視点A
まだまだ途中ですので、これからまた下へ下へと更新していきます。
とある島国から大きな地下橋で続く島、焚沙火島。そこでは、不自然な大量殺人事件が起きていた。
一度の事件で被害者は五人前後。多数の被害者の中、一人の手に握られていたスマートフォンには共通して同じアプリケーションがダウンロードされていた。この事件は重大機密だ。しかし、そんなことなどつゆ知らない一部の若者やネット廃人が噂をしてしまったようだ。一体どこからその話が流出してしまったのだろうか。『Lifegame』、それこそが噂のゲームである。このゲームに何が関係しているのか、噂は本当なのか、しかし内容は不明。なぜならそのゲームの世界へ行ったものは『帰ってこられない』らしいのだから。実際、一部の警察がゲームをプレイしたらしいが、帰っては来なかったようだ。その結果故、調査は行われないようになった。一体、ゲームの中に何があったのだろうか。それは謎に包まれたまま。
現実と非現実の狭間に存在するバーチャル世界。
これは…幸せな日々から切り離された少年少女の物語。
現代社会の闇に飲み込まれた少年少女の物語…。
「ご来場、ありがとうございます…」
ある者はそう呟いて、空間に浮かぶ電子端末を操作しながら狂気に満ちた笑みを浮かべる。
機材だらけの部屋に座り込むモルモットは、主に気付かれぬよう泣いていた。
――神歴三千二百二十年 九月八日
「また…これか…ったく、何度目なんだよ…」
被害者のスマートフォンを持つ勝と言う名の刑事は、また困り果てていた。理由と言えばただ一つ、今、焚沙火島で多発している猟奇的な大量殺人事件だ。
『LifeGame』、それが被害者すべてに共通することだ。この『LifeGame』と言う物は、最近出て来たばかりのスマートフォンのみ対応の無料で遊べるゲーム、つまりフリーゲームだ。内容と言えば、様々な部類のゲームがランダムでスタートされていくと言う物だ。売り出し文句は
『新感覚スマートフォンゲーム、VRSG(バーチャルリアリティースマートフォンゲーム)!生身の自分で感じ取ることのできる、今までにないスリルを是非お楽しみください!※ただし一日一グループまでです』
とのことだ。どうやらこのゲームは従来のゲームとは違うものを持ち合わせているようで、位置情報などを登録すれば、現実世界をゲームの世界に自分の身近な場所でプレイすることのできるという、売り出し文句からしても、とてもフリーゲームとは思えないハイシステムな物だ。
このゲームは一体何なのだろうか、ここまで高い技術を搭載しておいて無料など、何か裏があるに違いない、そう思わざるを得なかった。しかしそれがどんなものかはプレイした者にしかわからない。
持ち上がるは一つの噂、『ゲームの世界へ行ったものは帰ることができない』。
このシステムは焚沙火島で独自に進化し続けた高性能プログラムが混合されているため、内容を探ろうにも探れないものだった。
結局この事件も迷宮入り。
被害者の親類からの悲痛な叫び声が、まだ頭の中、耳の中に色濃く残っていた。
しかし事件は終わらない。
とは言っても、以前より事件は少なくなっていた。
ネット掲示板で噂になっていたこの事件。なんでも、そのサイトには『サツM』と言う仮の名前で『本当にヤバいみたいだからやらない方がいいよ』などと、掲示板に次々と打ち込まれるコメントと反した、場違いな物が書き込まれていた。その文章がサイト閲覧者の鎮静剤となったようで、必死さに人々の興味は冷めていき、事件は減り、段々と飽きられるようになった。どうやらその文章を書き込んだのは、噂によると空須市の警察一のネット民、ニックネーム「情報網」…いや、「サツマ」の孝也警部のようだ。
しかし、動かなければ真相はわからない。
孝也の考えと相反することを龍雅と言う刑事は思っていた。
――神歴三千二百二十年 十二月二十五日
調査と言うことで、クリスマスも独身組の刑事、龍雅の発案により、これまた独身の恭一、雫、秋奈、協力したいと自ら乗り出した課長の歩にゲームをプレイしてもらったが…。
「皆、準備はよろしいかの、では参るぞ」
爺くさい歩の号令で、皆は「はい」と声をそろえて、一同気を引き締めた。
プレイした瞬間、強い光が周りを包み込み、溶けるように消えていった。まるで幻のように。
「…始まりましたね…」
こちら側からの干渉は不可能、盗聴器を付けたが、やはり機能を停止された。
期待と不安、それを抱えながら椅子に座り足を組む冬実。その横には火の付いた煙草を銜え、無表情でスマートフォンを操作する勝が居た。そのさらに横の孝也は座ることもなく、忙しなく下を向きながら壁から勝の座っている間を歩き回っていた。
少し経つと死体が現れた。先程まで生きていたはずのその刑事の死体そのものだった。数分前の頼もしそうなその顔は、恐怖と絶望に歪み、死者に悪いが、とても醜いものだった。
血で濡れた被害者の肌に触れた。その死体は少しだけ暖かくて、本当に先程まで生きていたということを実感させられた。手が水音を立てながら肌を滑っていく。それは血であるが為なのだろうか、とても気持ちの悪い感触だった。
孝也は「だからやらない方が良かっただろう」と同僚の死に涙を流しながら言った。
それは、いつでも笑顔でいる彼の見たことのない姿だった。
「駒谷さんっ…」
よほど秋奈の事を好いていたのだろう。失ってから気づくことはある。
鈴凪勝は、面倒そうに一息吐いた。そして考えをまとめる。
数名の犠牲者を出してしまったが、少しわかったことがあった。
このゲームは確かにクロだ。
しかし、犯人は特定できないように特殊なプログラミングがいくつも重ねられており、ベテランハッカーをもうならせる、なかなかのくせ者であった。
どうやらこの島は、技術が進歩しすぎてしまったようだ。
このままではこの事件は永遠に解けない。
このままでは被害者が増え続けるばかりだ。
――神歴三千二百十九年 五月二十八日
最後の事件からどのくらい時間が経っただろうか。それからまた事件があった。
『LifeGame』の旬はとっくに過ぎたときの事だった。
その件では今までとは違った。
今までの事件はゲームのプログラミング上一日で一件だけだった.。だが、今回の事件は一日に二件も起こった。
そしてもう一つ、遂に…ゲームの生存者が現れたのだ。
たった一人の生存者は初夏の暑さで腐敗した死体の前で、引きつった笑顔で目を開いたまま涙を流しながら寝転がっていたと言う。
生存者はこの事実がよほどにショックだったのか、意識が無かった。
意識は生存者の精神世界へ閉じ込められた。
――神歴三千二百十九年 六月八日
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
人一人しかいない閉鎖空間、病室から一つの叫び声、生存者が眠りから覚めたようだ。
ひとしきり叫び終わった後、唯一の生存者は泣き出した。純白のその布を灰色に染めた。
ボロボロと大粒の涙をこぼしてはベッドの上で暴れまわった。
泣き止んだかと思えば今度は「ごめんなさい」と、壊れたラジカセのように何度も繰り返した。
