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ジャカルタ事変 2014   作者: 相鵜 絵緒
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 「抱っこしましょうか?」


 本当に困っているように見えたので、まみは立ち上がって男性から赤ちゃんを自分に渡すように、と手を差し伸べた。

 男性は、突然の声掛けに驚いた後、疑うような眼をしながらも、本当に困っていたのだろう、「ためしに」という気持ちで、抱っこひもを外すと、泣き止まずにいた赤ちゃんをまみの方にそっと差し出した。

 さすがのまみも、隣に座っている甥っ子の瑛斗のようにはいかないだろう、と覚悟はしていたものの・・・男性より女性の方がマシだったのか、抱き方が好みだったのか、はては泣き疲れていたタイミングだったのか・・赤ちゃんは意外にも泣き止んだ。

 その様子を見た男性は、ビックリしながらも


「ありがとう。」


と、心底ほっとしたような顔をして、お礼を述べた。


「どうしていいのかわからなかったんです。声をかけていただきありがとうございます。」


 彼は、そのスーツに全く似合わないマザーズバックを肩にかけなおした。


「あの、まだ搭乗まで時間もありますし、良ければしばらく抱っこしていますので、今のうちにやっておきたいことがあれば、・・・例えばトイレとか、簡単な買い物とか・・・。どうぞ行ってきてください。」


 まみの申し出に、男性はまたビックリした顔をした。


「いいんですか?本当に助かります。ありがとうございます。では、すぐに戻りますので、お言葉に甘えさせていただきます!」


 最後まで言い終わるか終わらないかのうちに、彼はトイレに駆け込んで行った。


(赤ちゃん見てると、トイレに行くタイミング、難しいよね・・・)


 あまりに素早く去っていった男性の後ろ姿を見ながら、まみは同じ育児担当者として軽く同情した。


「お父さん来るまで、少し待っていようね。」


 名前も知らない赤ちゃんに向かって、まみはそっと微笑んだ。赤ちゃんは、自身の右手親指をちゅっちゅとしゃぶりだし、ご機嫌な様子だった。その様子に安心したまみは、


「赤ちゃんと一緒に待っていようね。瑛斗、お兄ちゃんだ!」


 と、隣で見上げていた瑛斗に話しかけた。すると瑛斗は「お兄ちゃん」のワードにパァッと顔を輝かせて、


「えぇと、おにいたん!」


と繰り返した。


 羽田空港の国際線ロビーで、まみ達は今、ジャカルタ行きの便を待っているところだ。先にトイレに行っていた、まみの姉のあゆみが、コンビニの袋を持って戻ってきた。


「あれっっ?赤ちゃん増えてる!」


 あゆみは、まみの腕の中で落ち着いている赤ちゃんに目をとめ、驚いた顔をした。


「えぇとね、おにーたんなの!」


 瑛斗が嬉しそうに説明する。


「なんだか頼りないお父さんが、あまりにも赤ちゃんを泣かせているのを見ていたらしのびなくって・・・。早くお母さんに渡してあげればって願っていたんだけど、いっこうにお母さんらしき人が現れなくって。もう赤ちゃんがかわいそうで・・・。おせっかいとは思ったんだけど、つい・・。」


 まみが申し訳なさそうな顔であゆみに話すと、


「まみっぽいわ。」


 と、あゆみも苦笑した。

 すると、


「お世話をかけて申し訳ありませんでした!」


 かなり急いで走って来たようで、さきほどの男性が息を切らせながらまみに謝罪した。

 コンビニの袋も持っていたので、きっと買い物もできたのだろう。そのことに少しほっとしたまみが


「いえいえ、お役に立てたなら嬉しいです。育児中の仲間のお手伝いができてよかった。」


 と言い、安心させるように


「とっても良い子でお父さんの帰りを待っていましたよ。」


 とほほ笑んだ。

 男性は、その笑顔に少し見とれたような表情をしたが、すぐに持ち直すと


「ありがとうございました。見ず知らずの方に、甘えてしまって・・・。僕は、本当に育児初心者で、晴斗はるとに・・・あ、この子の名前なのですが、泣かれてしまうと本当にどうして良いのかわからなくなってしまうんです。情けないですよね。」


 と、心底情けなさそうな声で言った。しかし、パッと顔を上げて


「でも、晴斗の頼れる人間は僕だけなので、頑張ります。」


 そう言うと、まみから晴斗を受け取ろうと手を差し出した。


 まみは、晴斗をそっと男性に渡そうとして、その時に初めて男性の顔を間近で見た。眉毛に当たりそうな黒い前髪は少し長めで、伏し目がちに赤ちゃんを見つめているその睫毛は意外にも長かった。158センチのまみの身長に合わせるように、長身の彼はかなり体をかがめて大事そうに晴斗を抱き寄せようと・・・


「ぎゃぁぁぁぁ~!」


 晴斗が、この世の終わりかと思うほどの拒絶の声を張り上げて、力の限りまみの服をつかんで離さなかった。今まで落ち着いていたので、不意を突かれた男性はビクッと体をこわばらせ、まみも同時にビクッとした。


「は・・・晴斗・・・。」


 男性が情けない声で晴斗を呼び、もう一度引き寄せようとするも、晴斗は依然として大声で泣きわめき、まみの服をいっそう強くつかんで離さない。


「・・・。」


 そこで、様子を見ていたあゆみが


「あのー・・・、まみ、もう少しだけ抱っこしてあげたら?晴斗君が落ち着くまで?」


 そう横からそっと助言した。まみはそれでも構わなかったが、男性の方が恐縮しているうえ、どうしたらいいのかわからなくなっている。


(晴斗君泣いたら、ほんとにどうしていいのかわかんないんだなぁ。)


