悪を為す者
「ふざけたことをぬかすな、小娘!」
嗄れた怒号が耳を劈く。
当事者である彼女の後ろで付き人をしているはずなのに、何故か身体が身震いする。
それもそのはず。今まで好々爺だった相手は一転して険しい顔を浮かべたからだ。
それに、環境も悪い。
ここは相手の屋敷の応接間。周りには使用人が五、六人──およそ使用人のように器用なことはできなさそうな屈強な体格だが──取り囲んでいる。
骨董品集めの趣味があってか、所狭しと並ぶ棚には高級な品々が並んでいた。
呪術でも使えそうな綺麗な髑髏。妖しげな模様を刻む東洋の陶磁器。名のある軍将が着込んでいた鎧一式。
テーブルの上に置かれた銀光に輝くロングソードも、そのコレクションの一つだ。
「私のコレクションにケチを付ける気か! 貴様が買い受けようとしているその品は鑑定書も付いているのだぞ!」
そう、今俺たちは取引の最中だ。このロングソードを買い受けようとしているのだが、我が主はこの商品にケチをつけようとしている。
と、いうかケチを付けに来た。
「いいのか、この私を誰だと心得る! アルトラムの街一の富豪のトール=ロイズだ! 貴様のような名もない商人など捻り潰してくれるわ!」
「悪いが、私は鉄屑を買い取る浮浪者相手の慈善事業はしてない」
我が主──もう面倒だからあいつにしよう──は一歩も引かず、飄々と受け流しながらカウンターを入れる。
金髪碧眼に黒のドレス。華やかさはなくても落ち着いた、大人の雰囲気が漂っている。ここまでの特徴なら出来る女、のようには見える。
ただ一つだけケチがつけられてしまう要素があるなら、あいつは余りにも幼いのだ。
見目が幼いと言うわけではない。あいつは、マリー=バーネットは十年ほどしか生きていないのだ。
トールも流石に興奮し過ぎたのか、手元に置いてある水を含み、ふぅ、と息を吐いて落ち着きを取り戻した。
「……ふっ、そんな言葉遣いだとは。お父様に口の利き方を教わってないのかね」
「勿論、お父様からは目上の人に対する口の聞き方は教わった。目下のお前には関係のないことだろうに」
落ち着いたと思った瞬間にまた引火させる。性の悪い女の子だ。
トールは湧き上がる興奮なんとか抑え込み、また喉に水を通す。
マリーに口喧嘩で勝とうなんて逆立ちしても無理だろう。
そもそも、勝算があって初めて彼女は仕掛ける。ここでの問答にさしたる意味はない。詰まるところ、この時点でトールの負けは決まっているのだ。
「目下、ね。中々不思議な感性をお持ちのお嬢様だ」
「そうか? そっちこそよく言われるだろうに」
「……まだ年若いくせに死に急ぐとは」
「死に損ないの老害に言われたくはない」
「っぐ……ふん、良いだろう。私も寛容だ。今までの侮辱暴言は若気の至りとして──」
「──随分余裕があるんだな。立場も把握できないほどボケてきたのか」
「立場、だと……?」
懐疑の目を浮かべたトールに、マリーは一枚の紙を叩きつけた。
「教えてやる。私が上で、お前が下だ」
「…………!」
目の色が、変わった。
今までは児戯を見守る目だった。
少々頭の切れるガキで苛立たされることもあるが、自分の立場は盤石だ。後でいくらでも捻り潰すこともできる。
今は違う。焦りと、殺意に溢れている。
マリーがテーブルに出したのは、コレクションとそれの鑑定を受けた数人の鑑定人の名簿。出生から学歴、経済状況などの様々な情報が書かれていた。
多少違いはあれど、皆揃って貧困層からの出であり、同じ学校から卒業していた。
「普通の鑑定人は皆、しかるべき教育機関を経て資格を取り、事務所などに所属して仕事をしなければならない。その狙いは勿論、商人との癒着を防ぐため。個人で雇われて鑑定書を偽装されたらたまったもんじゃない」
彼女はゆっくりと、穏やかな声で話し出した。
「そこでお前は考えた。教育機関に入る前に雇えば良い。忠実な下僕を拵えたら良い。言うなれば寄生虫か。
それに似合うのは、出来るだけ頭の良くて金に困っている子供だ。意外とそういう子は良くいるからな」