「たとえ呪い殺されたとしてもそれを受け入れます!」
何もないただ白いだけの天井を見て生存者はその言葉を狂った笑みを浮かべながら叫んだ。
そうしてしばらく笑っていた。天井を見上げたまま、目を見開いたまま。乾燥する目を潤すためだろうか、それともただ悲しいのか、涙が肉の隙から流れ出ていた。
するとまた下を向き泣き出した。
そして訪れる沈黙。
「悪いのは…れな…だ…」
小さく擦れていく声でそう呟いた。
それを最後に見張られたたった一人の病室で生存者はまた眠りの世界へと落ちていった。
寝息を立てる生存者の顔は、少し幼く見えた。
Game Start
――神歴三千二百十九年 五月二十八日 帰り道
今日は雨、五月雨。
いつもの帰り道。
「じゃあねー!」
「さようならー」
学校を出てすぐの道で孤独の少女と機械仕掛けの少年が幻想の少年達の方へ手を振る。
二人の友のまた会える意を込めた、何気ない一つのあいさつ。
何も考えずに、当たり前のように紡ぐその言葉。
少年と少女は道を進む。
「今日、大丈夫だった?なんか一瞬すごく体調悪そうだったけど」
孤独の少女は心配そうな声色で機械仕掛けの少年に問いかける。
「いや…まぁ、別に大丈夫かな」
「そっか…」
「それじゃあまた明日」
「また明日な…」
会える意を込めた、何気ない一つのあいさつ。
何も考えずに、当たり前のように紡ぐその言葉。
二人は家のドアを同時に閉めた。
少年少女は道を進む。
空まで響く笑い声と重い雲を押し返すような笑顔。
周りの人の目なんて気にしない、楽しければいいんだ。
「ヒョンワーーーハッハーーー!首に雨粒落ちて来て冷てーーーへっへーーー」
傷受けし少女は犬のように頭をぶるぶると揺らした。
「うわっ痛い!髪の毛!痛い!」
罪負いの少年の顔に横二つ結びした傷受けし少女のその髪の毛が顔に何度も当たる。
罪負い少年は真横でその少女の髪を両手で挟み、その髪の動きを止めようと奮闘する。
しかしすべて大外れ。結果、すべての攻撃を食らい、作戦は失敗に終わった。
「ねぇ、はやく傘さしなよ…」
一方、夢砕かれし少年は鞄から折りたたみ式の傘を取り出し、後悔に燃ゆる少女の方へそれを向ける。
どうやら傘を忘れてしまっていたようで、全身が濡れそぼっている。
「この程度くらいどうってことない!」
後悔に燃ゆる少女は目を閉じて、握りこぶしを作り、それをそのまま元気に空へ向けた。さらにひどく濡れていく。夢砕かれし少年の行為は後悔に燃ゆる少女には全く効かなかった。
「みんな元気だねー」
二列横隊の一番前、幻想の少年の横で後方の会話を聞き流し、楽しそうに笑う拐かされ少年。
「そうだね、うるさ過ぎるくらいにさ」
幻想の少年は笑顔で声を弾ませて拐かされ少年の言葉に答えた。
会話がかみ合う合うことは無い。
それでも笑いの起こる日常。
皆と一緒に居られる…
これがどれほど幸せか。
それは皆、同じ思いだ。
いつも意味のない会話を繰り返して、笑って…。
いつもこの繰り返しだ。
それでも十分、この少年少女達にとっては楽しいものだった。
「ほら、早くしないと電車に乗り遅れるよー」
拐かされ少年は後ろの方で騒いでいる皆に向かってそう言う。
「はいよーっ」
傷受けし少女は陽気に答えた。
駅に着くと電車に乗った。
この時間は帰宅ラッシュでもあるが、本日は雨。そのせいで、通常よりもさらに人が多い。
こんな状況では呼吸をするのがやっととも言えるだろう。
少年少女はスマートフォンを取り出し、ネット回線上で声のない会話をする。
『今日は混んでるねー』
『妥当妥当―だって今日雨だったもん』
『【後悔に燃ゆる少女】、次は傘忘れないようにしないとね』
『本当だよ…おかげで僕の服が濡れてってるし』
『仕方ないよ、この密着率だし』
『シィーカタナッシング!』
『はいはい』
「次はー竹麻―」
『お、着いた じゃあまた明日ね!』
『明日~』
また会える意を込めた、何気ない一つのあいさつ。
何も考えずに、当たり前のように書きだすその言葉。
傷受けし少女と罪負いの少年はその文を書き残し、あとの四人に手を振って電車を降りていった。
『あー…ずっと立ってたら足痛くなってきた…』
『席…【後悔に燃ゆる少女】の目の前空いてるけど…』
『我慢。』
『何故や…』
『シルバー様方に残しておく』
『流石イケメン系女子―』
『まーたそれか…人として当たり前の行為だろう?』
『現世の若者の鏡…』
『言いすぎ』
それから二駅過ぎた。
『あー家が遠い…』
『まぁ我慢しなさいなー 【罪負いの少年】なんて駅降りて十五分程度自転車乗りまわさないといけないようだし』
『そうだなぁ…あいつ大変だな…』
「次はー小小背―」
『んじゃまた明日』
『また明日―』
また会える意を込めた、何気ない一つのあいさつ。
何も考えずに、当たり前のように書きだすその言葉。
幻想の少年と拐かされ少年その文を書き残し、あとの二人に手を振って電車を降りていった。
『【夢砕かれし少年】、席座る?…なんか…体調悪そうだけど…』
『あぁー…まぁ最近体調は優れないかな…でも後三駅だしいいよ』
『そっか』
『うん』
『はぁー…今日も疲れたな…【夢砕かれし少年】は今日何が一番疲れた?』
『音楽……ひかされそうになった』
「次はー余一田―」
「もう降りないとね」
「うん」
電車は走り去って行った。
「また明日!」
「うん、また明日」
拐かされ少年は幻想の少年に向かって手を振る。
また会える意を込めた、何気ない一つのあいさつ。
何も考えずに、当たり前のようにつぶやくその言葉。
明日になったら会えなくなる、そんなことを彼らは、彼女らは、考えたことなど無かった。
考えたとしてもそれは一瞬の出来事だ。どうしてか、
それが『普通』だから。
「今日も忘れた…何なんだよ……もう…やだよ…こんなの…」
少年は機械のようにとぎれとぎれの声を出し、流れない涙を心の中で一つ流した。
「お母さん…どこ行っちゃったんだろう…」
少女は寂しさに溜息を吐き出し、空気中の二酸化炭素をまた増やした。
「蒼斗さん、羽衣さん、園音さん、悠斗君…葵…ごめんなさい。…僕は…まだ…」
写真が一つだけの仏壇に向かって手を合わせる少年は線香の煙に包まれた。
「なんで帰ってきたの?あなたなんて要らない、私の子を返して!」
『そうよ、これは私の犯した罪への代償…オカアサンは私のせいで大切なモノを失ったのだから…』
そしてまた少女は大嫌いな自分の大好きな人へと犯した過去の罪を確かめた。そして無抵抗な彼女を壊れてしまったオカアサンは無意味に叩いた。部屋に乾いた音が響く。
「…ねぇ、こんなこと止めようよ…」
「お前に断る権限なんてない、ほら、言い返してる暇あるならさっさと作れ」
『じゃないと………………殺すよ』
少年は死にたくて仕方が無かった。しかし耳元でつぶやかれたその言葉のせいで生きるしかなかった。
「あら、帰ってたの?…今日は何もなかった…?」
「………」
「…そう…夕食の時にまた話しましょう」
何一つ言葉を漏らさなかった少女は優しい目をしたたった一人の家族に向かって頷いた。