 まみは、このスーツ姿の男性を少し可愛く感じて、


「良ければ、少しの間、晴斗君抱っこさせてもらえませんか。私、赤ちゃん、大好きなんです。」


 と笑って聞いてみた。

 男性は「そこまで会ったばかりの他人に甘えてよいのか」と躊躇していたが、「晴斗が泣いていない状態が一番だ」と割り切ったようで、


「本当に申し訳ありません。もう少し・・・じゃあ搭乗時間が来るまで、お願いします。」


そう言いながら、まみに向かって真剣な顔で頭を下げた。



 その後、そのままなんとなくまみと男性は近くに座ることとなった。

 彼から改めて抱っこひもを借り、ベルトを調節して晴斗をしっかり抱っこしてから座る。


「晴斗くんは、今何か月なんですか?」


 まみが男性に瑛斗と反対の隣に座るよう、目で合図すると、男性も指定された椅子に座った。


「十二月生まれなので・・・十ヶ月ですね。生まれた日には雪が降っていました。」


 男性は言われたとおりに座りながら、優しそうな笑顔で、当時を思い出しながら話し出した。


「立ち合い出産されたんですか?」


 そんなに詳しく覚えているのなら、きっと一緒に出産の場にいたのではないかと考えてまみが聞くと、


「いえ、僕は立ち会ってはいないのですが・・・病院へ行くまでの道が雪で込み合っていたのでよく覚えているんです。その時は車で、私の母を同乗させていたのですが、早く孫の顔が見たい、と急かされまして。そうは言ってもどうしても車はゆっくりとしか進まず、やきもきしました。」


 男性は、困ったような笑顔でそう言った。

 まみは話している男性の顔をよく見ると、思ったよりもずっと整った顔をしていることに気がついた。赤ちゃんにばかり気を取られていたけれど、さきほど気づいた長い睫毛といい、すっと通った鼻筋といい、ちょっと日に焼けた肌も、なんだか男らしい。


「そちらのお子さんは・・・。」


 男性がまみの隣をひょいっとのぞき込むようなかたちで、瑛斗達について尋ねてきた。


「あ、私の姉と、姉の息子の瑛斗えいとです。瑛斗、何歳になったんだっけ?」


 最近、歳を聞かれると右手で3を作って人に見せ、褒められるのが嬉しい瑛斗は、今回も誇らしげに3を見せた。


「すごいね。」


 男性に褒められて、まんざらでもない瑛斗を横目に見ながら、


「これから姉の赴任に付き添って、ジャカルタへ行くんです。私も帯同家族として主に瑛斗の面倒をみる係で。瑛斗はあちらの日本人幼稚園に入園する予定なので、送り迎えなども含めて家事全般が私の仕事です。」


 と、まみが話すと、男性は驚いたように


「じゃあスカルノハッタ行きの便ですか?」


 と身を乗り出してきた。


「えぇ、そうですけど・・・。」


 まみが晴斗ごと体を後ろに引くと、男性は近付き過ぎたことに気づいて慌てて身を引き、


「すっっすみません。いや、僕たちもこれからジャカルタへ帰るところだったので、・・・なんだかご縁がありますね。」


 男性はふわっと笑いながら嬉しそうに言った。


「「帰る」ということは、今ジャカルタにお住まいなんですか?」


 まみがびっくりして聞き返すと、


「そうですね。えっと・・・この四月からの赴任なので、僕もまだ半年ほどの新参者ですが。」


とどこか少しだけ誇らしそうに答えた。


「今は晴斗のことで、助けていただいていますが、今後どこかでお助けできることがあるかもしれません。」


 男性はいたずらっぽい表情でまみに向かって笑って見せた。

 その時ちょうど、まみ達が乗る予定の飛行機の優先搭乗を開始開始するアナウンスが流れ始めた。


「でも・・・。」


 男性がまた晴斗に手を伸ばそうとしながら言葉を続ける。


「まだしばらくは、こちらが助けていただく時間が続きそうです・・・。」


 晴斗はさきほどと同じように、まみの服を掴み、男性の手から逃れようと男性と逆側、つまり瑛斗の方へ身を寄せた。


「えーっと・・・。この後の飛行機はどうしますか?」


 まみが晴斗の方を見た後、男性に顔を向けて問うてみる。


「・・・今更ですが、本当に申し訳ありません。晴斗が泣かないでいてくれるのなら、お願いできるとありがたいのですが・・・。」


 男性がまた情けなさそうな顔になる。


「そうは言っても、7時間半のフライト時間中、ずっと抱いていてもらうのも忍びないので・・・。何とか僕も頑張ってみようとは思っています・・・。お願いできないでしょうか?」


 まみは、瑛斗が産まれてから2か月で仕事復帰したあゆみに代わり、瑛斗の子守を担当してきた。なので、何時間でも赤ちゃんの相手をしていられる自信はある。とは言え、さすがに初対面の赤ちゃんに対しては、自分のスキルが通用するのかわからない。でも、この本当に頼りないお父さんに晴斗君を預けることの方が、晴斗君もお父さんもかわいそうな気がして・・・。


「わかりました。瑛斗にはお姉ちゃんが専属でついているし、私が晴斗君をみる余裕もあると思います。でもやっぱり初対面なので、瑛斗のようにうまくできるかはわかりませんが。それで良ければお手伝いさせてください。」