トールは何も言わず、血走った目であいつを見据えていた。
それでも、あいつは怯まずに話を進める。
「この辺りのコレクションとやらを見るに、お前はいろんな国を巡っていたらしいな。でも本当の狙いは忠実な下僕だ。
貧困層を手懐けるには少しの金でも良い。今まで与えらなかった慈悲さえ少しくれてやれば簡単に犬になってくれる。家族のために、と必死に勉強もしてくれるだろう」
次第に周りが騒がしくなっていく。耳打ちをしながら部屋を出たり入ったりする使用人。内容はおおよそ見当がつく。
こちらも、そのつもりで来ているのだから。
「更に、このアルトラムの街は鑑定事務所がない街だった。否、辺境な街で商人がいないからこそ鑑定人の需要が全くなかった。だがそこで、不思議なことに急に商人が増えたらどうなるだろうか。組織は事務所なり置きたくなる。需要が増えたからな」
ニヤリ、と不敵な笑みを浮かべる。
対照的に、向こうは苦虫を噛み潰したかのような顔となった。
マリーは愉快そうに話を纏めにかかる。
「組織からすると事業拡大のために事務所を置いておきたい。だが、人事もそう融通は効かない。わざわざこの辺境の街に来たがる奴はいないからな」
もう、トールは言い逃れができなかった。
問題の核心は、もうすぐそこまでにある。
「その時丁度、数人の鑑定士の卵がそこに行きたいって言うんだ。非常に都合がいい。辺境の街に宝など出てこないし適当にそいつらの自由にやらせれば良い。そうして何も知らない組織は彼らをこの街に派遣した」
商人に資格は要らない。
トールはそこをついて偽の需要をでっち上げた。
しかも人事の穴をつき、育てた子供達を自分の街に来させることに成功した。
癒着などあり得ないと考えていた組織は、何の対策も施さずに彼らを派遣した。
その後はやりたい放題だ。
「……で、何が言いたい」
嗄れた声が、弱々しく部屋に響く。
旗色はもはや白旗寸前。だが態度は傲慢に、最後通告かのようにマリーに結論を促す。
「これだけ言って分からないか、悪党。子供を金で釣って資格を取らせ、お抱え鑑定人として偽物のゴミに価値を付けて売り捌いたんだろ?」
核心をついた一言。
それはまさに宣戦布告の合図。
刹那、扉が開け放たれ、銃を抱えた『使用人』たちが部屋の中に雪崩れ込んできた。
「……これはまた大勢でお出迎えか? 見送りは要らないんだけど」
「見送り、か。まあそうだ。お前がどこにいくかは知らないがな」
あっという間に取り囲まれた。
部屋の壁伝いにおよそ二十人。
ライフルの銃口は俺達に向けられている。
チャキ、と響く金属音が、どうも耳障りだ。
「最後通告だ。これまでの言葉を帳消しにするのなら奴隷契約で手を打ってやる。外面だけは良いもんだからな。ここで無くすのは余りに惜しい」
トールはしかめ面ながらも呼吸が荒かった。
殺意に満ち満ちたその眼は真っ直ぐに俺達を突き刺している。
まるでマリーの発言を待っていたかのよう。この発言でようやく殺せる、と。
「奴隷、か。浅ましいな。ここで一思いに殺せないから、こんな捻くれた商売に手を出すんだよ」
マリーは最後まで、態度を崩さなかった。
「──か、構えろ!!」
声が裏返ってしまうほどに溢れる怒り。
俺達を指したその指は、しわくちゃながらも赤く震えていた。
「もう許さない! 絶対にだ! なんとしてでもお前を──!」
────盤面は劣勢。更にここは敵の陣地。
しかし、私の側には護衛一人。
数に押されて、私の首ももうあと少しで落ちる。
普通なら勝ち目のない、降参も視野に入れるべき局面。
しかし、既に逆転の芽は撒いてある。
あとは駒を動かすだけだ。
手を付ける前に最後の計算。
……上々。ならば、宣言しよう。
反撃の狼煙を上げよ。
「──チェックメイトだ」
堂々たる彼女の宣言。
自信に満ちた彼女を見て驚くトール。
と同時にガン、と金属の音が鳴る。
しゅるり、と天井の排気口から黒い影が地面へ降り立つ。
そして────
「──ぁ」
「──ひぁがっ!?」
悲鳴にならない叫び。
