2 彼女は意識してくれない
「あ~……、ちょっと休憩~……」
ひまりはしばらく勉強を頑張っていたが、どうやら集中力が途切れたらしい。
両手を挙げて、ぐぐーっと伸びをしている。
あ~、という気持ちよさそうな声が漏れた。
「…………」
その瞬間、とても目のやり場に困る。
彼女が背筋を伸ばすと、セーラー服の下にある胸が強調されてしまう。
ひまりは意外にも胸が大きめで、こういうときは目に毒なのだ。
いや、見ちゃうんだけど。
さらに、ちらちらと見え隠れするへそと脇腹。
その白い肌に、どうにも目が奪われる。
きっと彼女は、見られているなんて全く思わないのだろうけど。
「はぁ~……、疲れたな~」
ひまりはころん、とその場に寝転んだ。
僕の手の近くに、彼女の頭がある。
長い髪は床に広がった。
やわらかな髪が手にあたっている。
少し手を動かせば、彼女の頭に触れることもできる。
その距離感にドキドキしながらも、僕が手を動かすことはない。
ひまりはそのままの体勢で、僕を見上げた。
くりっとした瞳が、僕の顔を見る。
「こーたろー。今日、なに食べたい?」
「えー、なんだろ。なにがいいかな。ひまりが作るご飯は、なんでもおいしいからなぁ」
「なんでもいいが一番困るんです~。そう言ってくれるのは嬉しいけどねー。ま、スーパー行ったときに考えよっか」
ひまりはころん、と寝返りを打って、窓の外を見る。
外はまだまだ日が照っていて、歩いているだけで汗だくになりそうだ。
もう少し待てば、多少は涼しくもなるだろう。
外の気温を思い出したのか、ひまりがうんざりしたような顔になる。
こんな何気ない会話が、どこまでも心地よい。
好きな人に、「今日、なに食べたい?」なんて訊かれて。
彼女は床に寝転がって、僕はすぐそばにいて。
こんな幸せな時間がいつまでも続けばいいのに――。
と思っているのは、きっと僕だけだ。
ひまりは何かを思い出したようで、表情が急変した。
ガバっと身体を起こして、僕の目をまっすぐに見つめる。
「そうだ! ちょっと浩太郎、聞いて! なんかねー、夏休みでみっちゃんに彼氏ができたんだって!」
みっちゃん、というのは、ひまりの話にちょくちょく登場するクラスメイトの名前だ。
なんとなく話の展開が予想できて、僕は内心で渋い顔をした。
嫌な方向に向かうことを察知しつつも、僕は相槌を打つ。
「へえ。そうなんだ、よかったじゃない」
「よかったんだけど~。いいなぁ~! って! わたしも彼氏欲しいよ~。今年こそ、夏休みは彼氏と過ごしたかったのに~」
「……………………………………………………」
ひまりは、テーブルにだらーんと突っ伏す。
僕の気持ちを微塵も知らない彼女は、そのまま思ったことを口に出した。
「なんかねー。みっちゃん、他校の友達に男の子を紹介してもらったんだって。やっぱそれが一番いいよねー。うちは女子高だから出会いないでしょ? だからわたしも、みっちゃんから紹介してもらおっかな。このままじゃ彼氏できなさそーだもん」
「……………………………………………………」
その言葉ひとつひとつが、僕の心を軋ませる。
やめてほしい。
本当にやめてほしい……。
ひまりは、僕の家にしょっちゅう来るし、距離だって近いし、ご飯も作ってくれる。
可愛くて愛しい幼馴染だ。
いつも明るく笑っていて、やわらかいひまりが、僕は恋愛対象として、好きだ。
しかし。
あぁ、しかし。
彼女にとって、僕はただの幼馴染。
いや、もはや家族と言っていい。
兄妹に近い存在なのである。
そのせいで、彼女は僕のことを欠片も異性として意識していない……。
どんなに仲が良くても、兄には恋しないであろう……。
彼女の可愛らしい顔を見つめながら、僕は内心でこの関係の虚しさを嘆いた。
これだけ距離が近いというのに、あまりに哀れな片思いだ。
僕が心の中で顔を覆っていると、ひまりはこてん、と首を傾げた。
「なあに?」
髪がさらりと揺れる。
たまに戯れで触らせてくれるが、彼女の髪はとてもやわらかくて、触り心地がいい。
できるなら、ずっと触っていたくなるほど。
上品な髪に加えて、とても綺麗な顔をしている。
目を見ていたら、そのまま吸い込まれそう。
普通なら、こんなかわいい女の子と部屋にふたりきりなんてありえない。
こんな、手の届く距離で。
たまに、行動を起こしたくなる。
あまりに何も発展しない関係だから。
もし、彼女の肩に手を置いたらどうなるだろう。
キスを迫れば、どうなるだろう。
そう想像するたびに、悲しくなる。
答えは簡単だ。
冗談だと思われて、「なによ、もー」と笑われるか、「えー、なに。気持ち悪ー」と遠ざけられるだけ。
きっと彼女が、僕を異性と意識するには至らない。
何が悲しいって、そのせいで目の前で「彼氏ほしー」なんて言われることだ。
彼女からすれば、兄や弟に愚痴っているのと変わらないのだろうけど。
僕からすれば、割と地獄だ。
無視もできなくて、僕は彼女に問いかける。
「ひまりって、そんなに彼氏欲しいの?」
「欲しいよ~。恋したいよ~。青春したーい。今年は絶対彼氏作るもんね!」
そうやって意気込む彼女は、恋に恋する乙女、と言った感じだ。
単純に恋愛、恋人、彼氏に憧れがあるんだろう。
僕に言ってくれれば、ふたつ返事で彼氏ができるというのに。
でもきっと、ひまりはそんなことを考えたことすらない。
ひまりが僕の家に来るのは、家族の様子を見にくるのと同義だ。
家族から恋愛対象として見られているなんて、普通は考えない。
しかし、残念ながら僕は彼女が好きだ。
家族としてじゃなく、恋愛対象として。
このまま意識してもらえないのは、困る。
「僕は……、ひまりに彼氏ができたら寂しいけどなぁ」
今僕にできる、精いっぱいのアピールをする。
これで少しでも、意識が変われば。
変わってくれれば。
そんな思いを詰めた一言に、ひまりは無表情になる。
「それって……」
ひまりは大きな瞳で、僕のことをまじまじと見つめた。
時間が止まる。
何かが通じたかと一瞬期待したけれど――、彼女はぷっと吹き出した。
そのまま、僕の肩をばしばしと叩く。
「そりゃ寂しいよねえ。浩太郎もずっと彼女いないんだし。それでわたしが先に恋人作っちゃったら、ねぇ~」
愉快そうに笑っている。
……いや、まぁ、うん。
伝わらないとは思っていたけど。
でも、正直なことを言えば。
焦って変なことを言って、この関係が崩れるのも怖かった。
ひまりは学校帰りにうちに寄っていき、僕に勉強を教わる。
その見返り、というわけでもないが、彼女は料理を振る舞ってくれる。
もし、僕の恋愛感情が彼女に伝わり、ひまりがその好意を受け入れてくれなかったら。
この生活はすぐにでも終わってしまう。
それは、避けたい。
「よっし。休憩終わり。買い物までに、もうちょい進めるぞー」
ひまりは気合を入れなおすと、再び勉強へ戻っていった。
僕は特に何も言わず、そんな彼女を見守る。
この生活は壊したくない。
壊したくはないけれど……。
そうも言ってられないのが、また問題だった。