 まみが決心して言うと、男性は、心底助かった!という顔をしながら


「ありがとうございますっっ!」


と勢いよくまみにお礼を告げた。

 まみは、隣で聞いていたであろうあゆみに、この後のフライト中も晴斗を預かる旨を一応報告した。そして、あゆみからの同意を得、


「では、私たち、優先搭乗で飛行機に乗る予定ですので、ご一緒にどうぞ。」


と言いながら、足元のリュックを持ち上げようと手を伸ばした。すると、それに気づいた男性が、まみより先にそのリュックを持ち上げた。


「このくらいしかできませんが・・・。荷物はこれ以外にありますか?」


 男性は、自分のマザーズバックをかけている反対の腕にまみのリュックをかけ、他に荷物はないか足元を確認した。そして、まみが座っていた座席に薄手のカーディガンがかかっていることに気づき、スッと手に取った。


 目で「君の?」と聞き、まみが頷いたのを見ると、ふわっと広げて、まみの肩にかけてくれた。両手を晴斗にふさがれていたまみは、とても助かり、こちらはふんわりと笑う。


「ありがとうございます。」


 まみの笑顔にまた男性は微笑み返す。


「こちらこそ。では、しばらく、空の上でもよろしくお願いいたします。」



 飛行機での座席は、近くの人の厚意により、なんとかみんなが近くに座ることができた。とは言え、5人全員が並んで座るのは厳しいので、2列席の前列に瑛斗とあゆみ、そのすぐ後ろがまみと、まみの膝の上に晴斗、そしてまみの隣が晴斗のお父さんだ。飛行機も無事に離陸し、瑛斗はさっそく窓から外を眺めて上機嫌だ。


「ところで、・・・お名前なんですけど、何てお呼びしたらよろしいでしょうか。」


まみがこの後も機内で共に晴斗をみていくのであれば、名前くらい聞いても良いだろうかと、聞いてみると。


「あっっ。申し遅れました。僕は伊藤将生いとうまさきと申します。この子は伊藤晴斗いとうはるとです。・・・あの、僕もお名前をお聞きしてよろしいでしょうか。」


と、質問返しされてしまった。


「こちらこそっっ、先に名乗ればよかったですね。」


なんだかとても失礼なことをしてしまったように感じたまみは、焦って自己紹介をする。


矢野やのまみです。前にいるのは姉の藤木ふじきあゆみと瑛斗えいと。私たちの母親は横浜で一人、待っているというか、仕事が辞められなかったので帯同できずに住んでいます。瑛斗は九月生まれなので、最近3歳になったばかりです。お話も上手になってきて、この前やっとオムツがとれたんです!3歳になったばかりなのに、すごくないですか?」


 自己紹介から話がそれて、最近の一番のトップニュースを披露したところで、この話題は3歳児の育児をしている者にしかすごさが伝わらないことに気づき、はっとする。


「す・・・すみません。オムツの話なんか・・・。」


 照れて赤くなるまみを見て、将生はふっと笑顔になった。


「いえいえ、オムツ問題は、育児者にとっては重大な話題です。晴斗のオムツがいつか外れる時がくるのかと思うと、感慨深いですよ。」


 将生のフォローにほっとする。


「そうですか。なんとなく、ママ友達とは子どもの話をするとすぐに仲良くなれるので、育児仲間の伊藤さんとも、そんな話をしてしまいました。」


 子どものこととなるといくらでも話せてしまい、自分のことそっちのけになってしまう「親あるある」である。


 照れ笑いをするまみに、将生は


「僕にとっては矢野さんが初めてのママ友です。いろいろご指導いただけるとありがたいです。」


と軽く頭を下げながらお願いした。


「そんなたいそうなものじゃないですけど・・・。」


と慌ててまみは顔の前で手を振りながら、


「でも、たしかに3年間、姉のあゆみに代わって瑛斗をみてきているので、ちょっとは先輩ですかねぇ。あ、姉は生後2ヶ月で仕事復帰したバリバリのキャリアウーマンなんです。だから、瑛斗と日中いるのは私の方が長いくらいで。もし、何かわからないことがあれば、聞いてもらっても構わないですよ。初めての育児は、わからないことばかりで、不安だらけですもんね。」


 そう将生を安心させるように言った。その心遣いが嬉しかった将生は、少しだけ、自分のことも話してみたくなった。


「はい。ありがとうございます。実は、諸事情あって、急に僕一人で晴斗の面倒をみなくてはいけなくなったんです。というのも、いつも面倒をみている晴斗の母親が入院し…」


 将生が全部言い終わる前に、晴斗が急に泣き出した。まみはびっくりして抱っこひもを外し、晴斗の顔を見て、それから服をめくって紙オムツのラインを確認した。すると、何も無ければ黄色いはずのラインが、しっかり緑色に代わっている。心なしかオムツじたいも膨らんで、重たくなっているようだ。


「オムツの替えってどこにありますか?」


 まみが将生に聞くと、


「ここにあります!」


 将生が勢いよく答え、前の座席の下に入れてあったマザーズバックから苦戦しながらなんとかオムツとお尻ふきを出した。


(ここで、お尻ふきも出てくるところが、新米パパにしては上出来だ!)


