1 いつもの幸せな風景
僕の幼馴染は、しょっちゅうウチに来てご飯を作ってくれる。
「ただいまー」
彼女のことだ。
僕が一人暮らししているアパートに、勝手知ったる、という感じで入ってくる。
がちゃがちゃと鍵を開け、「ただいまー」と扉を開けるのもいつものことだ。
合鍵は渡してある。
今はローファーを脱ぎながら、手で顔をぱたぱたと扇いでいた。
それに合わせて、長い髪が揺れる。
「あー、すずしー。今日も暑かったねー。もー、ここに来るまでで汗だくになっちゃうよ」
エアコンの涼しさに、彼女は頬を緩める。
彼女が来るタイミングは大体同じなので、それに合わせて部屋を冷やしてあった。
「おかえり。まだまだ残暑が厳しいねえ」
「ほんっとに。いやもー、早く涼しくなってほしー」
ぐったりとした顔でそう言う。
夏服のセーラー服は白と紺で構成されていて、涼しそうではある。
プリーツスカートもほどほどに短いが、それも劇的な効果はないみたいだ。
九月に入ってもまだまだ暑く、服装だけでどうにかなる気温ではないけれど。
彼女はぺたぺたと部屋に入ってきて、まずは鞄を置いた。
冷蔵庫から麦茶ポットを取り出しながら、僕に声を掛ける。
「こーたろー。今日はちゃんと大学に行った?」
「今日は、ってなにさ。ちゃんと毎日行ってるよ。ひまりは僕のことをなんだと思ってるの?」
「やー、だって。いつも家にいるしさ。こーたろーのことだから、引きこもってるんじゃないかと思って。暑いし」
からかうような笑みを浮かべながら、彼女はコップに麦茶を注いだ。
彼女、小倉ひまりは高校二年生だが、大学一年生の僕、大村浩太郎のことを呼び捨てにする。
昔からそうだ。
彼女から年上扱いされたことなどない。
ひまりは自分用のマグカップに麦茶を注ぎながら、髪を揺らした。
「こーたろーも、麦茶いる?」
「いる」
「はいはい」
ひまりは適当にコップを取り出して、それにも麦茶を注ぎ始めた。
彼女の髪は緩やかなウェーブがかかっていて、長さは背中に届くほど。
ひまりは綺麗なストレートに憧れているようだが、ちょっとした癖毛は彼女にとても似合っている。
ばっちりとした瞳に、形のいい鼻、小さな唇。
笑うと、花が咲いたようにぱっと華やぐ。
身内のひいき目を抜きにしても、彼女はとても可愛らしい女の子だ。
クラスにいたらだれもがその笑顔で恋に落ち、ひそかに思いを馳せるような子。
明るくて気安く、それでいて美人なクラスメイトなんて、確実に心を乱す存在だ。
そんな子がしょっちゅう一人暮らしの部屋に来てくれる。
ご飯を作ってくれたり、家事を手伝ってくれたりする。
そこだけ見ると、羨ましがられることかもしれない。
少なくとも、表面だけ見れば。
「冷蔵庫の中身、なんにもないねー。今日、買い物いこっか」
ひまりはコップをふたつ持って、僕のいるテーブルにやってきた。
僕の部屋は普通のワンルームで、部屋の中心にテーブルがひとつ。
僕はノートパソコンを触っていたが、彼女がコップを持ってきてくれたので、机の上を片した。
ありがと、とコップを受け取る。
「そういえば、買い出し行ってなかったね。今から行く?」
「えー? こんなあっつい中、一生懸命帰ってきたわたしに、そんなひどいこと言う~? 勉強終わってからにしようよ」
彼女は唇を尖らせてから、定位置に座る。
ひまり用のクッションにお尻を埋めて、僕を上目遣いで見た。
「さっきの話だけど。浩太郎って、この時間にはいつも家にいるでしょ? 大学ってそんなに早く帰ってきていいの? そんな調子で、ちゃんと卒業できる?」
「できるってば。僕は毎日、一コマから三コマまで取ってるから、早い時間に帰ってこられるだけ。むしろ真面目なほうだよ」
「ふうん? そういうもんなんだ。あーでも、朝早くから大学に行ってるのは浩太郎っぽいかも。真面目っていうかさ」
ひまりはくすくすと笑う。
人の気も知らないで。
僕だって、本当はゆっくり行ける日だって作りたい。
毎日一コマから出るのはそれなりに面倒だし、講義の自由度だって低くなる。
二コマ目や三コマ目から出ている人が羨ましい。
しかし、四コマまで入れると、帰りが夕方以降になってしまう。
僕の帰りが遅ければ、ひまりはうちに寄らないだろう。
うちが「いつひまりが来ても大丈夫」という状態じゃなくなるのは、避けたかった。
そんな気持ちを知らないひまりは、からかうようなことを言う。
「大学生のこーたろーって想像できなかったけどさー。やっぱり、あんまり変わんないねえ」
「…………」
ひまりは気の抜けた笑みを浮かべている。
とても可愛らしい、無邪気なその笑顔が見たいから、僕のスケジュールはこんなことになっているわけだ。
彼女とは長い付き合いだけど、時折、その笑顔が眩しすぎて直視できないときがある。
ごまかすために話を逸らした。
「……そろそろ勉強、しようか」
「はいはーい。今日もよろしくお願いします」
「いえいえ。こちらこそ、いつもお世話になっております」
お互いにぺこりと頭を下げる。
ひまりはスクールバッグから勉強道具をぽんぽんと取り出した。
僕は自分のクッションを持ってきて、彼女の隣に座り直す。
「こーたろー。ここ、今日習ったところなんだけど。イマイチ要領つかめなくて。教えて?」
「はいはい。どれ? あー、これはね……」
彼女に教科書を差し出されたので、そのページを覗き込む。
「前の応用とさほど変わらないよ。まず、ここの数字を見るでしょ」
「ふんふん?」
ひまりも同じように、教科書を覗き込む。
肩がぺったりとくっつき、彼女の体温が僕の肩に移っていく。
すっかり女の子らしくなった身体はとてもやわらかく、押し付けられるたびに理性がどうにかなりそうになる。
さらに、彼女が動くたび、髪が僕の腕や肩を撫でた。
それがくすぐったくて、同時にどこか心地よかった。
シャンプーの香りがふわりと浮かび、穏やかな気持ちになる。
「あ、なるほど! そういうことか~。ありがと、わかった!」
ひまりは距離が近いまま、顔を上げて笑みを見せる。
可愛らしい顔が、さらに花のような美しさを見せた。
いい香りがするから、本当に花が咲いたかのようだ。
彼女は肩をくっつけたまま、問題集を解き始める。
僕はそっと身体を離し、読みかけの本を手に取った。
ひまりは、問題がわからなかったり、訊きたいことができれば僕を呼ぶ。
その間、僕は本を読んだり、自分の勉強をしたり。
好きな人と過ごす、穏やかでのんびりした時間だった。
とても幸せだった。
この時間を得るためなら、朝早く大学に行くことは何の苦労でもない。