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1.知らない街で

「これ以上切ってしまうと、男の子みたいになってしまうわよ。本当にいいの?」

散切(ざんぎ)りにされてしまった髪を短く整えようと美容院を訪れた(なぎ)は、美容師が躊躇うほどの短さを要求した。そうしないと揃えられないほどの無残な状態だった。

「お願いします」

 まっすぐに鏡を見据えたまま、凪ははっきりと答えた。


 適当に電車を乗り継いでやってきた知らない街。その住宅街の一角にある寂れた美容室で、凪は生まれ変わろうとしていた。


 美容室を出た凪は手に持っていたパーカーを羽織る。美容室のドアに姿を映してみると、ジーンズに黒のパーカーを着た短髪の少年風の姿があった。

 元々中性的な顔立ちで女性にしては長身。胸も小さく高校生の時は男子より女子に人気があった。それでも切らなかった長い黒髪はもうない。軽くなった髪と同じように、気も少し軽くなったような気がしていた。


『これならば、誰も二十三歳の女だと思わないに違いない』

 凪はそう思って、自嘲気味に口角を上げた。初めて晒す首筋が少し寒い。



 凪の母親は姑と折り合いが悪く、夫にも浮気をされたこともあり、まだ五歳だった凪を連れて田舎の実家に戻っていた。その後離婚が成立したが、慰謝料はおろか凪の養育費さえ支払われず、製材所に務めていた祖父と小さな商店の事務パートをしている母親の給料で生活をしていたが、収入は多くなく裕福な家庭ではなかった。


 母親は別れた夫の悪口と職場の不満ばかり口にしていた。

 凪は会ったこともない父の悪口を聞くのが苦痛だった。彼女は捨てられたも同然だが、血が繋がっているため自分が責められているような気がする。

 お金がないと聞かされるのも、無能だと馬鹿にする同僚の話も。

 とにかく凪は母親から逃げ出したかった。


 凪は高校を卒業してすぐに、地方都市にある大型スーパーの店員として働き始めた。実家からの通勤は難しい距離なので、家を出て狭いワンルームに住み、倹約しながら慎ましく生きてきた。

 そんな凪が二十一歳の時に、勤めるスーパーにバイトで来ていた同い年の男子大学生と出会うことになる。

 まだ学生だから結婚はできないけれど、一緒に住もうと誘われた凪は、悩んだ末に同棲することに同意した。独り立ちして三年。ほとんど実家にも帰っていない凪は、本当に寂しい思いをしていた。そんな心の隙を埋めたかったのかもしれない。

 その時は母と違って幸せになることができると思った。誰よりも幸せになりたかった。



『幸せなんて、幻想だった』

 手の甲にくっきりと残る赤黒い痣を見ながら凪はそう思った。

 二年間の同棲生活が不幸ばかりだったとは思わない。幸せだと感じたことはあった。求められるのも嬉しかった。

しかし、辛いことの方が多かったのも事実だ。

 凪はため息を一つついて、見知らぬ街を歩き続ける。



 同棲していた男はとても嫉妬深く、気に食わないことがあれば凪を殴った。学歴差を傘にきて凪を支配しようとした。それでも優しい時はある。幸せになりたいと一途に思っていた凪はそう自分に言い聞かせて我慢を重ねていた。

 しかし、昨夜の残業を浮気だと疑われて、罵倒されながら何度も殴られた。その上、大事にしていた長い黒髪を無残にハサミで切られてしまったのだ。

そして、性欲を処理するだけのように体を蹂躙された。


 このままでは殺されると恐怖した凪は、もう耐えられないと痛む体を引きずりながら男がまだ眠っている早朝に家を出た。

 勤めているスーパーに怪我をしたのでしばらく休むと電話をすると、度々痣を作っている凪のことを心配していた店長が、とりあえず一ヶ月は休職扱いにしてくれると言ってくれた。


 こうして、凪は逃げるように電車に乗ってこの街にやってきたのだった。



 見知らぬ街の寂れた映画館で昔流行ったコメディ映画を観た。自分だけのために二時間も使ったのは同棲して初めてかもしれない。しかし、凪の心は晴れることはない。

 未婚のまま同棲を始めた凪を、母親はどうせ捨てられると詰った。そして、男なんて信用したら裏切られて泣くことになると嗤った。

 実家にも帰りたくはないと凪は思う。母親には会いたくないし、祖父母にも心配をかけたくはない。

 しかし、したいことも行きたいところもわからない。この二年間、凪の生活は同棲相手によって完全にコントロールされていて、自分の欲望も希望さえ見失っていたのだ。


 凪はただ目的もなく歩くことしかできない。



「お兄さん、格好いいよね。背も高いし顔もかなり好み。ねえ、私たちと遊ばない?」

「一緒にカラオケへ行こうよ」

 コンビニの前で高校生らしい女子が二人、長身の若い男性を誘っている。時間は午後の九時を過ぎていた。

 たまたまそんな場面に遭遇した凪は、若いなと思いながら通り過ぎようとしたが、男性の様子がおかしいのでつい見てしまった。

 女の子が言うように、男性は確かに長身で整った顔をしていた。短めの髪に地味目の服を着た彼は清潔感があり好感が持てる。しかし、真っ青な顔を小さく振りながら、後ろに下がっていく。