「あら、お帰り。今ちょうどねお客様が来てるの。だから、お手伝いをして」
「………はい…」
少年は笑みを浮かべるその人の言葉にに、只々従うしかなかった。
『お父さんとお母さん 今どこで何をしていますか』
宛先などない手紙を「また」、引き出しの中に閉じ込めた。
「…ただいま…」
広い室内にその消えそうな声だけがふわりと響いた。少年は玄関まで伝うその香りと静寂にまた喉の奥を痛くした。
一人にしては大きすぎる家は、温かみを失った。広がるは冷たい暗闇。
次の日、皆何事もなかったかのように皆、振舞う。
そうすれば、皆、笑っていてくれるから…。
彼ら、彼女らは、互いに傷を隠して
また明日を生きてゆく。
そして、何事もなかったかのように…
アナタに見える世界を美しく彩っていく。
―神歴三千二百十九 五月二十九日―空須中学校 昼休み 二年D組 教室―
午後の刻が始まって約一時間。
暖かな昼間の、丁度いい日差しの暖かさに机へ伏せる。あぁ、寝てしまいそうだ…。
太陽の光を熱いものから暖かいものに変えるカーテンはゆるりとした五月終わりの風に棚引く。
目の端がだんだんと重くなる感覚。そうして瞼を閉じた。閉じても分かる、外の明るさ。
本格的に眠たくなった俺は、机に軽く伏せていた状態から深く、腕の中に顔を埋める。
そんな時だった。
「おーい!あーおーいー!……とりゃ!」
「いって!」
忙しい時間の間に現れたわずかな休息の時間に終止符が打たれる。
後ろを振り返るとゆっとがいた。今俺は暴力的パワーの強いゆっとに頭部に思いっきりチョップを食らった。
理由を聞くと話しかけようと近寄るものの全く反応が無く、しまいには眠りそうなところまで行っていたのでチョップで起こしたとのことだ。とは言え、これは目覚ましにしては痛すぎる。もう少しその馬鹿力の加減と言う物をしていただきたい。
「はぁ…どうしたんだ?」
溜息交じりのその一言、まだジリジリと痛みが尾を引く頭部をさすりながらゆっとの方へ、体を机に預けたまま顔だけ向ける。
「いやー…ちょっとアレだ…あのー…」
片側の口角を釣り上げ、後頭部をガシガシと掻き毟り、慌てた様子のゆっと。ただでさえバサバサとした髪の毛がさらに乱れる。まさかとは思うがと怪しみながらとあることを聞こうとしたその時、
「ゆっとくーん!ヘヘーィまさかチョップして忘れたとっくぁ!?」
俺の発そうとした言葉とまさに同意見のばねりが、スライディングを決めながら俺たちの所へ乱入してきた。
「ばっ、ばかいえっ!そんなはずないじゃん!」
「あっそそ、そうだ!明日、葵の家に行っていい?」
焦りが丸出し。明らかに忘れていたというようなオーラがにじみ出ているゆっと。よく見ると髪の隙間から見える額の一部には冷や汗が伝っていた。『やっぱり忘れてたじゃないか』と、真っ先にそう思ったが、後から喜びがこみ上げて来て、その言葉は思いによってかき消されていった。
「ああ、いいよ。どうせなら今日でもいいかもね。どうせ一人だしさ…。そうだ、ねいさん達も呼ぶか?」
一人よりもみんなでいる方が楽しいし。…一人だととてつもなく憂鬱だから…。
俺の机がダァンッと音を鳴らす。俺の中に現れた小さな陰湿な考えを断ち切った。
「おっ、よさそうな話でんなぁー!あっ、ねぇねぇ、アタシも参加していいかな!」
机に己の体重を任せきって約十五センチ離れたところで顔を俺に向けキラキラと小さな子供のように輝かせた目でこちらを見つめるばねり。さすがに近すぎて視線を逸らしてまった。
「よしゃー!みんな呼びに行くぞー」
突如大きな声を上げると同時に拳を突き上げるゆっと。楽しそうだが、一部の視線が自分の元へ集まると、顔を少し紅潮させて挙げた手を収めた。
まず初めに、とりあえず同じクラスに居るねいさんを呼び込むことにした。教室の廊下側、最後尾の端にいる彼女の元へ、三人塊になって行く。どうやらねいさんは本を読むことに集中していたようで、向かってくる俺達に全く気が付いてないというような様子だった。
「ねいさーん、やっほー!」
近づいてもなかなかか気づかないねいさんへばねりが耳元まで寄って、声を出す。
「おぁぁー、ばねりかー…今度呼ぶときはもっと声のボリューム下げてね」
「んねー、ねいさーん、何の本読んでるの?」
「秘密―」
「ちえぇ」
ばねりからの質問をさらっと返したねいさんは眼鏡を外して、読んでいたページに栞を挟み本を机へと収めた。その後、体を俺たちの方へ向ける。
「で、どうしたの?」
それからゆっとは、俺たちが話していた内容について説明した。
「ん?葵の家…行ったことないから行くよ。楽しそうだし!」
「よし、じゃあ次はオレじんとリンとさっくんだな。三人とも別のクラスなんだよなー…ちょっと面倒だな」
ため息一つ。それから「まぁしかたないか」と諦め、音にした。
「なら、休憩時間が終わる前に早くいかないとね」
「それじゃあ急がないと!ほら、いってらっしゃい!」
「アンタ何言ってんのさー、えー?」
「ほら、めんどくさがってないでゆっとも行くよー」
先程までねいさんが座ってた椅子に足を組んで座り俺たちの方へ笑顔でバイバイと手を振るゆっとの腕を強引に俺は引っ張って走った。
「まって、葵!ちょ!かかと引きずらせないで!靴脱げる!」
「なら自分で走りなさいな、そこのお兄さんよぉー」
徴発するような口調で声をかけるばねり。それに対する「校内ルール!校舎内走るの厳禁!」と言う対応は正論で俺達は何も言えなかった。そんなこんなでその場で止まっているうちにねいさんはもう人ごみの中に消えていた。
その後俺達はいつもの面子のうちの三人が居るB組の所まで来た。先にたどり着いていたねいさんからの第一声は「遅かったね」それだった。あなたが早すぎるだけなんです。
「じゃあねいさんが先に呼んでおいてくれたらよかったのに―」
「ごめんねー、あたしゆっととかオレじんとかばねりみたいにあんまり大声を出せないの。出そうと思えば出るんだろうけど…どうもダメでね…」
「ハイハイ、そう言うのは結構です、じゃあとりあえずみんな呼んで来るわ」
ねいさんの口から出て来た言い訳のようなそれをゆっとはさらりと受け流し、教室の中へ突入する。そして速攻で偶然塊になっていた面子三人衆を入り口の方まで連れて来た。
「んでー話って?」
リンのその問いかけに俺達は答えた。
「それで、葵の家に行こうってわけ。本人も寂しがってるし!」
ゆっとはまた「へへへ」と悪戯に笑う。
「ゆっと…勝手なこと言うな。いつ俺が寂しいって言ったんだよ!」
そんなことを言い返しつつも、その言葉は俺の奥底の言葉に直球だった。図星と言うやつだ。
「確かに二、三回ぐらいしか行った事が無かったからいいかもな」と、リンは楽しそうに言い、
「僕も行った事ないから行ってみたいなー」と、興味深そうにさっくんは言い、
「ほほう…葵は寂しがりの恥ずかしがり屋かー。寂しがり屋ねー!そうだ、家行ったらいろいろとあさってみよっかなー」と、楽しそうにメモを取りながらオレじんは言った。そして「家を探索してやる!」と、言いながらのやる気満々のガッツポーズ。そんなオレじんに俺は、「勝手にメモすんなー!」だの「家漁るんじゃねーよ!」だの言い返した。
