5.欲する心
「ほんの冗談のつもりだったんだ。凪の気持ちを考えていなかった。許してくれ。俺は部屋に戻るから」
章はそう言ってプロジェクターの電源を切り、ソファから立ち上がった。
「僕は本気だよ」
冗談で済ます方がいいと凪も理性では理解している。そうすれば、これまでと同じ平穏な暮らしを送ることができる。しかし、性別と年齢を偽ったままの暮らしがいつまでも続くことがないのもわかっていた。
凪の心は章に惹かれていくのを止めることができないでいた。
章が凪と距離をとっているのは気遣いだと知っている。
さりげなく凪の居場所を作ってくれているのも。
凪が作った料理を美味しそうに食べるその姿も。
章の全てが凪を惹きつけていく。同棲相手との生活に疲れ切った凪の心を、章が埋め尽くしていた。
女性が怖いという章の心を得ることが許されないのならば、せめてその体が欲しいと凪は願う。
凪は震える手で章の腕を掴む。
章はその手を振り払うことができない。あまりにも孤独な心が人肌の暖かさを欲していた。男や女としてではなく、『凪』そのものを心から求めていたのだ。
「座って」
凪は章の顔を見ることができず、俯きながらそう言った。その言葉に操られるように章がラグの上に腰を下ろす。
凪も膝を床につけて、ゆっくりと章の胸を押した。抵抗することなく章はラグの上に仰向けに横たわる。
章の目が不安に揺れている。これほど近くで顔を見合わせてことがない凪と章は、魅入られるように見つめ合っていた。
突然、章の視力が奪われる。凪がアイマスクを章につけたのだ。
これ以上見つめ合っていれば愛していると告げそうになったから。愛していると口にしてしまえば、女として愛してほしいと願ってしまいそうだから、凪は章の目を隠した。これ以上魅入られてしまわないように。
凪は章の両手首を頭の上でまとめてロープで縛り、端を重そうなソファの脚に括り付けた。
二人の体格差はかなりある。章が本気で嫌がれば拘束されるようなことはない。
章は拒否していない。それだけで凪にとっては十分だった。
章が着ているパジャマ代わりのTシャツを凪は捲し上げる。下には何も身に着けていない。思った以上に引き締まった逞しい章の上半身が露わになった。
今から、この美しく愛しい人を男だと誤認させたまま犯す。その倒錯した行為に凪は酔いしれていく。
「凪。俺は……」
章の理性がこのまま流されていけないと告げている。この心地よい生活を壊したくない。
「黙って。僕に身を任せて。絶対に後悔させないから。気持ちよくしてあげるから」
それでも、章は凪の言葉に抗えなかった。
凪への想いは肉欲を伴うようなものではないと章は思っている。
男にしては小柄で綺麗な凪を守りたい。ただそれだけだった。
年若いのに凪は料理も家事もあり得ないほど手慣れていた。普通ならば勉強や遊びに費やしている時間を、家事労働のために費やすことを強要されていたに違いない。
性的なことも含めて家族に搾取されていたであろう凪は、あまり幸せそうではなかった。最初は章のことも怯えるように見ていた。それが段々と笑顔になっていく。その笑顔がとても可愛いと章は感じていた。
章はこのままいつまでも凪と一緒にいたい。この暖かい空間を守りたい。ただ、それだけだった。
それでも、凪が望むなら流されてもいいかと章は体から力を抜く。
凪は好みの女を想っていろと言った。しかし、章が思い浮かべるのは凪の顔だけだった。
そして、すべてが終わった。凪が暖かいタオルを用意して、拘束されたままの章の体を拭き清めていく。そして、章の両手を拘束しているロープを外して、アイマスクを取り去る。
自由になった章は上半身を起こし、まくれ上がったTシャツをおろした。
「なぁ、凪。こんなことは今夜で最後にしよう」
章に喜んでもらえると思っていた凪には、章の言葉が信じられない。
「気持ち良くなかった?」
章と体を繋ぐことができて快楽を得たのは自分だけかと、凪は衝撃を受けていた。
「今まで経験したことがないくらい、すげー気持ち良かった。蕩けてしまいそうだ。だけど、こんなことはやっぱり駄目だ。凪はまだ十六歳なんだ。将来絶対に後悔する」
章はひたすら頭を振っている。快楽を感じた自分自身を否定するように。
「章は後悔しているの? 僕は後悔なんてしない」
せめて後悔しないでほしいと凪は思う。凪にとってはとても大切な夜だった。
「俺はどうせ女とできないから後悔なんてしていない。でも、凪は将来好きな女ができた時、絶対に後悔するから」
「僕は章としたことを後悔なんてしない!」
それは凪の心からの言葉だった。凪自身が章を望んだ。
「俺は十六歳の凪とこんな事をするべきではなかった。断らなかった俺の責任だ。本当に済まない」
辛そうに頭を下げる章を、凪も同じような辛い顔で見ていた。謝られたことがとても心苦しい。
「僕は……」
「明日からいつもの関係に戻ろう。ただの同居人に」
『ただの同居人』、その言葉は凪の心を抉っていく。体だけの関係さえも否定された。
凪の好きになった人は、快楽に落ちてこなかった。十六歳の少年と関係を持ったことを悔いていた。
「ごめん」
凪にはそれだけしか言えなかった。悪いのは凪だ。それはわかっている。四歳も年下の未成年を無理やり誘ったのだから。
わかっているけれど、やはり悲しい。章の前で泣きたくなかった凪は立ち上がって部屋へ帰ろうとする。
「初めてが凪で良かった。ありがとう」
リビングを出ていこうとする凪の背中に、章がそう呟く。
なぜ、そんなことを言うのか? 優しくしないでほしい。いっそ責めてくれた方が気が楽だ。凪はそう思いながら部屋に走り去った。
『二十三歳の女だとバラしたら、章に求めてもらえるかもしれない』
それは凪にとって甘美な誘惑だった。自分は女で章のことを好きだと伝えたら、章も心を返してくれるかもしれない。
しかし、最初に出会った日の汗を浮かべながら苦しそうにしていた章を思い出すと、とても本当のことを言い出せない
バカなことをしたと凪は思う。最初の時に真実を伝えておけば、こんなに苦しまずに済んだかもしれない。その代わり、章がここへ連れてきてくれることもなかった。
家族に虐待された十六歳の少年だと思ったから、章は家へ連れ帰ったのだ。同棲相手に暴力を受け逃げ出した成人女性と知っていれば、同情はしたかもしれないが家へ上げることはなかっただろう。
凪は小さく頭を振る。この二週間は楽しいことばかりだった。章が今まで通りの生活を望むならば、苦しくても心が張り裂けそうでも、これまでと同じように同居人として生活をしようと凪は思う。