「ち、近寄らないで」

 男性の声は震えていて、高校生の女の子たちを恐れて怯えているように見える。

「お兄さん、どうかしたの?」

 男性の反応が面白かったのか、二人の女の子は嗜虐的な笑みを浮かべながら男性に近付いていった。


「こ、来ないでくれ」

 男性の呼吸が荒くなっていく。言葉は懇願に近い。それでも女の子たちは楽しそうに手を伸ばそうとしていた。男性の後ろには壁が迫っている。もうそれ以上後方に退けなくなった。男性は絶望したように首を振っている。

 

「止めろ! 警察を呼ぶぞ」

 凪はなるべく低い声になるように気をつけながら怒鳴った。

 急に怒鳴られた二人の女の子は凪を睨みつけたが、凪がポケットからスマホを取り出すのを見て慌てて逃げるように立ち去った。


「大丈夫か?」

 そう凪が声をかけると、男性が大きく息をしながら頷いた。


「救急車を呼ぼうか?」

 凪は心配そうにそう訊いた。

 男性は十月の夜にも拘わらず大量の汗をかき、顔色は青を通り越して白っぽくなっている。


「大丈夫だ。すぐに元に戻る」

 全身に酸素を行き渡らせるように、男性は何度も大きな深呼吸を繰り返していた。凪はそんな男性が心配で側を離れられないでいた。


「ありがとう。もう大丈夫だ。女が苦手で、近寄られるとこんな風になってしまう。本当に格好悪いな」

 呼吸が整った男性は、恥ずかしいのか顔を下に向けたまま呟いた。

「誰にも苦手なものの一つや二つはあるから、恥ずかしがらないでもいいと思う」

 凪がそう言うと、男性は安心したように顔を上げる。近くで見た男性は思った以上に若いと凪は感じた。



「随分と若く見えるけど、中学生ではないのか? もう遅いから帰ったほうがいいよ。何なら近くまで送っていこうか?」

 ようやく呼吸が落ち着いた男性は凪に声をかけた。

 男性が普通の対応をしているので、凪が女であることはばれてないと安心したが、女としてはかなり微妙な気持ちになる。

「僕は中学生じゃない。十六歳だ」

 中学生がこんな時間に一人で外を歩いていると警察に連れて行かれるかもしれないと思い、少し年齢を上に言ってみた。しかし、成人した男性には絶対に見えないからと、七歳もサバを読んでしまった凪は恥ずかしくてちょっと言い淀んだが、男性は不審に思わなかったようだ。


「そうなんだ。悪かった。コンビニへ買い物に来たのか? お礼に何か奢るよ。本当に助かったから。俺は甲斐田章(かいだあきら)。十九歳。よろしく」

 章がそう言って右手を差し出した。

 手の甲にくっきりと痣ができているのを見られてしまうのに抵抗があり、凪は握手をするのをためらう。


「殴られたのか?」

 動かない凪の右手を訝しそうに見た章は、変色した肌の色を確認するために凪の手を掴もうとした。思わず手を背に隠してしまう凪。


「僕はこんな風だから、男に襲われた。だから、男が苦手なんだ」

 凪は痣と握手を拒否した言い訳を口にする。

「警察に行った方がいい。俺も付き合うから」

 章は心底心配しているようだった。しかし、凪は頷く訳にはいかない。

「相手は義理の父親だから。逃げてきた」

 凪は首を振った。もう会うこともない人だからと、嘘を重ねていた。

 章はどう声をかけていいかわからずしばらく沈黙していた。


「今夜行くところはあるのか? なければ、うちへ来ないか? 一人暮らしだから気を使うこともないし」

 章は少女二人から救ってくれた凪にとても感謝していて、行くところがないのならば泊めてもいいと思っていた。


「一晩泊めてもらえると嬉しい」 

 凪は迷った挙句についていくことにした。今からホテルを探す気力はない。お金もそれほど持っていない。それでも、一人きりで夜を過ごすのは不安だった。

 もうどうなってもいいと思っているのに、夜の暗さが怖いと感じている自分が少し可笑しく、凪は薄く笑っていた。

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