そんなあからさまに真実を隠そうとしたのがバレバレだったのかオレじんは、「怪し~絶対なんかある~!」と言いながら先ほどの仕返しのように俺の腕を両手の人差し指で右左と、交互につつきながらそう言った。
頼むから探索だけは何があってもやめてほしい。いろいろと恥ずかしいし、見られたくはない。
そして何よりも…目を背け、封じてきたその全てを、蒸し返されたくなった。
あぁ……また…
蘇るは白と黒、四つの箱と写真、…閉じられた目に雫を流す目、受付で言われた『お悔やみ申し上げます』…
「葵…?どうしたの?」
「え、あ…何でもないよ」
ねいさんのその囁きで俺は正気に戻った。ねいさん曰く、とても顔色が悪かったようだ。話はいつの間にか時間の話に移っていた。
「でさー、時間なんだけどさー葵はいつからならいいの?」
オレじんの唐突の質問に一瞬戸惑ってしまったが、迷うことは無かった。
「あー…いつでもいいよ」
「えっ、じゃあ真夜中二時に来ても言いってこと!?返事無かったら侵入してもいいの!?」
「ばねり…不法侵入で訴えられるよ…」
ねいさんからの的確な返答が返ってくる。
そんな感じでガヤガヤと騒いでいるとそろそろ休憩時間が終わりそうになっていた。そんな時にこちらに向かって走ってくる足音が聞こえた。
「あっ、よかったー…」
「おう?秀利―、どうしたの?」
珍しく焦った様子で走ってきたがっくーに一同何事かと思う。
「あの…はぁ…ごめん…数学の教科書貸して…」
ばねりはそれを聞いて「なんだそんな話かー」と言ってB組の教室の中に入って行った。何をしているのだろうかと思ったその時、ばねりが戻ってきた。その手には数学の教科書が持たれていた。
「ありがっ…」
がっくーが教科書に手を伸ばした瞬間、それをばねりはすっと腕を縦に伸ばし遠ざけた。代わりに教科書を持っていない方の手を差し出し、指先をひょいひょいと動かした。
「二百円」
「それはよして」
「三百円」
「値段上がってるよ…」
「ばねり、その辺でもうよしとこうか…天下の桜夜様の裁きを受けるぞ」
オレじんはそう言いながら背伸びをして、何とかさっくんの方に腕を置く。
「天下も何も、裁きもできないよ…」
「あっ…」
さっくんは天下だの裁きだのと言った事に呆れながら自身のその高身長を生かしてばねりから裁きを下すこともなく教科書を奪った。そして何を思ったのか、教科書の裏表紙を見た。
「はい」
「え?」
その教科書を借りに来たがっくーに渡さず、リンに渡した。リンもなぜ自分に渡されたか意味が全くわからなかったようだが、次の瞬間一瞬にして意味を悟った。
「ちょ!ばねりー!」
「エヘ、ばれちった」
どうやらばねりががっくーに貸し出そうとしていたその教科書はリンの物だったようだ。思い返せばばねりは、その教科書を使って一丁小金を儲けてやろうとしていた。
「あー…なんかごめんけどリン」
「んー?何―?」
「この期に及んでなんだけど教科書…借りていいかな…?」
「ああー…はいよー」
「ありがっ…」
デジャヴ。
がっくーが教科書に手を伸ばした瞬間、それをリンは真顔ですっと腕を縦に伸ばし遠ざけた。代わりに教科書を持っていない方の手を差し出し、指先をひょいひょいと動かした。
「三千円」
「高くない!?」
「嘘だよー、オレはばねりほど残虐なことはしないから」
リンはそう言うと教科書を持った手を下し、がっくーにそれを渡した。
「ねぇ、今アタシの事完全にけなしてなかった!?」
「うんー」
「全くこいつって男は…素直ね…」
完全に自爆行為であることを認めさせられて震えるばねり。それをニコニコと悪そうに笑いながら見ているリン。その様子にこの場にたまっている皆がクスクスと笑っていた。
その時、休憩時間の終わりを示す予鈴が鳴った。
その瞬間、廊下で話していた生徒たちが「じゃあね」や「また帰りに」や「部活でね」などと声を掛け合いながら散っていく。まだ話している輩もまだいるようだが…。
「僕らは移動授業だから急がないとね」
「あーそうだったぁー」
顔全体のパーツを器用にゆがませて変顔をするオレじんの非常に間抜けな応答が廊下へ響き渡った。
「じゃあオレ達はこの辺でおさらばするよー」
リンは笑顔でそう俺達に告げながらオレじんとさっくんの服を引っ張り強制退場させながら慌ただしく人が行き交う教室の混沌の中へと紛れて行った。
「ではわたくしもおさらばー」
そう言ってばねりはA組の方へ走り去って行った。
「俺達も行きましょうか…」
数学の教科書を持ったがっくーが先を行く。
「あれ、葵達まだいたの?」
ひょっこりとオレじんが理科の教科書などを抱えて教室の中から出て来た。そうだった、B組はこれから移動教室だったのか。
「オレじんー行くよー…あれ?」
「まだいたのかー」
その後からさっくん、リンの順番でぞろぞろと出て来た。
「あぁ、よくわからんがこうなった」
ゆっとが腕を組み仁王立ちをしながらやたら偉そうにそう言った。別に何も偉くない。寧ろ今教室に向かっていないというこの状況を馬鹿だと思うぐらいだ。
「左様か…では…拙者はそろそろおいとますでござる!」
オレじんはクラウチングスタートのポーズを取って走り出した。
「あ、ちょー……ハァ…オレ達も行かなきゃな」
一同呆れ笑いを浮かべた。笑いがひと段落着いたとき、さっくんが口を開いた。
「そうだね、じゃあ僕らもそろそろ行くよ。後大体二分くらいだったから急ぎなよ」
「おーよ、ありがと桜夜」
「うん……あ、じゃね!」
さっくんは少しだけ先に行っていたリンの方へ小走りで向かって行った。
「じゃあ俺たちも戻るか。」
「うん、いい加減戻らないとね」
「もう残り一分ぐらいなんじゃなーい?」
こんなに話し込んだのはとても久しぶりの事…だったのかもしれない。授業開始約一分前、さすがに廊下に人気は薄くなっていた。その後俺たちは、何とか授業開始のチャイムに遅れず着席できた。
不意に窓の外を見る。
さっきまであんなにも晴れていたというのに…
空には厚い雲がかかってきていた。
そして昼休みに仮眠を取れなかった分、午後の授業は睡魔が何度も襲ってきていた。
そうこうしているうちに五・六時間目が終わった。今日は部活動が休みだった。時間もいつもより多くあるし、がっくーが早退してしまったということから、ばねり誘われて途中まで一緒に帰るということになった。
「にしても阿須花川先生が休むなんて珍しいねぇー」
ばねりは序盤上げていた頭をそのまま下へ向かせた。
「そうだねー…はぁ、帰ったら何しようかなー」
「帰ってもどうせまた一人なんだろうなー…」
「そうなの?」
「うん、お父さんもお母さんも忙しいんだ」
「へぇー…何の仕事?」
「お父さんがタクシーの運転手で、お母さんが警察官!」
「なんか…すごいね…」
「葵の家はー?」
「んー…確かなことはあんまり聞かなかったんだけど父さんが…たしか…社長…会長…だったっけ…んでー…母さんが秘書って…聞いた覚えがあるな…」
「え、何それ凄い…」
「うっ、あ…ありがと」