 なんて、将生のパパぶりを採点しながら、まみは晴斗を抱き上げ、オムツとお尻ふきを将生から受け取ると、ちゃんとシートベルトサインが消えてることを確認してから、将生の前を「失礼!」と言ってさっと通り抜け、トイレに駆け込んだ。



 赤ちゃんとは言え、他人の子どもの下の世話を戸惑うことなく引き受けてくれたまみに、将生は一瞬頼もしさと、嬉しさと、肩の力が抜ける思いを感じた。この子を守れるのは自分しかいない!と思い込んでいた気持ちが、ふっと楽になったのだ。


 本当のことをいうと、晴斗は将生の子どもではない。兄の祐樹ゆうきの子なので、正確に言えば甥だ。


 祐樹と将生の父親が早くに亡くなったので、二人は力を合わせて、母親を支えて生きてきた。母親も昔から足が悪く、苦労して自分たちを育ててくれているのを知っていたので、二人は自然と喧嘩をすることもなく、仲良く育っていった。

 そのせいか、兄の祐樹が結婚して家を出てからも、兄の家には顔を出すことが多かった。晴斗の出産時も、たまたま実家にいた将生は、母親を病院まで送っていくことになり、生まれたばかりの晴斗に会うこともできたのだった。生まれてすぐの赤ちゃんを見たのはそれが初めてで、とても嬉しそうな兄や義姉、そして母を見ていると、将生も嬉しい気持ちになり、幸せの象徴のような存在の晴斗のことをそれからずっと可愛がっている。 


 この四月にジャカルタへ赴任するまでは、ちょこちょこ兄の家へ寄っては、晴斗の顔をみて、その成長のはやさにビックリしながらも愛しさを感じていた。ジャカルタへ出発する前日も、晴斗の顔を見に行き、


「また晴斗の誕生日の頃、会いに来れたらいいなぁ」


 と兄に話していた。晴斗は12月生まれだから、年末年始の休みに合わせて、一時帰国するつもりだったのだ。

 兄は、


「その頃には、すっかりお前の顔を忘れているよ。」


と笑いながら言っていた。赤ちゃんの記憶は儚いらしい。こんなに可愛がったことを忘れられるなんて、意地悪なことを言うな、と思っていたら、


「だから、その前にでも、いつでも帰って来られるときには、遠慮なく帰って来いよ。」


 と続いた。

 兄なりにこれから異国の地で働く弟を心配していたようだ。

 その気持ちが嬉しくて、こちらも微笑みながら


「兄さんも、いつでも家族連れて遊びに来てください。美味しい・・・かどうかはまだわからないけれど、インドネシア料理を御馳走するよ。」


と答えておいた。

 実際インドネシアの首都ジャカルタでは、インドネシア料理だけでなく、さまざまな国の料理を楽しむことができているので、きっと何かは兄家族の口に合うものもあるだろうと思っていた。

 兄にその話をしたら、近いうちに遊びに行きたい、と言ってくれ、思い立ったら即行動の兄らしく、すぐパスポートを取り直していた。まさか、本当に年末年始の休みの前に、自分が私用で一時帰国することになるとは。兄と笑顔で別れたその時には思いもよらなかった。



「晴斗くん、ちゃんと大きい方もしてましたよ!」


 嬉しそうなまみの声で、将生ははっとして、自分の思い出の中から浮上した。


「食べたら出さないと。それができていれば、元気でいられますからね。」


 まみは将生の前をまた通ろうと、晴斗をしっかり抱きしめ直した後、将生の膝に触れながら座先に座った。さっきは、急いで体を小さくして、まみがトイレに行くのに邪魔にならないよう動いたのだけれど、今は気持ちに余裕があるからか、まみがゆっくり自分の膝に触れながら前を通ることに、少しドキリとした。若い女性ならではの、柔らかくて心地よいふくらはぎが自分の膝に当たり、何となくそわそわした。


「オムツの処理までしていただき、ありがとうございます。」


 将生がお礼を言うと、まみは何でもないことのように


「いえいえ、瑛斗と同じ男の子だったので、やりやすかったですよ。これが女の子だと、ちょっとどうしていいか迷ったかもしれませんが。」


 と笑顔で答えてくれた。将生としては、男の子と女の子と、オムツ替えに必要な技術が違うのかよくわからなかったけれど、そこを突き詰めていくと、男女の下半身の違いについて話し始めるということになり、なんだかえらく恥ずかしい事態になりそうだった。だからそこにはあえて深く突っ込まないことに決めた。なのに・・・


「あ、女の子だと割れ目にモノがつかないように注意しないといけないみたいですよ。ママ友が教えてくれました。男の子は、ちょいっとどければ、尿道にモノが入ってしまうことがないから楽ですよね。」


 可愛い顔をしているのに、下の話をどんどんしてしまうまみに、将生はどう反応してよいかわからなかった。まみは続ける。


「瑛斗は男の子だからそのあたりが楽で。晴斗君が女の子だったら大変でした。自分も同じ構造のはずなのに、オムツ替えは女の子の方が緊張してしまいそうです。」


 にっこりと笑うまみに、将生としては「割れ目」とか「自分も同じ構造」のあたりでまみのモノを想像してしまいそうになり、慌てて思考を停止させた。若い女の子がいいのか?こんな話!と、まみのことが心配になる。今まで自分にこんな話を振って来た女の子なんていなかった。


「・・・そういうものなんですかね。」


 自分でも、無難としか言いようのない返事をしてみた。するとまみは、


「そういうものなんです。それはそうと、晴斗君の離乳食はどのくらいの段階なんでしょうか。」


 と、続けた。話題が変わったことに、将生は心底ほっとした。このまま下の話が続いたら、彼女に逆に恥をかかせてしまいそうだった。というか、これはなんというか、今までに会ったことのないタイプの子で、そのうえ、今までにしたことのない話題を振られる。