二人ほどの使用人は首から血を吹き流し倒れていく。
二人の後ろには、全身を黒に染め、フードを深く被った人間。
手には鮮血に染まったジャックナイフ。
「──てき、っぁ」
「後ろだ! 気を付けろ!」
迎撃に入るまで二秒。敵と気付くには遅すぎる判断だ。
8mm弾に怯えることなく、黒い影はその勢いを緩めず部屋に居る人間に片っ端から襲いかかる。
的確に喉を通る動脈を切り、ついでに声帯も切り落とす。
獰猛で且つ恐ろしく精密な所作を、それは流れ作業のようにこなしていく。
「くっそ、早い!」
「焦るな! 敵はひと──」
ガシャン、と窓の割れる音。
転がり込んできた巨漢の男の手には、ショットガン。
「二人、め、ぁっ──!」
「くそがっ──!!」
重く鈍い音が鳴り響く。
鮮やかな血飛沫が舞い散る。
声にならない叫び。怒りから来る慟哭。
周りから撃鉄の音が聞こえる。
ここはもう、血生臭い戦場だ。
「後は『クイーン』と『ルーク』に任せる。私達はここから出るぞ」
マリーは目の前の惨状に我関せずと、いつもの調子で指示を出す。
でもここは焦って欲しい状況。早くこの部屋から出なければ巻き込まれるし、追っ手も勿論やってくるに違いない。しかも、マリーの脚力には期待できない。
それこそ、担いで走らなければ。
「お、おい! 誰が担げと言った!」
「こっから逃げるためだよ!」
マリーを担ぎ込みながら扉を蹴破る。
この騒動のおかげで、扉の周りを囲っていたやつらは居なくなっていた。
「せめてお姫様抱っこだろ!」
「ああもう、こっちの負担も考えろ!」
まだマリーは不満そうだ。
背中に微かに衝撃を感じる。
ポカポカと俺の背中を殴っているのだろう。そこら辺は年相応の反応をしてくれるのが、どうもおかしくなる。
やがて、観念したかのようにマリーの手は止まった。
「……仕方ない。この後は分かってるだろうな」
「ああ。『ビショップ』の指定した控え室に隠れるんだろ」
ここの構造は、既に外に居るビショップによって割れている。三階建てのこの屋敷の応接間は二階にある。
脱出するには下に降りなければならない。
しかし、マリー曰く「脱出するまでもない」らしい。
隠れて身を潜めるのが一番だ、という。
そのため、この長い廊下の突き当たりにある、とっくに避難させているであろう従者達のの控室を隠れ場所に選んだ。
長い大理石の廊下を駆け抜けて行く。
そこに並べられてるのはコレクションの数々。壺や絵画が価値あるかのように綺麗に飾り付けられてる。
「ふぅん、ゴミが着飾るとそこそこ様になるようだな」
「みたいだな」
飾ってある絵画よりも額縁の方が高そうに見える。外面だけで内面はからっきし。
でも、不相応な高い服に身を纏っていていながら、ある程度の気品さは保たれている。
馬子にも衣装とは正にこのことか。
「まだ二階にいるぞ!」
「──気づかれたか」
三人ほどの足音が響く。
大理石の床だから足音で感づかれやすいのだろう。
覚悟はしていたが、予想よりも早い。
次のポイントまでに間に合うかどうか。
「ルークとクイーンめ、撃ち漏らしがいたな」
「もう喋んな、全速力で行く!」
足に力を込め、回転を早める。
しかし、マリーを背負っている分、こちらが少し不利だ。
一本道の廊下をひたすらに走る。
だが、その距離はだんだんと縮まって行く。
「抱えられてるのが目標だ、捕らえろ!」
「くっ、そ──!」
足音からするにおよそ二メートル。
明らかにさっきより縮まっている。
もし飛びつかれて仕舞えば終わりだ。
まだだ。まだ、もう少し。あの地点に行けば──
突き当たりまで後数メートル。
ここの天井には大きめな排気口が──
「『ナイト』、来い!」
マリーの呼び声に呼応し、排気口から銀光が落ちる。
ガチャリ、と金属の衝撃音が響く。
その者は騎士だった。
しかし、騎士と呼ぶには余りにも不格好だった。
「くっ、止まれ!」
追っ手が足を止める。
目の前には、異形が立ち塞がっていた。
手甲と脚甲、流線型の兜に幾層に重なった鎧と白銀の槍。
