3.夢のような場所
ドライヤーを使わなくても、凪の短く切った髪はもう乾き始めていた。部屋に戻ると時間は十一時を回っている。
こんな豪華なマンションに一人暮らしをしている章が何者なのか、疑問と不安に思う凪だったが、疲れ切った体は考えることを拒否した。
リュックサックには持ち歩いている歯磨きセットが入っている。財布の中身は二万円。キャッシュカードも入っているが預金残高は多くない。
凪は持ち物を確認してため息をついた。今後のことを考えると不安しかない。それでも体はもう限界だった。
壁の一面の半分に中折れドアが四扇ついている。開けて中を確認すると、確かにシーツが置かれた棚があった。他にはほとんど荷物は入っていない。
凪はベッドに水色のボックスシーツをかけた。そして、中に羽根が入っているらしい軽い布団を同色のシーツの中に入れる。枕カバーも同色だ。
こうして、すぐに寝る用意はできた。
顔を洗うために洗面所へ行くと章が先に顔を洗っていた。
「歯ブラシ持っていたんだな」
章は凪が持っている歯磨きセットに目を留める。
「うん、お昼の後に歯磨きするため持ち歩いているんだ」
そう凪が答えると、安心したように章が笑った。
「新しい歯ブラシがなくて、買いに行こうかと思っていたんだ。良かった」
心が弱っている凪には、章の小さな気配りさえ心を癒すように染み渡った。
「それじゃ、おやすみ。ゆっくり休めよ」
小さく手を上げて、章は自分の部屋に消えていく。
疲れた凪は広いベッドに横になると、すぐに眠りについた。安眠できるのは今夜だけかもしれないと思いながら。
凪が目を覚ますと朝になっていた。夢も見ずに朝まで寝入ってしまったことに凪は驚く。大きな窓から入ってくる光が眩しい。
スマホの電源を入れ画面を見ると、時間はもうすぐ八時になる。画面にはあの男からの着信履歴が並んでいた。凪は再びスマホの電源を切ってリュックの中にしまう。
小さな部屋に住んだ経験しかない凪は、改めて広い部屋を眺めて、ベッドと壁の距離感に落ち着かない思いを抱いていた。
凪が顔を洗おうと思い洗面所へ行くと、章は既に服を着替え終えていた。凪は寝起きの姿を見られてしまい少し恥ずかしい。
「凪、おはよう。よく眠れたか? 朝はパンがあるから適当に食べておいて。昨夜買った卵もあるし。俺はこれから仕事に行くけど、今日は高校の授業がない日なので、五時には帰って来る。もし良かったら晩飯を作ってもらえると嬉しい。凪の昼と一緒にこれで買っておいて。それとこのマンションの鍵を渡しておく」
章が財布から取り出したのは五千円札と一枚のカード。
ちょっと待てよと凪は思う。昨夜知り合っただけの名前しか知らない相手に何を渡そうとしているのだと、凪は信じられない思いで章を見た。ここは年長者として注意しなければならない。
「章、見ず知らずの人間にお金や家の鍵を渡すなんてありえない。僕が持ち逃げしたらどうするつもりなんだ!」
いくらなんでも不用意すぎると凪は思う。
「俺の給料は安いけど、女が怖くてろくに遊びにもいけないから金の使いみちがない。だから五千円ぐらいならどうってことはない。鍵はICカードだから、失くしたらすぐに使えなくできるんだ。心配はいらない」
章はたいして気にしていない様子なので、凪は心配になってきた。
「高そうな絵や家電がいっぱいあるじゃないか。盗まれたらどうするんだ。いくらなんでも意識が低すぎる」
「俺のじゃないから別にいい。ここの持ち主だってたいして気にしない。それに、こんなことを心配している凪が、持ち逃げできるとも思えないけど」
見透かしたように章が笑う。凪は持ち逃げしてやろうかと思ったが、そんなことができないことは自分が一番わかっていた。
「とにかく仕事に行ってくる。八時半始業なんだ」
慌てて章が部屋を出ていった。凪の手には押し付けられた五千円札とカードキーが残されていた。
凪は顔を洗って、とりあえず朝食にしようとキッチンへ行くと、豪華な佇まいの中に見慣れたパンの袋があった。よく安売りをしているメーカーのものだ。広いキッチンに違和感はあるが、凪は食べ慣れたパンを見て少し安心した。
昨夜購入した卵を一つ炒り卵にして、焼いたパンと一緒に食べる。紅茶のティーパックがあったのでストレートで飲んだ。
