プロローグ
「お前は、悪魔と契約している」
『仕事』を終えたあと、ある男に俺は言われた。その言葉にはトゲもあるが、俺の境遇をまるで憂いているかのようにも聞こえた。
それについては反論は全くない。彼女との出会いで、それはとっくに理解をしていた。
「お気遣いどうも。それより、自分のことを心配した方がいい」
男の身体はボロボロだった。
右手は肘から切り落とされ、両の大腿は切り裂かれて機能していない。立つこともできず、女性のように内股で座り込んでいる。
腹部には何発も銃弾を受け、目の前には血が散華していた。
喋るだけでも恐らく、死期を早めているに違いない。
「あいつは、悪魔だ」
それでももう一度、念を押すかのように男は言う。自分の残された時間は、とっくに分かっているはずなのに。
悪魔なんてこと、俺はよく知っている。
重々承知で、あいつに付いている。
「理解してるさ」
「じゃあなぜお前は、あいつの付き人となったのだ?」
畳み掛けるように、男は言う。
早口で喋ったが故か、ゴホゴホと吐血をした。真っ黒の液体が、男の死を予言している。
「もう喋るな。死が近づくだけだ」
「構うな。私が今知りたいのはお前の頭の中だ。そうでもしないと、死んでも死に切れない……」
掠れた声で、そう懇願する。
なぜ、殺しかけたやつの付き人を知ろうとするのか。
訳が分からない、と言うわけでもない。
俺にも理解できる。今俺がいるのは破滅の道だ。正常な思考の人間は、ある程度のところで立ち止まって引き返す道のはず。このままこんなことを続けていれば、確実にしっぺ返しが来るって直感できる。
それなのになぜ、歩むことをやめないのか。
「俺は……」
適当に流そうとした時、ふと脳裏に、あいつとの出会いの記憶が映った。
あの夜は、美しいほどの満月だった。
なんだかその時の気持ちを、話したくなった。
「あいつの保護者なんだ。勝手に思っているだけなんだけど」
「保護者……?」
「はじめてあいつと出会った時、分かったんだよ。強大な力を持っていて、それも操ることができる能力もある。それは、思い通りにやろうと思えば何でもできる力なんだ。でもそれは、『本当に思い通りにしちゃいけない力』だ。世界を壊してしまう力だから」
言葉を交わしたあの夜、あいつの求めるものを聞いた。
「大人のほとんどはみんな夢を見て、時間が経つにつれてそれが叶わぬことと知っている。現実と夢との乖離を知って、初めて大人になるんだ。でも、あいつはまだ知らない。夢を見ている最中だ」
「夢、か」
「そう。大人じゃないから、夢は破れるものだとあいつは知らない。何でもできるって思っているし、実際に何でもできる能力がある。でもあいつの思う夢を本当に実現しようとするなら、あいつは確実に地獄を見る」
「だからお前が手綱を持つってか」
「いや、手綱は持たない。ただ、見守るだけだ。そしてこの先、どうなるかを見届けてやりたい」
「野放しにするのか」
「そうだ」
「殺しをしてもか」
「まあ、そうだな」
あいつの進む道は確実に破滅だ。人間一人ではなし得ない、神に挑むようなもの。
あいつはこの世界で、バベルの塔を建てようとしている。
それを邪魔しようとする気概はない。あいつの夢を叶えるのには全力で応援する。
例え世界がおかしくなってもいい。
その結末を、俺は知りたいだけだ。
「……お前はあくまで傍観者、か」
「その『あくま』はダブルミーニングか?」
「そこまで頭が回るやつだったら、あのお嬢様にも勝てたのだろうな」
初めて男は笑顔を浮かべた。
失血多量が故の蒼白い笑顔は、痩せこけた土壌に咲く一輪の花のようだ。弱々しく、また健気に。
この話を人にするのは初めてだ。今まで心に秘めていた、墓場に持っていくはずの思い。どうも情けで話してやってしまった。
でも、おかげで少し気が楽になった。
まだ、もう少しだけ、この道を歩もうと決めることができた。
「しかしあの女の子、マリーって言ったか。顔に似合わずやり手だった。私が張った罠を悉く躱して、逆に私を陥し込むとは」
「ああ。まだ幼いのに先を見通すことができる。商人は天職と言っても良いかもな」
「馬鹿を言うな。あいつの天職はそれこそ殺し屋よ。あれ程の用意周到な作戦は、もちろんマリーが建てたのだな?」
「よく分かるな。正解だ」
「今となっては不思議と思わん。こちらも警戒はしていたが、その数日前には既に屋根裏に潜んでいたとは」
マリーは『寄生虫作戦』と言っていた。
はじめに魔術での外観スキャン。構造を分析し、一番使われそうにない部屋を割り出してそこに兵を送る。そこで数日待機し、潜入ルートを確保する。あとは決行日に内側から掻き回すだけだ。