「りにゅうしょくのだんかい?」


 聞いたことのないワードに聞き返すと、まみは、


「はい。赤ちゃんはお母さんのおっぱいかミルクしか飲めないですよね。それをだんだん大人が食べているような固形物を食べられるように、柔らかいものから慣らせていくんです。だいたい5~6か月くらいから始めて、少しずつ固いものへ進化していきます。今、用も足したし、今度はお腹がすいてくると思うので。機内食でも、赤ちゃん用の食事が出ることありますよ。伊藤さんは、晴斗君用に何か食べ物を持ってきてますか?」


 と、将生にとってわかりやすい説明をしてくれた。


「えっと・・・正直にいうと、恥ずかしながら晴斗のことはよくわかっていなくって・・・。あ!このバックは晴斗の母親が出かけるときにいつも使っていたものだから、何が入っているのか見てみたら、何かわかるかもしれません!」


 将生は先ほどのバックをまた引きずり出して、中に入っているものを一つずつ出して確認してみた。このバック(世にいうマザーズバック)は、病院にあった義姉の物で、晴斗を引き取ると決心した時に、彼女の了承も得ず、勝手に拝借したものだ。

 そういえば中身をよく確認していなかった。今までの晴斗の食事は、このバックに入っていたミルクと同じメーカーのものを見つけて大量に購入し、それを缶に書いてある分量と回数飲ませるだけで、なんとか済ませていた。

 もう大人と同じものを食べる練習をしている段階だなんて、考えてもみなかった。


 晴斗用のマザーズバックには、ミルクのほかにも数枚の着替えがジップロックの中にきれいに入れられていたり、母子手帳や保険証、病院の診察券などもバックの内ポケットにきれいに収まっていた。オムツも数枚、大量のビニール袋とティッシュ。よく見ると、小さなミニカーも入っており、確かに今の晴斗に必要な物が詰まっていた。先ほどと違う内ポケットを開けてみると、粉々になったお煎餅やボーロが出てきた。それを出してみると、横からまみが顔を近づけて、


「あ、このお菓子を食べているっていうことは、たぶん月齢に合った離乳食段階だと思いますよ。」


 と教えてくれた。まみが近づいた分、晴斗も将生に近づき、いつも食べていたお菓子が目に入った晴斗はすぐに手を伸ばして、お菓子をつかもうとする。


「あげても良いですか?」


 まみが将生の目を見て聞いてきた。


「もちろん良いですよ。僕の判断とか聞かなくて良いので、食べたいもの食べさせてあげてください。」


 将生がそう答えると、まみが真面目な顔をして言った。


「晴斗君の全責任はあなたにあるんです。そんな軽はずみに他人に全権与えてはいけません。」


 その言葉は、将生をとても驚かせた。


「なんて、偉そうにすみません。ママ友と子どもを遊ばせる時も、私はできるだけ子どものお母さんの気持ちを優先するようにしてるんです。食べるものなんか特に、最近はアレルギーもありますから。同じ月齢で、自分の子が食べているからって同じ感覚で他の子にあげるのも、お母さんとしては嫌な気持ちになったりします。それぞれの家庭のルールと言いますか。」


 最初はいかめしい顔をしていたまみも、最後にはにっこり笑顔になって将生に言った。

 優しそうな雰囲気のまみだが、言うことはしっかり言う性格らしい。特に、こと育児のことになると譲れないものがあるようで。なんだか小さいお母さんのような頼もしさを将生は感じた。真剣な顔で話を聞いていた将生に、まみも『ちゃんと話を受け止めてもらえたようだ』と感じたらしい。


「あげても良いですか?」


 まみが将生の目を見てもう一度聞いた。将生は今度は間違えないぞ、と思いながら、


「良いですよ。お願いします。」 


 と答えた。全責任が自分にあるのならば、やってもらって当たり前ではなく「お願いします」も言うべきだと思ったのだ。その回答はまみにとって満足のいくものだったらしい。まみは満面の笑みで将生の顔を見ながら答えた。


「わかりました。」


 自分の回答が正解だったことに安堵しながら、将生は別ことに気を取られていた。

 久しぶりに女の子の笑顔に吸い寄せられた。これは・・・ちょっと・・・やばい。

 晴斗が喜んでお煎餅を食べる様子を横目で見ながら、将生はトクトクといつもより早めに打つ鼓動に、誰よりも動揺していた。



 まみは、晴斗にお煎餅を食べさせながら、そういえばさっき、奥さんが入院したと話していたな、と晴斗のオムツ替え前に聞いた話を思い出していた。諸事情、と言っていたけれど・・・、それはインドネシアでのことだろうか。聞いても良いのだろうか。でも、かなりプライベートなことだから、あんまり根掘り葉掘り聞きだすのは良くないだろうな。と消極的な結論に至った。

 後々、この時によく話を聞いておけば、これから起こるトラブルも、自分自身の悩みや誤解も少なかっただろうということを、この時のまみは知らないのだった。



 その後も晴斗を中心に、まみと将生は協力しながら機内を過ごしていく。

 機内食は、客室乗務員の機転により、赤ちゃん用という離乳食のご飯が出た。晴斗にまみが食べさせている間に、大人のご飯も運ばれてきて、将生は肉の洋食を、まみは魚の和食を選んだ。コップに入ったお茶が、晴斗によってひっくり返されないかに気を付けながら、大人二人も食べ始める。