空腹が満たされた凪は、自分を信用して家から追い出さなかった章が悪いと開き直り、部屋の探検をすることにした。この機を逃せば、一生目にすることもないようなマンションだ。
さすがに章の部屋のドアを開けるつもりはないが、その他のドアは開けてみる。
立派なドアの先は六畳ぐらいの物置で、テレビコマーシャルでよく見る外国製の掃除機が置かれていた。住んでいたアパートの部屋がこの物置と同じぐらいの広さなのが悲しいと凪は思う。
洗面所の奥にはドラム式の洗濯機が置かれていて、その先のドアを開けると小さな物干しが置かれているサンルームに続いていた。
サンルームの奥のドアを開けると広いベランダに出た。ウッドデッキ風に床には木の板が貼られていて、お洒落なガーデンテーブルと椅子が置かれている。しかし、使われている様子はなく、薄く砂が積もっていた。
十月の晴れた日は気持ちがいい。掃除して昼はここで食べようかと思うと、凪の心は浮き立ってきた。
凪が借りている部屋以外にも、ベッドが置かれた部屋がある。そこも使われている形跡はなかった。
章の部屋と合わせて部屋は三つ。その他はリビングダイニングとキッチン。だから、3LDKの間取りだが、広さは普通のファミリー向けマンションの三倍以上はありそうだ。廊下も広いし、風呂や洗面所はゆったりとしている。
広いリビングには大きなスクリーンがあり、天井にはプロジェクタが備え付けられていた。暗くしたリビングで映画を観れば随分と迫力があるだろうなと凪は思う。自分の住んでいた環境と比べるのはあまりにも虚しいので止めることにした。
とりあえず、どこもかしこもお金がかかっている高級な住まいであることは間違いなかった。
洗濯機の前に置かれたかごには、昨夜使ったバスタオルと章の下着が無造作に放り込まれていた。凪は部屋に持ち帰っていた自分の下着を持ってきて、一緒に洗うことにする。洗剤も使い慣れたもので安心した。
洗濯機を回している間に掃除をすることにした。一人住まいのせいか、それほど散らかっていないが掃除が行き届いているわけでもない。
庶民の家のように物があふれていないので、広い割に掃除は捗った。
凪が掃除と洗濯を干し終わって時間を確認すると、午前十時を少し過ぎている。
章から渡された五千円札をダイニングテーブルの上に置いた凪は、財布の入ったリュックを背負って外に出た。章が夕飯を作って欲しいと言っていたので、泊めてもらった礼に夕食の用意をしようと思う凪だが、お金は自分で出したかった。そうでなければ礼にならない。
凪が大通りを歩いていると大型スーパーが見えてくる。心配したような高級店ではなくて庶民向けのスーパーだったのでほっとした。
二階の衣料コーナーで、悩んだ末に凪はスポーツブラと女性用のボクサーパンツを購入した。着替えも何点か購入する。
凪は章の好き嫌いを確かめなかったことを後悔した。どうせなら章の好きなものを作りたい。しかし、考えてもわかるはずはない。
一階の食品売り場を回って、凪は特売の厚切りの豚ロース肉を購入した。キャベツやトマト、パン粉も買う。自分の昼は特売のスパゲティとしめじ茸、小松菜を買って茸パスタを作ることにした。
真っ白い大皿に茸パスタを盛り付けてベランダへ急ぐ。爽やかな風を受けながら食べるパスタは、いつも作っているものと同じ筈なのに、高級な味がするような気がして凪は可笑しくなった。
今後のことはまだわからない。実家に帰らなければ凪の手持ちの金で一か月も生活できない。だけど、せめてあざが消えるまで実家に帰りたくはないと思う。こんなに短くなった髪も心配されるだろう。
一か月経てば、職場に復帰できるのだろうか? あの男は凪の職場を知っている。
それらの不安を胸の奥に押し込め、こんな贅沢な場所で食事をすることなどこの先一生ないだろうと、凪は現実感がないほど素敵なこの場所を楽しむことにした。
約束通り午後五時少し前に章は帰ってきた。
「お帰り。お仕事お疲れ様です。章、豚肉は食べられる?」
玄関に迎えに行った凪が少し不安そうに章に訊く。厚切りの豚ロース肉は筋切りをして包丁の背で叩いてあったが、章が豚肉を食べられないようなら、今から違う食材を買いに行くつもりだ。