文字面だけでは立派な騎士だ。
しかし、実際に見ると騎士としては程遠い。
手甲、脚甲はちゃんと作られておらず、所々から肌が露出している。
兜や鎧ももれなくそう。特に兜は右半分が欠けて眼が見えている。
研磨もまともに掛けられておらずに、槍の所々に粗が目立つ。
鎧に映るシャンデリアの光が歪むほど、こいつは不格好だ。
しかし、俺達にとって騎士以外に他ならない。
「……下がって、キング。ここは僕に任せて」
格好とは程遠い涼しい声音が廊下に響き、マリーの前にずい、と立ち塞がる。
「三階は終わったのか」
「うん。あ、ポーンも一緒に戦う?」
「……遠慮する。俺にはそんな力がないのでね」
「残念。歩兵は戦わなくちゃ行けないのに」
『歩兵』。それが俺のコードネーム。さしたる特徴のない俺にはピッタリだ。
『騎士』、『戦車』、『僧正』、『女帝』もそれぞれにつけられたコードネームだ。
文字通り俺達は駒。
そしてこれらを指揮する『王様』は、勿論マリーだ。
「ナイト、私たちを守れ」
マリーに応えるかのように、ゆっくりと槍を構える。
すぐに飛びかかることなく、じりじりと間合いを詰めていく。相手に飛び道具がないことを見越しての間合い詰めだ。
「くっ……、くそっ」
敵も重装備ではなく、武器は腰にある短剣のみ。だからこそ、槍のリーチの前には消極的にならざるを得ない。
更に、こちらと向こうの目的が違う。
こっちは最悪退かせればいい。今、この状況から脱却できれば後から殺すなりなんでもできる。
だが、向こうはマリーを殺すことが目的だ。この絶好のチャンスを逃せば、応接間にいる二人に確実に殺される。
つまるところ、特攻しかない──
「ぅ、ああぁっ!!」
一人が飛びかかってくる。
ナイトはそれに応じて重心を後ろに下げる。そしてグッと脚に力を込め、思い切り槍を前に──
「あっ、ばぁぁ──!!」
串刺しにされた胸から鮮血が吹き出る。
無造作に槍を横に振り、亡骸を壁へと放りやる。
「もう、いいか」
残りの二人に飛びかかる。
短剣じゃ、槍には敵わない。
「うああ、ぁがっっ!!」
一人の胸に槍を突き刺す。
吹き出す血も厭わずに、もう一人へ向き直る。
「どうする? ここで死ぬかあっちで死ぬか」
爽やかな声が、死を予言する。
彼に騎士道精神など毛頭ない。
ただ敵を殺すだけの機械だ。
「ひっ、はっ、ぃやだっ」
「遅い」
槍が閃く。
一つ、二つ、三つ。
頭に、胸に、脚に。
瞬きの間で三個の穿孔が、敵の身体に開けられていた。
穿たれた者は力なく、倒れ込んだ。
「ご苦労様、ナイト」
労いの言葉を掛けに、マリーはナイトへと駆け寄る。
すると、ナイトに纏っていた不格好な鎧はどろりと液体のように消え去っていく。
鎧を脱いだ彼は、どこにでも居そうな優しい少年だった。
彼はある事情から錬金術が扱えるのだ。
しかし、魔術師と言えるほどの術の扱いはできない。呼び出せるのは何故か鎧と槍だけ。しかも身体を纏うようにしか発現できない。
俺は勝手に『魔術戦士』と呼んでいる。でも、ナイトには余り気に入られてはいない。
「ありがとう、キング。これからどうする?」
「もう終わり。エントランスに行きましょ」
「……終わったのか?」
「ビショップはそう言ってるみたい」
マリーは懐から小さな宝石を出す。
チカチカ、と赤く光るこの合図は『状況終了』を合図している。
魔術師であるビショップは魔術で状況を確認し、宝石を使ってマリーに状況を知らせている。先程の隠れ場所の指定もビショップが直前に出していた指示だ。
戦闘を好まない彼女には、この仕事はうってつけのようだった。
長い廊下を抜けて、吹き抜けの階段を降りていく。
エントランスに着くと、仕事を終えて一服をしているルークがいた。
繊維の厚い服を着て、ベストなども着けてはいるが、無数の銃創が痛々しく残されている。それでも、根を上げずに煙を燻らせている。
敵の弾を受けても倒れない、正しく『戦車』だ。
「お疲れ様、ルーク」
「ん、キングか。お疲れさん」
「クイーンは?」