 将生が食べ終わったことを確認したまみは、ちょうどバナナに気を取られている晴斗を、バナナごと将生に渡すことに成功すると、急いでご飯をかきこみ始めた。将生は、一心不乱にご飯を食べるまみにビックリしつつ、世のお母さんはすごいなぁ、と感心していた。


 その時、晴斗が持っていたと思われるバナナが将生の膝の上に落ちてくる感触がした。他人のことを気にしている場合では無かった!と慌てて晴斗に意識を戻すと、意外にも晴斗はウトウトと船を漕いでいた。このままそっとしておけば、眠ってくれるかもしれない。そう思った将生は、バナナを拾うこともせず、辛抱強く同じ姿勢のまま晴斗が寝てくれるのを待った。そのかいあってか、晴斗はそのまま目をつむって眠ってくれたようだ。


「矢野さん!矢野さん!」


 将生は精いっぱいのひそひそ声でまみを呼び、晴斗が眠ったことを伝えようとした。まみは口いっぱいにご飯を頬張っていたおかげで、大きな声を出さずに将生の方を向き、将生が目で晴斗の眠りを指しているのを見て、ごくりとご飯を飲み込んだ後言った。


「寝てくれましたね~!」


 こちらもひそひそ声である。将生と目を合わせてにっこり笑うと、そのままバナナが将生の膝の上に落ちていることに気づく。あら!という顔をして、まみはバナナを将生の膝から拾うと、自分のカバンからタオルを出してスーツをぬぐい始めた。将生は突然自分の太ももを他人にさわられ、こすられることになったものだから、


「うわっ!」


 と声を出し、びくりと反応してしまった。それに対して、バナナの跡しか見ていないまみは、一度顔を上げて将生に


「しーっ!」


 と注意した後、またしても将生の股近くにあるバナナの跡と格闘し始めた。将生はこくこくと頷いて、静かにすることを約束したものの、これまた自分の意志と反したところが反応しそうで怖い・・・。


「も、もう良いです。だ、大丈夫ですから・・・」


 情けないひそひそ声で将生はまみの行動を止め、もぞもぞと座りなおした。晴斗を上手に抱えなおして、『あそこ』がまみから見えないように調整する。


 たしか、ある友人が飲んでいた拍子に、「マッサージ屋に行ったときに、太もも付近をマッサージされると、『あそこ』が無条件に反応してしまう」という話をしていたな、と思い出す。


 まさにそうだ!と将生は、あの時は全然関心のなかった事柄に、心の底から同意した。これは、ただの生理現象だ、恥ずかしいことじゃない!と自分を正当化しようと考えていた時だ。


「そうですか・・・。ふふっ。 はっあはは。」


 まだ拭き足りないまみだったけれど、そんなことはおいといて、とまみは突然笑い始めた。

 将生は、自分の反応に気づかれたのかと、いったん青ざめたものの、続く言葉に安堵した。


「や、突然、すみません。・・・ふふふっ。いや、あの、 ふふっ、晴斗君、バナナ食べた後に眠り始めたっていう。 ふふっ。なんていう食い意地かと思うと・・・なんだか笑えてきて・・」


 そういうと、まみはごめんなさい、と言いながらそれでも止められないようで、肩を震わせて笑い出した。大きな声を出してはいけない、という縛りが、よけいに笑いを呼び起こすようだ。


「ふふふっっ・・・。あははは・・・。」


 本当におかしそうに笑うまみを見ていると、将生もつられて笑いたくなってくる。


「ちょっ・・・っははっ・・矢野さ・・・ふはっ・・・そんな笑うの・・くくっ・・・」


 将生は、ついさっきまで自分の頭を占領していた不埒な考えそのものもおかしく感じ、もう何を言ってるかわからないくらいに笑えてきて仕方なかった。


 まみと将生は、顔を見合わせては、また笑いのループに入るということを繰り返し、とても苦しい思いをした。前に座っているあゆみが何事かと思って後ろの様子を伺うくらいには、不審な二人である。

 まみが、「大丈夫、大丈夫」とあゆみに手を振ってジェスチャーするのだけれど、全然大丈夫そうではないのに、そんなジェスチャーすることもおかしく感じて・・・箸が転げてもおかしいなんとやらの年代は過ぎているはずなのに、二人は笑い続けた。

 寝てる晴斗が起きないようヒヤヒヤしながらも、笑うことをやめられない二人であった。まみは、笑い転げながら、くったくなく一緒に笑っている将生の笑顔が素敵だな、と心のどこかで思ったけれど、すぐにその気持ちには蓋をした。




「っはぁ~・・・笑った、笑った・・・」


 また、少しでも気を抜くと笑いだしそうになる自分を抑えながら、将生が一息つきながら言った。もちろん小声である。


「大声出して笑ってはいけないって設定が、余計笑えちゃうんですよね・・・。ふふっ。」


 まみも落ち着いてきたものの、やっぱりどこかに笑いの種は残っている気がする。こちらも小声で返す。


「ちょっ・・・・もうやめてくださいよ。矢野さんの笑いは、周りを巻き込みますからね。」


 厳しめの突っ込みだが、一緒に笑いあったせいか、お互いに少し距離が近くなった感じがしているので、まみも受け流す。


「伊藤さんが笑ってくれたので、より一層楽しかったです。」


 にっこり笑ってまみが言うと、将生もにっこり笑って、


「こんなに笑ったのはいつぶりだろう。僕も楽しかったです。」


 と返した。そして、


「せっかく晴斗が寝てくれているので、矢野さんは少し好きなことをして休んでください。空港からここまで、重たい思いをさせて申し訳ありませんでした。」


 と続けた。まみにとっては、瑛斗よりずっと軽いのに、という感覚ではあったが、確かにこのところ瑛斗をずっと長時間抱っこし続けることがなかったからか、久しぶりの長時間抱っこに少し腕が疲れているようにも感じた。


