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6.なかったことに

 部屋に戻った凪はスマホを取り出した。あの男の電話番号は着信拒否にしている。メッセージアプリもブロックした。

 公衆電話かららしい電話にも出ていない。メールアドレスも変更してある。もうあの男から連絡が来ることはない。それでも、スマホを持つ手が震えていた。


 嫉妬深い男と同棲していたため、凪には友達が殆どいない。連絡先を探しても相談する相手もいないことに落胆する。

 同棲をしていた男は大学の女友達と飲みに行って帰らないことが度々あり、そのことを凪が詰問すると、わかりもしないのに大学のことに口出すなと殴られた。

 本当にろくな男ではなかったと凪はため息をつく。



 凪がスマホのブラウザを立ち上げて、甲斐田章で検索したのはただの気まぐれだ。いくらなんでも、ネットを検索することで章の女嫌いの原因がわかると思わなかった。

 しかし、甲斐田章は二度も不幸な事件に遭ってしまったとしてまとめサイトまで存在する有名人だった。


 章の父親は巨大企業の創業者一族。中米の某国に新設された現地法人の副社長として赴いていた時、当時七歳だった次男の章が誘拐される。現地で雇ったボディーガードが手引きしたと噂されたが、その男は銃撃されて死亡したので真相は闇の中だ。

 国際的な犯罪組織の犯行で、小さな国の国家予算程度の身代金が支払われたとか、政府が身代金を支払うのを許さなかったとか、様々な憶測が流れたが、章が救出されることはなかった。


 それから六年後、十三歳になった章が無事発見され、DNA鑑定を行い本人に間違いないとされた。しかし、六年間、どこで何をしていたのかは報道されることはなかった。


 そして、三年が経った時、章は再び犯罪に巻き込まれる。

 それは、米国の有名大学で起きた銃乱射事件。犯人はその大学の学生と結婚の約束までしていたのに捨てられた女性で、死亡者は十人にもなる大きな事件だった。その事件に巻き込まれた日本人が、大学一年生だった当時十六歳の章。飛び級で大学に入学していた。


 まとめサイトのコメントには、二度も外国で事件に遭遇してしまった章を可哀想だとの書き込みより、金持ちの家に生まれたせいだから、ざまあみろとの書き込みの方が多かった。

 誘拐されていた六年の間は男娼をさせられていただの、金の力で大学に入っただの、ひどい書き込みも見られた。

 それでも、有名大学に飛び級で入学できる章はかなり優秀であることに反対する者は少数だった。あの大学へ金の力で入学できるはずはないというのが、大勢の意見だ。


 こんな豪華なマンションに一人で住んでいて、病的なほど女性を怖がる章が、まとめサイトの甲斐田章と同一人物で間違いないと凪は確信した。凪が想像していたよりも、遥かに凄まじい人生を章は送ってきた。


 寂しさのあまり、章を誘ってしまった凪に罪悪感が押し寄せる。馬鹿な真似をしてしまったと思う。しかし、今更取り消すこともできない。

 昨夜、あまりのも孤独な章をただ慰めたいと思ってしまった。そして、自らの空虚な心を章で埋めたかったのだ。


 スマホの画面を消すと、少年のような凪の姿が映る。しかし、本当の姿は自分の欲望のために年下の男性を襲うような愚かな二十三歳の女だった。

 真っ黒な画面に水滴が落ちる。凪が流した後悔の涙だ。




 翌日、これからどうしようかと悩んだ凪だが、いつものように朝食の用意をすることにした。

「凪、おはよう」

 日曜日なのでいつもより遅く起きてきた章は、昨夜のことなどなかったことのように普通に挨拶をしてきた。

「章、おはよう」

 凪もできるだけ自然に見えるように挨拶を返す。



 女性が十人もの人を殺す場面に遭遇してしまったのだから、章が女性を怖がるのは当然だ。凪が女だと知られてしまうと章をとても傷つけてしまうだろう。それが怖かった。

 とにかく十六歳の少年としてこのまま暮らして、約束通り半月後にはここを出て行こう。たった一か月一緒に暮らしただけの同居人。そのうち忘れ去られるはずだ。

 今まで発覚しなかったとはいえ、これまで以上に気をつけて十六歳の少年として生活しなければならないと、凪は気を引き締める。


 それでも、凪は自分だけは昨夜のことを覚えておこうと思う。何よりも大切な思い出だから。



 いつものように、少し距離を開けて椅子に座り朝食を食べる二人。章が美味しそうに食べているのを見て、これで良かったのだと凪は思った。


「章、お昼に何か食べたいものはある? これから買い物へ行くけれど」

 皿洗い機を備えた広いキッチンでは、後片付けも楽に終わる。洗濯も既に干し終わっていた。

 もうすぐ九時になるので近所のスーパーが開店する。

「凪が作るものなら何でもいいよ。全部美味いから」

「じゃあ、餃子にしようかな。今日は豚ひき肉が特売なんだ」

 凪が貰っておいたスーパーの特売チラシを確認しながらそう言った。

「餃子をひき肉から作るのか? それはすげー楽しみだ」

 朝食を食べたばかりなのに、章は今すぐに餃子を食べたいとでも言うように物欲しそうな顔をする。


「今日は特売日だから、いっぱい買ってくるね」

 財布の入ったリュックを背負って玄関へ行こうとした凪を章が止めた。

「買い物へ行くのなら、車使うか? このマンションにはシェアカーがあるんだ。電気自動車なんであまり遠くへは行けないけど」

「でも、僕は免許を持っていないから」

 アパート代を払い二人分の生活費を出せば、凪の給料はほとんど残らなない。働きながら家事もこなしていたので自動車学校へ通う時間的余裕もなかった。よしんば運転免許を取得できたとしても、自動車の購入はとても無理なので運転免許は無駄は無駄になるだろうと思っていた。