よくよくかんがえてみれば、自分の親がどんな仕事をしてたのかあまりわからなかったから反応に困ってしまった。もしかすると社員三人くらいの小規模な会社かもしれない。いやむしろ父さんと母さんだけの会社かもしれない。
「じゃあ、アタシんちこっちだから。付き合ってくれてあんがと」
「おう、こちらこそありがと」
「じゃあまた明日!覚悟しとけよぉ?」
「うわ何それすげぇ怖い…まぁ何はともあれまた明日」
また会える意を込めた、何気ない一つのあいさつ。
何も考えずに、当たり前のように紡ぐその言葉。
ばねりは歯を出してにかっと笑って「じゃあね」と手を振った。
明日に怯えた俺は引きつった笑顔で手を振り返した。
そして俺は、一人駅までの道を行く。
考えてみると、いつも皆と帰っているから何となく寂しく思えた。何だろうか、変な気分。別にこれが初めてと言う訳でもないのだけど…。
ばねりと別れてから俺の足取りはいつもよりも遅くなっていた。
目に映るのは昨日の雨で蒸発しきらなかった水の溜り場、そしてコンクリートだった。
この路に笑顔の花は無い。
そして俺は電車に揺られる。
「次はー小小背―」
スマートフォンをかざして改札を抜ける。
そして家までの道を歩いた。
俺は鍵を開けて家に入った。
「ただいま」
――何も考えずに、当たり前のようにつぶやくその言葉。
ドアを開けば温かみを失った冷たい暗闇。
声が返ってくるのが当たり前と思っていたあの頃が懐かしい。
誰もいない。誰の声も返るはずのない玄関に、ほんのりと線香の香りがした。
帰るたびに心が痛くなる。ぽっかりと空いてしまった穴のように大きい傷口が痛む。
でも今日はまだましな方だ。いつもは皆と帰ってくるし部活終わりでちょっと暗い。そのため電気がついていて笑い声の聞こえる五人家族のお隣さんの所に「ただいま」と言って入ってしまいそうになることもない事はない。ただ、その様な時はいつもドアノブを持つ前に気付く。その家に対して俺の家には電気がついていない。俺が返るまでの間、光が灯ることは無い。家族の暖かさと言う物が冷め切ってしまっているように見える。現実はそれ以上だが。
普通の家では電機がついていてもおかしくない時間だというのに…。
仕方ないけど…。
荷物を二階の自室において、スマートフォンを枕元の充電器のプラグにつなげる。手洗いなどを終わらせてリビングへと行く。そこに待っているのは家族…ではない。
立ち込める線香の香り。
和室には仏壇が鎮座している。そこに父さん、母さん、姉ちゃんと弟がいる。そう、これが俺の家族。皆、死んだんだ。唐突に突き付けられた孤独と言う名の現実。それは身も心も少しずれたらすぐ潰せるような圧力を持っていた。
俺に理由はよくわからないが、俺の家は親戚全体に縁を切られている。生まれたときにはすでにその状態だった為、親戚やいとこの存在を知らない。弟の悠斗も、姉ちゃんの園音も、だ。
生活費はすべて親が残したお金で賄っている。これも理由はよくわからないが、俺の家、三尾浜家には大金があるようだ。だから現在、困っていることは無い。
家事は全部自分でやっている。
一人になってしまったから当たり前だ。もう定着している。
その状態が始まってからもう五年ほどだった。
以前から家事の手伝いとか、そのような類の事をやっていたため困ることは無い。
仏壇に線香を。
その後は洗濯物を取り込んだ。それからキッチンへ行って夕食を作り始める。食器棚には一人暮らしにしては多い過ぎる食器がまた、変な威圧をかけてくる。そんなことを考えていると鍋が噴いた。
沸騰したお湯が火にかかって、さっきまで青かった炎が、夕日の光のようにオレンジ色を帯びる。
「うわっ、火っ火がっ!」
俺は慌てて水がかかってオレンジ色に揺らぐ火を止めた。
今日は買いだめをしておいたパスタを作る。昨日は忙しくてなかなか買い物に行く気力も浮かばなかったからだ。
茹でたパスタを湯切りした後はオリーブオイルを絡める。なぜそうするか。こうすることで、時間経過とともにパサついてしまうパスタを保存しておくことができる。また、それにより明日の弁当や次の日の食事時に食べることができるからだ。母さんを見て習った一つの業だ。
それから適当に準備を進めていく。
「…いただきます…」
五年ほど前を境に広くなってしまった大きなテーブルで一人夕食を食べる。時計の針の刻む音だけがリビングに響き渡る。ガチャンと流し台に置いた、使用済みの調理器具などが時間経過によってずれる音が聞こえた。反射的にその方を向くが誰もいない。笑い声でさえも聞こえやしない。まるで耳が聞こえなくなったかのような感覚。静かすぎて耳鳴りがしてしまいそうだ。でもこれはいつもの事。何年間も続いたこんな日常。あああ…頭がおかしくなったのかな。誰も見えない。これは幻覚なのか?いいや、違う。幻覚なんかじゃない。こっちがもともとの現実なんだ。
「また…何を考えているんだ…俺は…」
そう嘘吐きな夢を見てしまいそうになった自分に向けて言った。
夕食を食べ終えて皿を洗った。食洗器に入れるほどの量でもないので洗剤で洗って終わらせる。
片付けようとするが、眼前に迫るはまた食器。
「今度…捨てとこうかな…」
そう思って取り出してみたが、なんだか勿体無くて、思い出をすべて、存在すらも消してしまうような、そんな気がして…。
そうして俺は思考の末、自分の見えない所へ隠すことにした。これを隠したら一生開けることなどないだろう部屋に。……父さんと母さんの食器は父さんと母さんの部屋へ、姉さんの食器は姉さんの部屋へ、悠斗の食器は悠斗の部屋へ、隠すことにした。
「この部屋に入るのも何年ぶりだろう…」
無意識のうちに言葉が口から零れた。
父さんが使っていた机の上に父さんと母さんの食器を置いた。
少しほこりをかぶった机の上にはキュータが作られるよりもずっと前の型のパソコンが置いてあった。これは父さんが愛用していたものだ。視線を横にずらせばスプーンが入っているマグカップ。このコップの底が少しだけ割れてしまう前は、母さんがこのコップにコーヒーを淹れていた事を思い出す。
「ぼくも飲んでみたいなー」
「ふふ…じゃあ飲んでみる?」
「葵君には無理でしょー」
「飲めるもん!」
「苦いぞー」
「頑張れ兄ちゃん!」
「このくらい……熱っ!……うぅ…」
「ほら、言ったろ?」
大人になろうと背伸びして、無理して注いだ苦い味。今でも少しだけ苦いけど、ちゃんと飲めるようになった。死ぬ前に飲めるようになったって言いたかった。
「コーヒー、飲めるようになったよ」
今言ってもそれは空気になるだけで、誰にも届かない。
姉さんの部屋に入った途端、食器を手に俺は異変に気が付いた。
「なんでこんなに物が少ないんだろう」
とりあえずずっと食器を持っている気にもならないから姉さんが使っていた机の上に置いた。それから辺りを見回した。姉さんの部屋にしてはさっぱりしすぎている。
「姉さーん、夕ご飯だってー」
「葵君待って!」
大きな黒い影が俺の視界を遮る。
「いたっ、いた、だっ、あいて…」
「あああ…」
頭の上にたくさんの本が落下してきた。部屋を見渡しても本だらけだ
「部屋の掃除してたの…もう少し時間かかるって言って」