「クイーンは目標を連れてきてるが、そろそろだな」
壁に葉巻を捻りつけて火を消す。
すると、
「キング、無事だったのですね」
丁寧ながらも鋭い声が後ろから聞こえる。
軽装の黒服に身を纏い、フードを深々とかぶった女性。そこから覗く顔は、さっき迄の殺戮とは無縁そうな、キリッとした顔立ちだった。
右手には血の付いた短剣、そして左手には『目標』が。
「暴れていたので、つい傷を付けてしまいました」
「……おい。俺をどうするつもりだ」
右手欠損。大腿損傷。腹部には複数の銃痕。生きて喋れているのが不思議だ。
「なぁ、俺をどうするんだ。尋問でもするなら早くしてくれ……」
「どうもしない。今のお前に情報価値などない。早く死ね」
マリーは冷たく言い放った。
見下ろした。その眼は、まさしく人として見ていなかった。
尋問をせずに傷を付けられる、その怒りと痛みと虚無。守るものがあっての痛みと、何も目的のない痛み。どちらが苦しいのかは天秤にかけずともわかる。
現にトールの顔は、絶望に満ちていた。
「よし、帰るぞ」
マリーの後を追うように、ゾロゾロとエントランスを抜けていく。
俺もそれについて行こうとしたその時、トールと眼が合った。
俺を哀れむかのようなその眼。
俺を憂うかのようなその眼。
その眼に、どこか俺は惹かれてしまった。
「マリー。少しここに残って良いか?」
もう外に出ていた彼女に問いかける。
「どうした?」
「いや、少しこいつを『尋問』したい」
余り良い言い訳が出てこなかった。
「……まあ、いいか。帰ってくるんだぞ」
「へっ、道に迷わないようにな」
マリーの許可と、ルークの軽口を貰って俺はトールへと向き直った。
「……その眼はなんだ? 何が言いたい」
その問いを待っていたかのように、彼の顔が少し綻んだ。
「お前は、悪魔と契約している」
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一時間ほどで『借家』に着いた。
人気のいない裏路地の赤茶けたアパートで、この任務が終わるまでの拠点だった。
しかし、この任務ももう終わった。
部屋の内装も適度に古く、雰囲気といい意外と気に入っていたのだが、それも今日で終わり。
『上』から来る次の任務に合わせて、また次の拠点へと移る。
名残惜しい気持ちもありながら、玄関の扉を開ける。
パチパチと聞こえる薪の音に少しの違和感を感じた。もう寝静まったアパートに感じる人の気配。
「意外と遅かったな」
「……マリー。まだ起きてたのか」
マリーは暖炉の前で椅子に座り、本を読んでいた。
パタンとしおりを挟み、こちらへと向かって来る。
「どうだった。良い情報はなかっただろ?」
「……有益な情報はなかった。ただ、考えさせられた」
ほう、と興味深げに彼女は首を捻る。
「改めて聞く。お前の夢ってなんだ?」
「世界平和だ。何度も言っている通り」
即答だ。それほど、彼女は渇望している。
平和を成すために、夢を叶えるために、彼女は手段を問わない。
「もう一つ。今のお前は間違っているか?」
「間違ってないさ。今も昔も未来も。いつだってマリー=バーネットは正しいんだ」
恐ろしいほど真っ直ぐな言葉。いくら敬虔な信者であってもこうはいかない。
言うなれば、彼女は自分が主の宗教を信仰している。
そしてそれは、間違って『は』いない。
正しいかどうかは分からない。
でもそれを諫言することはできない。
所詮俺は歩兵。王の手駒でしかないんだから。
「なら良かった。これからも正しいお前であってくれ」
「……なんか気持ち悪いこと言うな。何かあったのか?」
首を傾げて不思議そうに見つめてくる。
先を見通す碧眼の瞳に、一点の曇りはない。
ならば、俺は保護者であり続けるべきだ。
こいつなら、きっと夢を叶えてくれる。
その日まで、俺はそばにいる。何があっても、どんなことがあっても、悪魔になっても。
「大丈夫だ。おやすみ、マリー」
「まぁいいか。おやすみ、レイノル」
お前が、俺の名前を呼んでくれる限り。