「そうですね、少しだけ休ませていただこうかな。晴斗君起きたら、また抱っこできるように、体力を回復させますね!」


 そう言って、頭を座席の後ろにあてると、ゆっくり目を閉じた。もともと乗り物内で本を読むと酔ってしまうまみは、映画やゲームといったものよりも、ただ目を閉じて休むことを選んだのだ。

長いフライト時間中、ゆっくりできる時間はどれくらいとれるだろう・・・。



 隣で突然目を閉じて、この呼吸音からするに眠っているのではないかと思えるまみの行動に、将生は驚きながらも、興味を感じずにはいられなかった。そして、まみが寝ているのを良いことに、その顔をじっくり観察させてもらうことにした。


 顔は卵型で、肌がみずみずしいところから、きっとまだ20代前半だろう、化粧もあまり濃い感じはせず、ナチュラルな感じがする。髪は黒いまま肩までの長さで、染めてもいないようだ。前髪がアシンメトリーで、左眉の上だけ少し短くなっており、きれいなアーチを描いている眉が両方とも出ている。目を開けているときは、元気いっぱいな様子なのに、寝ているととてもおとなしい印象を受ける。一般的に言って・・・というか、将生の基準でいくと、間違いなく可愛い子だ。


 ここのところ、辛いことが続いていたが、やっぱりどこかで神様がみていてくれるのだろうか。まみと空港で出会えたことは、将生にとっては久しぶりの幸運と呼べるものだった。



 この後、スカルノハッタに着いたら、いつもの運転手さんが待っていてくれることになっている。

 家にも、普段は夜には来ないけれど、今日だけはお手伝いさんが待機してくれるように手配した。


 前任者からそのまま引き継いだお手伝いさんは、週に3日(月・水・金)、午前中に将生の家に来て、洗濯と掃除をしてくれている。この国では、未だにお手伝いさんや運転手さんが職業として根付いているのだ。

 単身でこの国に来た将生としては、ありがたく感じる一方、家に他人が入ることに多少の戸惑いがあった。だが、少しでも多くこの国の経済に貢献するためには、お手伝いさんを雇うのは必須だと前任の先輩に言われ、言われたとおりにしている。


 とは言え、これまでは鍵を渡して午前中に来てもらっているため、日中に仕事をしている将生とお手伝いさんは、あまり鉢合わせしたことがない。家事はしっかりしてくれているし、物を盗られたこともないので、将生は今のお手伝いさんに不満はない。


 ただ、今回晴斗を受け入れるに当たって、ベビーシッターを新たに雇わなくてはならない状況に、少してこずってもいる。

 今までのお手伝いさんに、週5日、午前中だけでなく毎日通ってきてもらいたい、と伝えたところ、


「自分は他の日(火・木・土)には違う家の仕事をかけもちしていて、週5日通うことはできない」


と断られてしまったのだ。しかも、


「自分は家事は得意だが、ベビーシッターは難しい」


とも言われている。


 インドネシアにいる日本人の上司に聞いてみたところ、(上司は家族連れでジャカルタに暮らしている)、彼の奥さんに言わせると、ベビーシッターと家事全般をこなすお手伝いさんは別である、ということだ。

 もちろん兼ねている人もいるけれど、シッターとして英語ができたり、日本語ができたりする人は少なく、雇用費用も高くなるそうだ。

 良さそうな人を探しておいてくれる、とその奥さんは言ってくれているのだが、こんな急に、日本語のできるシッターさんが手配できるとは限らない。せめて英語は使える人でお願いしたい、とだけ要望は伝えてみたが・・・。


 シッターさんと面接したり、信頼関係を築いたりするのには、時間がかかりそうで、正直うんざりしている。今の自分の生活に、赤ちゃんが一人増えるということは、どれだけ大変なことなのか・・・。

 将生は想像するだけで肩が落ちそうだが、大事な兄の子どもだと思うと、頑張らねば、とも思えてくる。彼は彼で闘っている。彼が勝ち上がってくるまでは、晴斗を守るのが自分の役目だ。



 そんな将生の左の肩に突然重みを感じた。ビックリしてそちらを見てみると、まみが、いつの間にか自分の肩の近くまできていたらしく、ついに力尽きて将生の肩におりてきたようだ。

子どものような寝顔に、自然と笑みが浮かんでくる。

 それまで自分はどうやら険しい顔をしていたようで、今微笑んだことで、顔の筋肉がすごくゆるんだ感じがする。肩にもたれてくれるなんて、自分が男として頼られているようで、なんだかくすぐったい。腕には赤ちゃんの温かさ、肩には可愛い女の子の重み。27歳、独り身の男にはなかなか味わえない貴重な体験に、将生は少し幸福を感じていた。