「あい…痛いなー…」
「ごめんって…」
背伸びして丁度位のあの本の山には正直驚いた。しかしなぜだろう、今はその本が一つもない。本だけではない、全体的に混沌としていたこの空間がどうしてここまですっきりしているのか。
「まぁ、捨てたのかな」
広くなった部屋の埃で穢れた空気を簡単な一言でさらに穢して部屋を後にした。
「字…汚いな」
食器を置き、ノートを片手に取った俺の顔には微笑みがあった。汚いとは言っても年相応の文字でこう書き綴ってあった。
『四年三組二十五番 三尾浜悠斗』
まるで昔の俺の字だ。
開かれたままのノートには解きかけの問題が多々あった。また、俺か姉さんにでも聞こうと思ったのだろう。
あの日終わることのなかった宿題が今この手に。
「兄ちゃん、入るよー」
「おーう」
「兄ちゃん、これ教えてほしいな」
「ああーえっと……えっと…えっと…ちょっと待ってろー」
「え?…うん」
不思議そうにする悠斗を部屋に残し、姉さんの部屋に向かった。
「姉さんヘルプ!」
「ん、どうしたの葵君」
「ちょっと来て」
「え、ちょ、なに?」
軽く戸惑う姉さんの手を引いて悠斗の元へ連れ行く。
「あ、兄ちゃん」
「姉ちゃんあと頼んだ」
「え?ええ?」
「悠斗に勉強教えてやって…」
「あぁ、そういう……どれどれ?」
「えっとねぇ、ここがわからなくて…」
「あーそこか…フフッ、ここ葵君が苦手なところだよねー」
「ぐぅ…」
「へぇー…兄ちゃんここわからなかったんだー」
そう言って悠斗はケラケラと笑った。
「もー、悠斗もできてないじゃないかー」
「あれからもう五年か…」
あれから…俺以外の家族を奪っていったあの事故からもう五年もたっていた。もしこの事故が無かったら、手元のこのノートももっと難しそうな問題が書き綴られていたのだろう。あの時の俺が解いていた問題よりもさらにもっと難しい問題を。
机の上に閉じたノートを置いて俺は部屋を後にした。
最後に自分の部屋り、ベッドへ倒れこんだ。枕元のデジタル時計には八時四八分と映されていた。
脱力感に身を任せ、手を伸ばした先にはテレビのリモコンが置いてあった。不意に電源ボタンを押してしまい、部屋の中にある、少しだけ型の古い、小さなテレビの電源がついた。
やたらと楽しそうに観客、出演者共にゲラゲラと笑うバライティー番組が流れだした。なんだか楽しい気分になれない。チャンネルを変えてもバライティー番組、さらに変えれば音楽番組、教育番組、コロコロと変えてるうちにニュース番組にたどり着いた。変えた時、丁度九時のニュースが始まった。キャスターの下に和音紀晃とテロップが表示される。あの時より年老いた彼の口から言葉が紡がれる。
「今日午前十一時頃、焚沙火島空須市の高速道路で四人を乗せたタクシーが、大型トラックと衝突する事故がありました。この事故でトラックの運転手、帆鮫海人さん二十八歳、鳥谷タクシー運転手、峙羽今助さん四二歳、明松真さん三〇歳、明松千春さん二四歳、明松望ちゃん六歳、計六名が亡くなりました。原因はトラックのブレーキが効かなくなった……」
酷い耳鳴りがしてニュースの内容が上手く聞き取れない。
偶然にしてはできすぎているこの状況に俺は頭を酷く痛めた。
楽しい日々が心を抉る。最後に蘇った思い出は…神歴三千二百二十四年、三月二七日の夕方。
――俺は風邪を患っていた。
―神歴三千二百二十四年 三月二十七日
小学六年生の春休み。つまり、この春休みが終われば中学生になるというころ。春休みの間にみんなで出かけることになっていた。でも俺は、当日の朝熱を出した。
「三七度……今日はどうする?」
姉ちゃんが優しく囁いて、悠斗が心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。
「今日は行けそうにないかな…。でも大丈夫…多分二、三日くらいで治るよ、ただの微熱だし…。だから皆楽しんできて。滅多に出かける事無いんだし…ね?」
二人とも困ったような表情をして顔を見合わせていた。
別に一人になりたい訳でもない。ただ本当に、純粋に、楽しんできてほしいんだ。
「じゃあお母さんとお父さん聞いてくるよ」
悠斗は颯爽と僕の部屋から駆け出ていった。階段をバタバタと下りていく足音が部屋まで響く。数分後、また階段からバタバタという足音が聞こえた。
「で、どうだったの?」
姉ちゃんは僕の方から入り口の方、悠斗の方を振り返る。
「あ、そうそう『本人がそう言ってるんなら大丈夫かな』って言ってたよ」
「そうなの…ありがとう。葵君、じゃあ今日はゆっくり休んでてね」
姉ちゃんは熱で熱くなった僕の手を、優しく、軽く握った。
優しいはずなのに、冷たさを感じた。手が冷たいせいなのだろうか。
「うん、わかった…じゃあ、行ってらっしゃい…。楽しんでね」
寝たままの体を起こし、手を振った。そうしたらちゃんと寝ときなさいと言われた。そして僕は熱の辛さから逃げるように眠りについた。
それが姉さん、悠斗に伝えられた最期の一言だったことも知らずに。
あの時の俺は静かに寝息を立てていた。
随分と深く眠っていたようで、目を覚ました時にはすでに夕方の強い紅色の日差しが窓から差し込んでいた。熱を測ると三六度。考えていたよりも早く治った。こんなものなら一緒に行けばよかったとも思った。今更後悔しても遅いのだが。
昼ご飯を食べていなかったからとてもお腹がすいていた。腹の虫は止まず絶えず音を出す。
何か小腹に溜まる物でもないかとキッチンへ向かった。冷蔵庫を見てみれば、小さな片手鍋がそのまま冷蔵庫に入っていた。鍋蓋には手紙がテープで張り付けられていた。手紙には「起きたら食べてなさいね」と、書いてあった。
ふたを開けてみた。中身は卵を混ぜられたお粥。きっと僕の体調を気遣ったのだろう。
適当な量をお椀に盛って、ダイニングテーブルに着く。そこで習慣的にテレビをつけた。
丁度、六時のニュースをやっていた。
「そう言えばみんな遅いな…」
キャスターの下に和音紀晃とテロップが表示される。画面の中で彼は口を開いた。
「今日午前十一時頃時、焚沙火島空須市の高速道路で四人を乗せた車が、大型トラックと衝突する事故がありました。この事故でトラックの運転手、西見五里さん、軽自動車にの合っていた、三尾浜蒼斗さん、三尾浜羽衣さん、三尾浜園音さん、三尾浜悠斗さん、計六名が亡くなりました。原因はトラックのブレーキが効かなくなったことのようです」
「………え?」
僕は言葉を失った。
口を開いたまま思考が停止する。
「父さん?母さん?姉ちゃん?悠斗…?」
画面の中に顔写真が映し出される。僕は平面でしかないそれに、ただたくさんのブロックが組み合わさっただけのそれにゆらゆらとした視界の中、ゆらゆらと近づき触れる。
次々と表れる写真に僕は……再び動き出した思考はすぐさまパニック状態となった。
「夢だ!夢だ!こんなの絶対ある訳無い!無いんだ!夢に決まってる!嫌だ…そんなの嫌だ…やだ………マボロシ…マボロシ…そうだ!絶対にそうだ!熱のせいで変な幻見ちゃっただけだ!そ…そうだ…電話…電話!」
これで確認できる!
