16 ある大雨の日
「ん?」
ひまりを駅まで送ったあと、部屋に忘れ物があることに気付く。
「ひまり、スマホ忘れてる」
テーブルの下に、ひっそりと落ちているスマホを見つけた。
参ったな、と頭を掻く。
高校生、スマホが手元になくても平気だろうか。
財布より困るんじゃないだろうか。
そう思うものの、今からひまりを追いかけても間に合わない。
スマホ忘れてるよ、とひまりにメッセージを打ちそうになって、いやいや、と思い直す。
ここにそのスマホがあるんだから、送ってどうする。
不便だな、と息を吐いた。
『ひまりがスマホをうちに忘れて行ったんだけど、ひまりが帰ってきたら伝えてくれる?』
代わりに、ひまりのお母さんにメッセージを送っておいた。
スタンプが送られてきたので、ひまりが帰ってきたらまた連絡が来るだろう。
なんてことはないやりとりだった。
僕とひまりとの生活について、ひまりの両親は特にネガティブなことは言わなかった。
『いいんじゃない? 浩太郎の食生活は心配だったし、ひまりが作るなら安心だね。浩太郎が勉強を教えてくれるのなら、成績も上がるだろうし。うちとしてはありがたいよ』
そのくらいの温度感だった。
自分の娘が日常的に男の部屋に上がり込むなんて、普通の親なら絶対に反対するだろうけど。
彼女たちの中でも、自分たちはやっぱりただの兄妹なのだ。
男の家ではなく、兄の家にしょっちゅう行く、くらいの認識なんだろう。
しばらくしてから、スマホに着信が入る。
ひまりのお母さんからだ。
「もしもし」
『あ、こーたろー?』
聞こえてきたのはひまりの声。
おばさんのスマホを借りて電話してきたみたいだ。
『スマホ、浩太郎の部屋にあるんだよね? よかったー。いやー、どこにもなくて焦っちゃったよ』
「うん、置いてってる。預かっておくから、いつでも取りにおいで」
『ん。明日も寄るから、そのときにもらうね。ごめんねー』
そう言って、電話が切れる。
ただの忘れ物。
ただのうっかり。
だからこのとき、スマホが原因であんな事件が起こるとはとても思っていなかった。
「うひー……、ひどくなる前に帰ってこられてよかった……」
僕は部屋についてから、肩に着いた水滴を払う。
傘を差していたにも関わらず、かなり濡れてしまった。
外からはさらに強くなった雨脚が、音を立て始めている。
あっという間に、ビタビタビタ! という激しい音が外から響き始めた。
「うわー……」
窓の外を見ると、すごい勢いで雨が降り注いでいる。
まるで台風のように風も強く、横殴りの雨になっていた。
これではもう、傘は意味を為さないだろう。
酷くなる前に帰ってこられてよかった。
「さすがに今日は、ひまりは来ないかな……」
昼間だというのに、外は暗くなっている。
さっきから雨の音がひどくうるさい。
さすがに今日は、うちには寄らずにそのまま帰るだろう。
じゃないと、駅からこの部屋に来るまでにずぶ濡れになってしまう。
僕は、置きっぱなしのひまりのスマホをちらっと見る。
彼女が部屋に忘れていなければ、「今日はやめとくね~」と言ったメッセージが届くだろうけど、今日は沈黙したままだ。
雨の音だけが部屋に響いている。
ひまりが来ない、ということで退屈を持て余し、適当にテレビを観ていたころだった。
部屋の扉から、ガチャ、と聞き慣れた音が響いて、驚く。
慌てて振り返ると、いつものようにひまりが扉を開けていた。
「た、ただいまー……」
「ひ、ひまり? 今日は来ないとばっかり……」
窓の外を見ると、依然としてひどい雨が降り続いている。
急いで玄関に向かうと、案の定、そこにはずぶ濡れになったひまりが立っていた。
閉じた傘からは、水滴がぽたぽたと落ちている。
そして、それ以上にひまりの全身から水滴が滴り落ち、たたきに小さな水たまりを作り始めていた。
「ご、ごめん、浩太郎……。スマホ、返してもらいにきて……。行けるかなー……、と思ったけど、ずぶ濡れになっちゃった……」
照れくささと申し訳なさそうな感情が混じった顔で、ひまりは頬を掻いている。
ふわっとしたやわらかな髪は水を吸い、顔にぺったりと貼りついていた。
白いセーラー服はぐっしょりと濡れ、彼女の肌が透けている部分がある。
「ごめん、スマホ返してもらっていい? 今日はこのまま帰るよ」
「な、なに言ってんの。こんだけ濡れておいて。外は大雨なんだし、上がっていきな。ちょっと待って、タオル持ってくる」
僕は慌てて、洗面所に踵を返す。
後ろから、「浩太郎~、ごめん~」と気弱な声が飛んできた。
とりあえず、彼女にタオルを手渡すと、彼女はその場で顔を拭き始める。
「本当はそのまま帰ろうかと思ったんだけど……、明日は土曜でしょ? 取りに行けるの月曜日か~、と思ったら、ちょっと無理しちゃった……」
てへへ、と申し訳なさそうな顔で笑っている。
まぁ女子高生から三日以上、スマホを奪うというのも酷な話だ。
無理をしたくなるのも仕方ない。
彼女はぐしぐしと髪を拭っているが、タオルでどうにかなるような濡れ方ではなかった。全身ぐっしょりだ。
僕は少し迷ったけど、こう提案するしかなかった。




