前世の話
拝啓、お父様お母様。
私が北海道を飛び出し、五年が経ちました。
そちらはもう雪が降っているそうですね、東京はまだ暖かく、吐く息もまだ白くありません。
こちらに来てから毎日街頭に立ち、己の芸を磨いておりましたが、その日食うのに精一杯でございます。
近々そちらに帰ろうと思います。
妹にもよろしくお伝えください。
嶋田孝次
5歳になった頃、両親に連れていって貰ったホテルでマジックショーを見た。
18歳を過ぎた頃、夢を持って上京した。
昼は街頭に立ち手品や大道芸で小銭を稼ぎ、夜はアルバイトで食費を稼ぐ。
五年続けたが大きな成功はなく、その日食うのに精一杯だった。
甘かったと言えばそのとおりだろう。
両親は僕を送り出してくれたが、その期待も裏切って今僕は帰ろうとしている。
まったく親不孝が過ぎる。
でも他に道はない、引き返すなら今だ、今なら安月給でも職に就けるかもしれない。
何より疲れた、疲れてしまった。
夢は所詮夢だ。
余計なことを考えるのはよそう。
「やあ、みなさんごきげんよう。今日は私の最後のステージです。暫し日常から抜け出しましょう。」
このキザな台詞も今日で最後。
スーツにハットに革靴、革の手袋にピエロのメイク、私の一張羅も今日で最後。
見慣れたお客様達の暖かい拍手も今日で最後。
十余人のお得意様は私の芸が見られなくなることを惜しんでくれるだろうか?
できればそうであって欲しいな。
「本日の演目は次で最後になります」
ああ、終わってしまう。
次は私の十八番、腕を外し、その腕を反対の手で持ってお客様と握手する。
いつもよりも、少しだけ長く。
初めて握手したときは半泣きだった女の子ももう大きくなった。
盛大にリアクションをとり、サクラと思われていた男子学生も随分大人びた。
いつも来てくれていた老夫婦は一人だけになってしまっていた。
五年も続けられたのもこの人たちのおかげだ。
最後の一組、以前私が協力してプロポーズした夫婦と今年生まれたらしい赤ちゃんと握手する。
この子が生まれたのは私のおかげだと旦那様は言ってくれた。
それだけでも悔しさは薄れる。
泣き顔を辞められる。
私は生きていける。
「本日の演目はこれまでとなります、今まで有難うございました」
その時、悲鳴が響いた。
そちらを見ると、赤く光る包丁を持った男がこちらに走ってくるその奥には倒れた人が何人も。
「通り魔だ!逃げろ!」
誰かが叫ぶ。
私と通り魔の間にはさっきの夫婦がいる。
作り話のように、私の体は考えるよりも先に動く。
気がつけば通り魔は包丁を私の腹に忘れ、取り押さえられていた。
そして私はアスファルトと鉄の味を知ることになる。
赤ちゃんの泣く声が聴こえる。
しまったな、最後なのにお客様が笑顔のまま終われないなんて。
手足が冷えて感覚が消えてきた。
視界も霞んでいく、寒い、寒い、寒い。
可笑しいな、死にそうになってから故郷を感じるなんて。
ごめんなさい、お父さんお母さん、そして妹、僕、帰れそうにないや。
名前も孝欠に変えようか。
ハハ、我ながら笑えない遺言だ。