血相を変えて、僕に反対の言葉を浴びせようとしていた。


 これは別に、僕と離れがたいわけではなく。


「やめときなって! 浩太郎に一人暮らしは無理だよ! だって、家事を全部ひとりでやるんだよ!? 料理も、洗濯も、掃除も! 大学行きながら! そんなの、こーたろーには絶対無理でしょ!?」


 兄を……、というより、弟を心配しての言葉だった。

 いくらなんでも、これは家族特有の侮りも入っているけど。


 ひまりは、僕にどうせ家事なんてできっこない、と決めつけている。

 言ってしまえば、これも距離が近すぎるための弊害だろう。


「あのね。僕だって、家事くらいできるよ。必要になればちゃんとするよ。大丈夫だってば」

「そんなことないよ!」

「否定に躊躇がなさすぎる」


 人のことを小学生かなにかだと思っていないか。

 弟扱いされている気はしていたけど、ここまでとは……。

 すると、それに乗じるようにおばさんまで僕を子供扱いしてきた。


「でも、わたしも心配かも。浩太郎、ちゃんとご飯作れる? 食べられる?」

「おばさんまで……、人をなんだと思ってるの? ちゃんと作って食べるって」

「いいや、わたしが予言するよ。こーたろーは絶対、カップ麺や冷凍食品ばかりで、自炊だって絶対にしない!」


 それはそうかもしれないけど。

 レトルトだって、食べることに変わりないんだからいいだろ、と思ったものの、そこは黙っておく。


 さらに、ひまりはぐぐっと詰め寄ってきた。

 不満の表情で、ほとんど文句のように声を上げる。


「大体、こーたろーが行く大学って、ここから電車で三十分くらいでしょ? 家から通えるじゃん! わたしなんて、毎日一時間かけて行ってるのに!」


 ……それを指摘されると、弱いけれど。

 実際に両親からも「家から通えるんじゃないか」と言われてしまった。

 僕も以前までは、家から通うつもりだった。

 そっちのほうが楽だし、ひまりと離れるのも嫌だったからだ。


 だけど、そうも言っていられなくなった。


 だから、経験のためだとなんだと無理を言って、一人暮らしを強行させてもらった。

 当然、ひまりはその理由を知らない。

 両親も知らない。

 だから、こんなにも不可解そうにしている。

 彼女もまた、僕はこの家にいるのが当然だ、と考えているから。


 ひまりはなおも文句を言いたそうに、唇を尖らせている。

 そこに、おばさんが穏やかに口を開いた。


「心配ではあるけど、一人暮らしをするのはいい経験になるわよね。社会人

一年生と一人暮らし一年生が同時に来ちゃうと、やっぱり大変だし」

「あぁ、そういう気持ちもあるよ。今のうちに慣れておこうかなって」



 僕とおばさんの言葉にも、ひまりは「でもー……」と納得する様子はない。

 心配そうな目をずっと向けてくる。

 もし、小学生の弟が「一人暮らしをする!」と言い始めたら、こんな反応をするんじゃないだろうか。


 そう考えて、思わず苦笑いする。

 やっぱり、この選択は正解かもしれない。


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