「ただいま。肉は何でも大好きだけど」
章は凪が出迎えてくれたことに安心していた。別に五千円が惜しかったわけではないが、ずっと一人暮らしをしていて気がつかなかった、誰かと一緒に食事をする楽しさを昨夜味わってしまったため、また凪と一緒に夕飯を食べたいとの思いがあり、凪がいなくなっていたら寂しいと思っていた。
「良かった。今からトンカツを作るから」
そう凪が言うと章はわかりやすく破顔した。
嬉しそうな章を見て凪はトンカツにして良かったと安心する。
凪の後についてキッチンにやってきた章は、調理台の上に厚切りの豚肉が置かれているのを見て驚いた。
「すげー。出来合いじゃないんだ。俺は女が怖くて外食もできないし、スーパーにもろくに行くことができない。買い物はネットか夜のコンビニだから、揚げたてのトンカツなんか食ったことがない」
ネットでも食材を買うことはできるし、食材宅配サービスがあるのも知っているが、章は自分一人のために調理する必要性を感じていなかった。
昼食は工場でまとめて購入する配達弁当で済ませ、夜はコンビニで買っていた。一人で食べる夕飯はとても美味しいとは思えない章だったが、もう諦めていた。
「何か手伝うことはあるか?」
豚肉に衣をつけていく凪の手際に感心しながら章が聞いた。
「大丈夫。下準備も終わっているし、御飯ももうすぐ炊ける。椅子に座って待っていて」
凪は章の仕事内容を実際に知っているわけではないが、工場勤務は楽ではないだろうと思った。凪もレジ打ちをしていて、立ち仕事の大変さはわかっている。だから、少しでも章に休んでほしい。
ダイニングテーブルの上に五千円札が置かれているのを見た章は、凪はお金を使わなかったのかと訝しげに思った。
女が怖くて近寄ったことすらない章は、女性のことをあまり知らず、凪が女性だとは全く気づいていない。凪が十六歳の少年だと思い込んでおり、それほどお金を持っていないのではないかと心配していた。
「この金を使わなかったのか?」
ダイニングテーブルを拭くために布巾を持った凪が現れたので、章は声をかけた。
「泊めてもらっているのに、食べさせてもらうなんてできない」
凪は五千円を章に返そうとする。
「しかし、洗濯もしてもらってご御飯も作ってもらった。何だか綺麗になっているから掃除もしてくれたんだろう? 家事サービスを頼むと、すごく高いんだから、食費ぐらい受け取ってほしい」
章は凪に五千円札を押しつける。
「でも……」
凪は受け取るのを躊躇っていた。
「なあ、行くところがないなら、住み込みで家事をしないか。俺もそんなに給料をもらっているわけではないけど、月に十万円くらいなら渡せる。安すぎると思うけど、それが食費と報酬ということで、なんとか受けてもらえないか?」
章の提案に凪は驚いた。凪の手取りは十数万に過ぎない。高校へ通いながら働いている章がそれ以上の給料を貰っているとは考えにくい。
「そんなに貰ったら、電気代や水道代も払えないんじゃないか?」
これだけの広さがあるので、電気代だってバカ高いのではないかと凪は思う。
「引き落としされるものは払っていないから大丈夫だ。遊びに使う金もいらない。消耗品と服代くらいしか必要ないから、俺の分は三万円もあれば足りる」
光熱費はこの部屋の持ち主が払っているのだろうと思うけれど、凪は詳しいことを聞けずにいた。
「とりあえず、御飯にしよう。これからトンカツを揚げるので待っていて」
返事を保留した凪はキッチンへと向かう。
キャベツの千切りとトマトを付け合わせたトンカツの皿としめじ茸と小松菜の味噌汁を凪がカウンターに置くと、嬉しそうに章がテーブルまで運ぶ。その目はトンカツに釘付けになっている。
「うめー、こんな美味いもの食ったことがない」
大きめのトンカツをあっという間に平らげた章は、凪のトンカツを羨ましそうに見ている。
「トンカツは五枚あるけど、もう一枚食べる?」
五枚入りのパックを買うと二枚入りを買うより百グラムあたり五円安かった。残ったらカツサンドにでもしようと思い、凪は全て衣をつけていた。
「こんな美味いものならいくらでも食える」
章は本当に嬉しそうにしている。凪も章に喜んでもらえて嬉しかった。
こんな生活も悪くないと凪は思っていた。