 ふと目覚めると、誰かの肩を借りていた。はっと体を起こし、相手の顔を見上げると、将生が笑顔で振り向いてくれた。


 「おはようございます。」


 まみは、自分がどのくらい眠っていて、いつから肩を借りてしまっていたのかを全然思い出せずに慌てて言った。


 「す・・・すみませんっ!重たかったですよねっ!」


 見ると、将生の腕の中では、まだ晴斗が眠っている。声が大きすぎなかったか、すぐに自分の口に手を当てて、まみは今度は小声で


「・・・どのくらいご迷惑おかけしちゃってましたか・・・?」


と聞いてみた。すると、将生は


「えーっと・・・5分くらいですかね。大丈夫です。矢野さんが少しでもゆっくり休む時間のお手伝いになったのなら、良かったです。」


 と答えた。本当は5分なんてものではなく、15分は軽く超えていたけれど、将生としては幸福な時間だったし、まみに気を使わせるのは悪いし・・・何より気に病んで今までみたいに接してもらえないのはいやだな、と思ったのだ。


「そうですか・・・。」


 将生のことばをそのまま信じて、まみは5分くらいなら・・・と少し安堵した。素直な性格なようだ。


「・・よだれとか・・・大丈夫でしょうか?」


 まみは恥を忍んで聞いてみた。自分の目で将生の肩の様子を確認する。濡れている様子もなく、どうやら大丈夫そうだ。将生としては、例え濡れていたとしても、まみのよだれくらい気にならなかったが、そういう言い方は軽く変態かな、と考えて、


「大丈夫ですよ。それよりも、晴斗のよだれの方がすごいですからね。」


と話の対象をそらしてみた。すると、まみは素直に晴斗へ意識を向けて、


「よく寝てくれていますね。」


とふわりと笑いながら返した。


「このまま良く寝てくれていたら良いんですけど。」


と将生が言うと、


「そうですね。でも、変な時間に寝てしまうと、夜に起きてしまったり、眠りのリズムが崩れて、ちょっと大変かもしれませんよ。まぁ、こういう移動の時は総じて夜泣きがひどかったり、夜にゆっくり眠れなくなること多いんですけど。」


 と、まみが答えた。そういうものか、と将生は学ぶばかりである。


「働いていると、子どもの夜泣きで自分が眠れなくても、そんなの理由にならなくて、やらなきゃいけないお仕事が待っているじゃないですか。だから、瑛斗が夜泣きした時は、よく私が抱っこして夜を過ごしていましたよ。学生の私の方が、融通きくこと多かったですからね。」


 まみが懐かしむように、瑛斗の赤ちゃんの時の話をし始めた。


「そういえば…立ち入ったことを聞いて申し訳ないのですが・・・もし嫌なら答えなくても良いですので・・・。瑛斗君のお父さんは・・・。」


 もったいぶった言い方で将生がまみに質問した。


「ああ!大丈夫です。元気ですよ!死別したわけでも、離婚したわけでも無いんです。」


 まみがにっこり笑いながら答えた。その答えに、将生はほっと息をついた。


「ただ、姉のうちは、共働きも共働き、二人ともバリッバリに働いているので、姉が里帰り出産した時、ほとんど毎日瑛斗と私と姉と母との四人でいて。そのうえ姉は産後二ヶ月で復帰したんですけど、その後も保育園のお迎えは母か私が行っていまして。姉のお迎えが遅くなる時には、うちで預かったうえ、姉も一緒に泊まっていったり。平日は矢野家、休日は藤木家みたいな感じで瑛斗は暮らしてきたんです。だから、私は瑛斗にとって第二のお母さんみたいな存在になっちゃってるんですよね。」


 なるほど、その延長で、まみは姉の海外転勤に帯同してきたのか。と将生は思う。


「矢野さん自身はお仕事されてないんですか?」


 その問いは、軽く「まだ学生なんです」とでも返されるかと思っての質問だったのだが、まみは将生の想像していたような反応をしてこなかった。


「・・・・・・。」


 それまで、瑛斗君のことを優しい気持ちで思い返していただろうまみの表情が、一回抜け落ちたみたいになった後、将生の目を一回見上げ、かすかに微笑んだ。


「だめだったんです。」


 将生は、言わせてはいけないことを言わせてしまったようだと気づき、しまった!とは思ったものの、もう聞いてしまったことはもとに戻せない。何が全部だめだったのか、そこは想像でしかないけれど、このくらいの年の子ので「仕事」「だめ」と言われたら、きっと就職活動のことだろう。そう推測して、こう言った。


「そうですか。でも、そのおかげで、僕は矢野さんに空港で出会えて、泣き止まない瑛斗を抱っこしてもらえました。とても助かりましたよ。」


 まみは、少し驚いたような顔をした。その後、将生は


「今の僕はとても幸福なので、神様ありがとう、と思っています。矢野さんと出会わせてくれましたからね。」


と続けた。そして、


「こんな可愛い子と笑いあったり、僕の肩を借りて寝てくれたり、僕は本当に幸せ者ですよ。」


 と、茶目っ気たっぷりに言ってみた。

 すると、まみがふふっと笑ってくれ、


「そうですか。誰かを幸せにすることができたのなら、私の人生も間違ってなかったのかもしれませんね。」


と言ってくれた。


 将生は


(微笑んでくれて良かった。最後のセリフは、聞く人が聞けば、ちょっとセクハラっ入ってるもんなぁ)


 と内心ひやひやしていたのだが、まみが笑ってくれたので、ひとまず安心する。ちょっと捨て身の戦法だったが、なんとかうまくいって良かった。

 将生はまみに気づかれないように息を吐いた。


 こうして、将生とまみの二人は、他愛のない話をしながら、その後は特に悪い空気になることもなく、育児話を中心にしながら、(起きた晴斗のオムツを換えたのはまみだったから、特に問題もなく)おおむね滞りなく、空の旅が続けられた。



 事件が起こったのは、無事に空港に着き、みんなでイミグレを通過しようとたときだった。


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