唐揚げ
思えば、物心ついた頃から寂しがりだったような気がします。
それは、幼いころに両親を亡くしてしまったからだとか、預けられた祖父母がちょっと意地悪だったとか、引っ込み思案でなかなか友だちができなかったとか、何かそういった幼少期の色々な満たされなさが現在の人格を創り上げたのかもしれません。
とにかく私は、孤独にとても弱くて、成人を迎えて実家を出ると、よく街でふらふら遊んだり、誰それかまわず夜を共にしてしまったり、それで危ない目に遭ってしまうことも何度かありました。
そんな私を救ってくれたのが、現在の夫でもある貴仁さんでした。
彼は、こんな駄目な私を、だれよりも愛して、守ってくれました。
恋人だった頃、未熟だった私は、少しでも連絡がつかないと朝昼かまわず彼に電話をかけては、「寂しい」と訴えていました。彼はいつだって多忙な人間でしたが、そんな私に真摯に向き合い、「ずっと杏のそばにいるよ」と出来る限りこの孤独感を埋めてくれようとしてくれました。「ずっと二人でいよう」と。仕事人間なのはわかってるんだから、絶対そんなのはムリでしょ。そう思いながらも、私はその言葉を聞くたび無意識に微笑んでしまいました。
恋愛経験は多少乱れていたかもしれませんが、私は決して遊び人ではありません。誰か一人に愛してもらえれば、それでよかったんです。貴仁さんと付き合い始めてから、夜の街へ出かけることもぱったりとなくなりました。
彼と付き合い始めた日、プロポーズをされた日、結婚式、何もかもが私にはかけがえのない思い出です。
何より、妊娠がわかったときは、涙が出るほどうれしくて。
私はもう、本当の意味で一人じゃない気がしました。今まで感じた孤独感が、嘘のように消えて、妊娠期間は憂鬱状態になりやすいと先に経験した友人たちから聞いてはいましたが、むしろ私は気分が常に充足して、高揚していると言って良いくらいでした。
私はもう、ひとりぼっちじゃない。ずっとほしかった幸せな家族を、手に入れることができるんだ。
私は欲張りすぎたのでしょうか。おなかの中に、三人の子供がいることがわかりました。私がもともと小柄だったこともあって、医者は減数手術を勧めてきました。おなかの子供を減らして、安全な出産ができるように。
けれど、私にはできなかった。どうしてもできませんでした。
そして、今までの弱かった自分では信じられないくらい、力強い決心が湧きあがりました。
「私がいなくなっても」
陣痛が来たときが、最後の記憶でした。駆け寄ってきた貴仁さんの腕をつかんで、私はなんとか最後まで言いたかった。
「私がいなくなっても……」
私は、死んだと思いました。それほどの長く、深い眠りにつきました。夢も見ないほど、孤独を感じないような、無の世界にいました。
そして目が覚めると、私はからっぽになっていました。どれくらいの時間が経ったのかわかりません。目の前の貴仁さんがやたら老けて見えます。まさか、植物状態にでもなって何年も眠ってしまっていたのでしょうか?
私は本当に無になってしまいました。
ずっと膨らんでいたおなかには、もう。
私は退院したあともロボットにでもなってしまったようでした。空気の冷たさや温かさも、匂いも、口に含んだ水の感触も、何もかもわからなくなってしまったようです。すべてのあらゆる神経がなくなってしまったような気がしました。今までもひとりぼっちの夜を過ごすたびに、死んでしまいたくなるような喪失感や焦燥感を味わっていましたが、それらすべてが甘く感じるほどです。今の私は、人生で一番の孤独を感じていました。
貴仁さんはそんな私に寄り添って、慰め続けてくれました。
「ほら、杏。ご飯ができたよ」
退院してしばらく経ち、固形物も普通に食べられるようになると、貴仁さんは私の好物の唐揚げを作ってくれました。貴仁さんは、昔からとても料理が上手な人でした。妻である私が恥ずかしくなってしまうくらいに。
食卓にはほかにも様々な献立が並んでいますが、相変わらず私の感覚は麻痺して、食欲なんてとても湧きそうにありません。けれど、貴仁さんの気持ちを無駄にしたくありませんでした。
箸でつかんだ唐揚げは、ずいぶん漬けていたのが、だいぶ柔らかくなっていました。まるで、焼豆腐をつかんだみたいだなと思いました。
口に入れた瞬間、意識が戻って初めて、私は感覚を取り戻しました。残念ながら、すごくおいしかったからではありません。
今まで食べたことがない味だったからです。
「どうしたんだ。好きだろ、唐揚げ」
私は自分がどんな顔をしているのか、よくわかりませんでした。貴仁さんは、そんな私を愛おしそうに見てくれていました。私はただただ目を見開いて、貴仁さんを見つめていました。
「ずっと杏のそばにいるよ」
それは、恋人だった頃から繰り返し彼が言ってくれた言葉でした。
「ずっと二人でいよう」
私は、そんなのいらない。と初めて、そう言いました。貴仁さんも、今まで見たことないような表情を見せました。それは驚愕と、目の奥の深い闇。
「二人の間にこんなのがいたら邪魔じゃないか」
私はただ黙って首を横に振りました。その拍子に、涙がとめどなく溢れてきました。
「君が寂しいというから。僕はずっと、そばにいるから。ほかのだれにも邪魔させないから。ほら、もっと食べなよ。そしたらすべてなくなる。元の二人に戻れるんだ。僕は二度と、君を失いたくない」
彼は箸を近づけると、私の口に唐揚げを入れようとしてきました。私は唇を硬く結ぶと、なんとか避けようと体を引きました。彼は身を乗り出すと、血走った目で私の上に馬乗りになりました。もう何もないおなかが痛みました。
そうしているうちに、私の口の中に入った最初の一口目の唐揚げは、いつの間にか喉を通っていきました。