乱れたままの呼吸で、震える体のままで、崩れたままのにやけ顔のままで、頬を涙で濡らしたままで…
お父さんに電話をかけた。
長いコールの後、ブツリとつながるときに聞こえる音がする。
「もしもし!父さっ…」
「お留守番サービスに接続し…」
小さな俺の、小さな考えは崩れていった。
「なんで、なんで!?」
きっとトンネルの中で電波が悪いんだろう…。
あの時の俺は、そんな甘い夢を頭の中に浮かべていた。
次はお母さんに電話をかけた。
「もしもし!母っ…」
「お留守番サービスに…」
そんな甘い夢は散り散りに。
「どうして、どうして繋がらないんだ!?」
きっと疲れて寝ちゃっやりしたんだろう…。
表向きの考えはそうでも、裏では暗い想像しか頭にない。きっとそんなだっただろう。
姉ちゃんに電話をかけた。
「ねぇ、姉ちゃっ…」
「お留守番サービスに」
嫌な想像が僕の頭の中を駆け巡る。
「きっと…きっと…きっと…」
「次は悠斗に…」
悠斗はまだ…携帯を持っていない。
懲りずに何度も、何度父さん、母さん、姉ちゃんに電話をかけても繋がらない。
砕けた。崩れた。堕ちた。
無理矢理思い浮かべた自己暗示は崩れ落ちて堕ちて。
「あぁ…あぁ…うああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
過呼吸が止まらなかった。吸っては吐いて吸っては吐いて叫んでせき込んで叫んで…。
また湧き上がる熱の感覚、体温が上昇し、汗が噴き出す。
「お帰りくらい…言わせてよ…」
神は無慈悲だ。
そのあとの事は何も覚えていない。いや、覚えているのだけど、ただただ記憶の引き出しに詰め込んで鍵をかけて、封じ込んでいるだけなのであろう。
幼い俺には辛すぎて…耐えきれなかったのだろう。
記憶上では、いつの間にか中学生になっていた。あの春休みの間、生気など感じられないほどに顔色が悪かったと、後々幼馴染のリンからそう聞いた。
溜息が漏れた。涙が溢れた。
全くおかしな話だ…俺が五年前に画面越しで見る事しか出来なかったあの事故、時間も、人数も、状況も同じで…何故こんなにも似た事故が今俺の前で五年前と同じキャスターが事を告げたのだろうか。何故と言ったところで、これは紛れもない現実で、ただの偶然に過ぎない。
涙で歪む視界の中、和音紀晃は顔色一つ変えず事を告げていく。
天井に手を伸ばす。かざした手を顔の方へ。顔を伝う涙を拭った。流れる涙をせき止めるように、目を手で覆った。そこからゆっくり、涙を頬へ塗りたくるように下していく。
…生きている…自分だけ生きているという現状が作り出す自分でもよく分からないそんな罪悪感。あの時家族皆に『行ってらっしゃい』なんて言わなきゃよかった。
そんなことを思いつつ目を瞑った途端、目尻から涙がまだ零れた途端、充電をしていたスマートフォンの着信音が耳元で鳴り響いて小さく驚きの声を上げた。
「こんな時に…」
半ば苛立ちながらスマートフォンを手に取る。発信者を見ると、リンだった。
泣いた後の声を聞かれたくなかった。幼馴染の彼なら、きっと気が付いてしまうだろうから。
無駄な心配はかけない。かけさせてはならない。
「…もしもーし、こちらお留守番サービスでーす」
鼻を摘んで声を変えてみた。
「なにやってんの?」
俺が言葉を発した直後、冷たい応答が即座に返ってきた。まぁこの、子供だまし程度のお遊びのようなもの、気づかないはずが無かった。
「んでー何用?」
「ああ、明日の話でさ」
「うん」
「ゴメン!明日参加できないかも…」
「え、どうして?」
「実は姉ちゃんが今日風邪こじらせちゃって…随分辛そうだったから…」
「そうか…お姉さんお大事にね、あとリンにもうつらないように…うん、じゃあ皆に知らせとくね。それじゃあまた月曜日にな」
「せっかく誘ってくれたのにゴメンな…うん、じゃあ月曜日。オレの分も楽しんでね」
糸が切れるように、プツリと小さな音を耳元で鳴らし、電話は切れた。俺は電話が切れてもなおスマートフォンを手放さず、ただただ呆然としていた。
リンが最後に吐き捨てた『楽しんでね』の一言は、少し前に思い出したことをまた思い出させた。こんな短時間で二度も思い出すことは異例で、何となく笑うしかなかった。
「はぁ…早く知らせないと…」
『リン明日、不参加だってよー』
俺はそうスマートフォンに打ち込み、メッセージアプリで全員に知らせた。すぐに数人の了解の答えを確認できた。
「はぁ…なんだ来れないのかー…」
そんな言葉が口から零れた。でも、お姉さんの事だし、仕方ないことだと思った。何せリン…御那斗の家族は……御那斗以外、お姉さん…舞さんしかいなから。
その時メッセージが来た事を知らせる通知音が鳴った。
『とりあえず、明日そっち行ったら何する?』
アイコンを見て、メッセージの送り主がゆっとだと分かる。
『テストも近いし、勉強会も兼ねる?』
送信ボタンを押して俺は思わずため息をついた。ノープランだったのかよと。
時計の方を見れば既に九時半。そんなに時間たっていたのか、俺の頭はその考えで埋め尽くされた。
「やばい…寝そう…」
ずっと布団に転がってうだうだと時間を過ごしていたものだから、いつの間にか瞼が非常に重くなっていた。
そこで俺は眠気覚ましにと、風呂にでも入ることにした。
先程の事が、声が、頭の中を巡っている。それにはもう苦笑するしかなかった。
軽い眠気で頭がボケていたのか俺は冷水をそれも強烈な圧で頭から浴びてしまった。閉まりそうな瞼が一気に開くと同時に自分でもどこから出たのか分からないような、全く自分の声じゃないようなそんな驚きの声が出た。そして驚いたときの間抜けなポーズが冷水で曇ることのなかった鏡に映ってしまい、羞恥心が募った。
お陰様で目が覚めました。
そして俺はまた苦笑する。
「アハハ………ハァ…」
そして深いため息も。
髪をタオルで適当に拭きながら歯を磨く。何となく向けた視線の先には時計があった。十時が近い。
中学生の時は登下校にそこまで時間がかからなかったからよかったものの、今では中学生の時以上に時間がかかってしまう。そして家事全般を一人でこなす。なかなか広めの家だから、休日の掃除も結構大変だ。
扨………宿題…しとかないと…。
油断したらまた眠れそうだ。勉強と言う憂鬱が原因で。
そんな憂鬱を断ち切るため、折角拭ったばかりの手をまた冷水で濡らし、軽く払った後、冷えきったその手で頬を叩いた。当たり前の如く、頬へじわじわと痛みが拡散されて行く。
よし、と呟いて仕切り直したその時、少しだけ遠くの方で声がした。
それは、紛れもなく…
俺は声のする方、明かりが灯っている方、リビングへ駆けつけた。
行儀悪く半開きになった扉から、光と声が漏れる。いつもの光景だ。
今日はどんな甘い夢を見せてくれるの?