「人は警戒する直前が一番付け入りやすい」、とマリーはニヤケ顔を浮かべながら話していた。
「そして天井の排気口からアサシン擬きが私の兵を殺していった。更に追い討ちをかけるかのように二人目が窓から襲撃。上からは待機していた者が暴れ出す。外は魔術師が張っていて、屋敷から出ようものなら結界で邪魔される。
……全く、マリーを殺すことなんて失念するくらいに荒らされてしまった」
男の顔は清々しいほどの笑顔だった。
チェスで妙手を打たれた時には、こんな顔を浮かべてしまうのだろうか。
マリーの仕掛ける勝負はほぼ決まっている。分の悪い賭けは持っての他、勝率100%の一方的な戦いしかしない。
言うなれば詰将棋だ。最高効率でスマートに、テーマを持って王の首を取る。
あいつの眼には、この世界が盤面にでも見えてるかのようだった。
「……ああ、そろそろだ」
乾いた唇は、もう満足には動かなさそうだ。
「もう終わりか。随分と粘ったもんだな」
「最後に、いい話が聞けた。冥土の土産には持ってこいだ」
「それは良かった。こっちも楽しかったぜ」
「……この土産はお前が来るまで取っておこう。いつかこっちに来たら、一緒に盛り上がろうか」
「俺はそっちには行きたくねえけどな」
「減らず口が。お前の、行き先は……とう、に……」
弱々しい、蚊の鳴くような声は段々と消えて行く。
かくり、と頭を垂れて目標は事切れた。
豪華な屋敷のエントランスには俺と殺害目標の亡骸。大きなシャンデリアが、館の主の最期を照らし出している。
トール=ロイス。長年、鑑定書偽装で偽の骨董品を売り捌き、アルトラムの街では随一の富豪だった御老体は、俺たちの手で『粛清』された。
「……遅くなったな」
腕時計に目をやると、午前二時をとうにすぎていた。襲撃は午前零時だったことを考えると、相当に時間が経っていた。
惨劇が起きた屋敷から外に出ると、一転して静かな住宅街が並んでいる。
消音の魔術が施されていたため、恐らくは誰もこの騒ぎに気づいていない。
まさにこの屋敷は、生と死の境界線の役割を果たしていた。
「お前は、悪魔と契約している」
石畳の帰り路を歩きながら、さっきの言葉を、鸚鵡返しのように呟く。
秋の夜風は余り俺を歓迎してはくれないようで、ポケットに手を突っ込んでつい、猫背になってしまう。
トールの言葉が正解かどうか、今の俺には判断がつかない。
夢を見る、そしてそれを叶えようとする。
それだけで悪魔呼ばわりか。
そう思うかもしれない。
それでも、側にいる俺でさえも、マリーは悪魔だと思う。
例えば、億万長者の夢を見る。
夢破れる人は大勢いるが、一握りの人は努力すれば叶うだろう。
なぜ叶うのか。それはあくまで『現実的』の範疇だから。
例えば、世界征服の夢を見る。
叶わない。絶対に。有史以来、この夢を叶えた者はいない。
なぜ叶わないのか。それは世界を壊す『非現実的』だからだ。
バベルの塔という話がある。
その昔、人の言語が一つしかなかった頃、人々は皆協力して天へと続く塔を造り、神の世界へ到達しようとした。
だがそれを良しとしない神は災害を起こして塔を崩壊させ、更に言語を大陸ごとに分けるように仕向けた。
つまりは人は神に抗えない、神による統治が絶対、人は世界を動かせない、と言う縛りを作った話だ。
しかし、マリーは叶えようとしている。
バベルの塔を一人で組み立て、神に抗おうとしている。
実際、その能力は兼ね備えている。
多くの人は夢を見るだけで終わる。
だけどたまに、夢を叶える力を持って産まれた奴もいる。それは剣の腕でも魔術の才能でもなく、目に見えない、秘められた才覚だ。
俺の主は、その才覚に溢れている。溢れているだけならまだしも、それに気付いた時期が悪い。
あいつは、夢と現実の乖離を知らない、まだ無垢で幼い頃に気付いてしまった。夢を現実にすることなんて躊躇もない。
非現実的な夢を本気で叶えようとする。
そんな奴を、神はどう思うだろうか。
──だから。
俺は保護者だ。
彼女と同等の力は持ってない。
だけど破滅の道を進む彼女に、一人で進むしかないその道なりに、できるだけ寄り添って、できるだけ障害を取り除いて、夢の終わりを見届けたい。
一度夢を諦めた俺は、夢を叶えられる少女に期待しているだけだ。
一種のエゴだとわかり切っている。
でも彼女は、そんな俺を受け入れてくれた。
今でも鮮明に思い出せる、あの夜のことだ。
そうだ、日記でもつけようか。鮮明に思い出せるものは全部つけておこう。
明日の命さえ分からない身だ。思い出は残しておくに限る。
もしかしたら夢を叶えた時、この日記をまとめた本が売れるかもしれない。
タイトルはそう、彼女が為し得ようとする『世界平和』にしようか。