「わかっているよ。凪はまだ十六歳だから免許取れないし」

 失言してしまったと凪は思ったが、何とか平静を保つ。章はそんな凪を疑問にも思っていなかった。凪の少年のような容姿は、男性としてなら十六歳というのは全く違和感がない。


「章は運転免許を持っているのか?」

「一応な。外国で十六歳の時取得していたので、普通より簡単に取れたんだ。日本では十八歳にならないともらえなかったけど。車が必要なら借りるよ」

「ただの買い物に自動車を借りるのはもったいないと思うよ」

 こんな高級なところに住んでいるから感覚が麻痺しそうになるけれど、実家がいくらお金持ちでも、章は高校に通いながら工場で働く勤労高校生である。そして、そんな章のところに居候している凪は無給。贅沢なんてできないと凪は思う。

「管理費に入っているから、金がかかる訳じゃない」

 こんな豪華なマンションの管理費とは、どれほどなのだろうかと凪は心配になるが、おそらく銀行引き落としで章が払っている訳ではないと凪は納得した。


「それなら。お願いできる? 特売のものをいっぱい買いたい」

 無料ならば遠慮なく使わせてもらおうと凪は思った。悲しい庶民の(さが)である。

「俺はスーパーの中までついていけないけどいいか? 人混みが苦手だから。車で待っている」

「もちろん」

 凪は女性の多い開店間際のスーパーに章を連れて行くなんてできないと、首を縦に振る。



 シェアカーをスマホで予約した章は、凪を連れて地下の駐車場までエレベーターに乗って降りる。

 エレベーターを出ると、警備室があって警備員が座っていた。章が声をかけてシェアカーの鍵を受け取る。



 スーパーの駐車場に着くと、章は車を降りて凪が座っている助手席のドアを開けた。

「気をつけて行って来い」

「ありがとう。いっぱい買ってくるから、待っていて」

 日曜日に二人一緒で買い物に来るなんて、まるで新婚夫婦みたいだと思ってしまった凪は、少し頬を赤くしてスーパーの中に消えていった。




「すごい量だな」

 物であふれているカートを押しながら近付いてきた凪を見つけて、章は車から降りてきた。

「今日は特売日で色々なものが安かったんだ。せっかく車を出してもらったんだから、元を取らないと」

 章は膨らんだ袋をカートから車のトランクへ移しながら少し呆れていた。

「お金は足りているか?」

「大丈夫だよ。十分貰っているから」

 章から受け取ったお金は十万円。章は健啖家だが、凪は特売をうまく使っているので十分な金額だった。




 冷蔵庫は業務用並みに大きい。凪が来た頃は殆ど空だったが、今はかなり埋まっている。

 凪はその大きな冷凍室から焼き豚を取り出し、解凍プレートに置いた。豚バラ肉の特売日に大きなブロックを買って作っておいたものだ。

 章は期待に目を輝かせている。凪手作りの焼豚で作ったチャーハンが、今まで経験したことがないほど美味かったことを思い出していた。

「今から餃子を作るね。後はラーメン。今日は麺が一袋二十円だったから」

「焼豚入のラーメンか? すげー」

 外食ができない章は、カップラーメンくらいしか食べたことがなかった。楽しみで自然と顔が緩む。



「相変わらず見事な手際だな」

 手伝おうとキッチンに詰めている章だったが、手を出すタイミングがわからないほど鮮やかな手際で凪は餃子を作り上げていく。

「働きながら家事もしていたので、手際良くやらないと終わらないから」

 仕事をしている十六歳の凪に家事もさせていたのかと、章は凪の家族に憤っていた。しかし、凪が餃子を焼き始めると、その食欲をそそる音と匂いに思考が囚われてしまう。

 もやしを茹でてねぎを刻む凪。

「焼豚はたくさん入れて欲しい」

 章は我慢できずに凪にリクエストした。

「任せておいて」

 凪がラーメンの麺が見えないほどに焼豚を並べたラーメン鉢をカウンターに置くと、章が嬉しそうにテーブルに運んだ。


 凪はフライパンを逆さにして丸く並べられた餃子を皿に移した。底には美味しそうな焦げ目がついている。


「美味い、美味すぎる」

 幸せそうに目を細めながらラーメンを平らげていく章。十六個焼いた餃子は綺麗になくなっていた。

「章は外食をしたことがないから、『美味い』のハードルが低いんだ。世の中にはもっと美味しいものがたくさんある」

 凪は手放しに褒められて少しこそばゆい思いがする。

「そんなことはない。凪の作る飯が世界一美味い」

 幸せそうに章が笑うので、凪も幸せな気持ちになった。好きな人に褒められるのは本当に嬉しい。

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