扉の隙間から夢を覗き込む。
「ねーねお姉ちゃん、これ見てー!」
一枚の紙を、ソファーに腰掛けている姉さんに見せびらかす。
「よく頑張ったねー、偉いねー悠斗君は」
姉さんは優しい笑みを浮かべ、優斗の頭を雑に撫でる。悠斗は自分の髪がくしゃくしゃになるのも気にせず、撫でられている現実を一心に噛み締めていた。
その様子を俺は、笑みを浮かべて眺めていた。すると、姉さんと目が合った。
「あら葵くん…どうしたのそんなところに突っ立って」
こちらを見てくる姉さんの瞳は真っ暗で何も映してないようにも見えるが、優しいものだった。
「おいで…」
まるで耳元で囁かれているような、小さな声がへ届く。
その声に導かれて、声の元まで歩み寄る。
「よく来たね、葵君…」
来たと同時に姉ちゃんは俺を抱きしめた。突然の行動に、俺は少しだけ動揺していた。それでも姉さんの暖かさを肌に感じることができる現状に嬉しさは止まらなかった。
「兄ちゃん!」
「うおっ…もう…どうしたんだよ…」
思わず笑顔がこぼれる。
姉ちゃんに抱きしめられた後、その上にさらに重なるように悠斗も飛びつくように引っ付いてきた。
久々のこんな温かさが、只々嬉しくて。
いくら幻覚でもいい。それでもずっとこうしていたい。一瞬でもいい。家族と一緒にいたい。
久々のその温かい感覚に浸っていた。
そんな時だった。
留守になっていた背中を中心に痛みがからだ中を駆け回る。
俺は声にならない悲鳴を喉の奥から吐き出した。
途端に姉ちゃんと悠斗は冷たい人形のような、生気のない面をしたまま俺の中で冷めていく。そして冷めたものは俺の周りから、溶けるように消えてゆく。
急ブレーキのような音と共に、消えていった。
痛みの原因、後ろを向くと、父さんと母さんが赤く穢れた姿で立っていた。
いやそれだけじゃない。
頭は首の座ってない赤子のように、無気力に横になり肩で支えられている。父さんは右足、母さんは左足が無い。腕には無数のガラスの破片が刺さっており、服は散り散り。そしてよく見れば父さんの手には、適当な刃物が握られた。その刃物に付着した血液は、床へと滴り落ちて行く。それは俺のモノだという考えが頭の中に焼き付いて、ほかの都合のいい考えを阻止する。
半停止状態の思考で危機感を感じ、指で押すとすぐに倒れてしまいそうな足取りで逃げ道を探す。
思考は完全に停止寸前、もう少しで届きそうなドアの前に父さんと母さんが立ちふさがる。次に赤く穢れた父さんと母さんが増殖し、部屋の外につながるところをすべて塞がれてしまった。
八方塞がりの俺、増えていく幻影。
遂に囲まれ、部屋の端の壁に追いつめられてしまった。
さらに追い打ちをかけるように、壁から姉ちゃんと悠斗が現れた。
赤く穢れ、服は散り散りに、頭が無気力に横になり、体中には無数のガラスの破片が刺さっている、そんな姿だ。
悠斗は俺の口の中にその赤く穢れた己の手を、息を吸えないように詰め込む。その間に姉ちゃんは喉笛に噛みつく。感じたことのない苦しさに崩れ落ちる。
幻想に縋りついた俺への…甘い夢への、苦い代償。
幻想の終わりに見るのは最期を駆け抜けた人々、俺の一言に肉片を車道へぶちまけた家族に、死ぬ寸前のような所まで痛めつけられる。
今回の甘い夢はここで終わりか。
決まり文句もいい所、俺の頭へ直接「生きたいよ」と言う声が駆け巡る。脳みそがその言葉で埋め尽くされたのならば、全てを貫き消し去るような耳鳴りと頭痛が埋め尽くす。
だから…目を閉じる。
幸せな幻からの脱出方法だ。
数秒後目を開けた。
体は動くはずなのになぜか動けないでいた。全身が痺れる様な痛みが続いた。俺はこれを夢の余韻と呼ぶ。夢の余韻は、最近どんどん強くなってるような気がしたが、そんな考えは無気力になった俺の頭から手に乗せた小さな砂粒のように指の隙間を落ちてゆくように、消えていった。
俺はただ闇夜が作り出す真っ暗になった部屋で少しの間、寝転がっていた。
「…はっ…」
目を開けると自分の部屋が視界に満ちた。いつの間に戻ってきたのだろう。
今は何時だろう、気にならない。
幻覚を見続けてもう五年、『幻覚なんて見たくない』という気持ちと、『幻覚でもいいから一緒にいたい』という、二律背反の思いが葛藤を続けている。
だから、結末がわかっているのに、痛みが待っていると分かっているのに、甘い夢の、毒入りの甘い蜜を吸う。
全くおかしな話だ…。
「俺…どうしちゃったのかな…」
机の中に入っている薬を取り出す。それを水なしで乱雑に飲み込む。そのまま机に伏せて、机に飾ってある家族写真を、倒して伏せる。何となく見たくなくなった。
もうどうでもよくなった。どうにでもなれと思った。
「はははっ…」
思い浮かぶことすべてが可笑しく思えて笑えてきた。でもなぜだろう、涙が止まらない。
募る孤独感は想像以上に俺の全てを蝕んでいた。
全てを投げだして、死んでしまいたい。でも、逃げ場なんて物はどこにもないんだ。
それに俺は臆病者だ。死にたいと思ったって、実行なんてできたためしがない。
机に小さな水たまりができる。情けない涙の水溜りだ。
幻覚じゃない…本当の家族の笑顔を見たのは、いつの事だっけ…。
頭を埋め尽くすのはこればかり。
「いっそのこと誰か僕を消してよ……そうすれば…俺はきっと…」
このまま、目を閉じたまま、息のない眠りにつくことができたならば、家族に会えるのにな…。
いつの間に寝てしまっていたのだろう…。
俺は夢と現実の狭間を揺蕩う。
そんな時だった。二階の階段口の方から、ドアの外に人が来たということを表すチャイムが鳴り響く。その細やかな音で、俺の意識は一気に現実に引き付けられた。
机に伏せたままだったその顔を一気に上げる。正面の窓ガラス、それを遮るカーテンの隙間から、強い光が差し込んだ。
「今…何時…?」
寝起きのぼやけた思考のまま、時計を見る。
「なんだ…十一時か…」
俺はそう呟いた後、速攻で硬直した。暖かい日差しが差し込んでいるのに、背筋が凍るような感覚がした。
「十一時…十一時…」
十一時は皆が俺の家に押しかけてくるという時間だ。
放心状態でほけっているとチャイムが連続で鳴らされ、外から俺の名を呼ぶ声が聞こえる。このままでは近所迷惑になってしまう。
まだ気だるさの残る身を引きずって、インターホンでチャイムに応えた。予想通り、皆がもう玄関の目の前に迫っていた。
「はい…」
「オッス!おはようッス!」
朝っぱらから、いや、昼間から元気なオレじんの声が起きたばかりの俺の耳に、うるさく響く。
「うん、わかったわかった。とりあえず、以後声を荒げないように」
「あいよー」
注意をするも軽い返事が返ってきた。
「オレじん、ちゃんと聞きなよね?」
オレじんの後方に立つさっくんが、オレじんの肩に手を置き世にも恐ろしい笑顔を浮かべている。肩に手を置かれたことに後方へ振り向いたオレじんはどんな顔をしているのだろうか。きっと引きつった笑顔で居るのだろう。
「まぁ、取りあえず、もう入ってオッケー?」
前へ向き直ったオレじんが狂気と悪戯を秘めたような特大の笑顔を画面越しの俺へ向ける。
ドアノブを高速で動かす音が耳に入る。
「いいから!さっさと!ドアノブを動かしまくるのやめろ!」
マイク部分に思い切り、大きな声で叫んだ。その声にオレじんが「はい!」と返事をする。彼女のテンションの高ぶりは、始まるとなかなか面倒だ。
「それでは失礼します…っと…」
さっくんの声が聞こえた後、オレじんの後ろを影が過る。ドアノブを動かす音が聞こえた。
その音に俺は我に返った。
「あああああ!まって!さっくんまって!」
「どうしたの?」
「もうちょっと待って!二十秒後入って来て!」
そしてインターホンを切った。
「やばい…着替えてなかった!」
自室に向かうための階段を駆け上がってる間にそんな独り言をつぶやいた。寝ぼけていた意識が一気に覚醒した。
クローゼットを勢いよく開き、ジーンズを取り出す・それからタンスを漁る。最初に手に取った服は厚手の長袖で、それを一気に放り投げた。次に薄手の長袖シャツを手に取った。もうこれでいいと寝間着の上を放り投げる。シャツに腕を通し、上からボタンを留めて行く。掛け違えてしまったが、どうせ見つけられる事なんて無いだろうし、別に後で直せばいい。
「よ、よし!オッケ…」
囁くように小さな自分の声が耳に返ってきた。
「あーおーいー?」
オレじんの声が聞こえた。階段を歩む音が近づいてくる。どうやらこちらに向かってきているようだった。
「はっ…ハロー、オレじーん…イエーー…」
「え…」
俺を呼ぶ声が部屋の前を通過した時、俺は勢いよく扉を開く。口から出た棒読みの言葉は自分でも理解不能な言葉だった。オレじんが苦い表情を俺に向ける。引きつった口角がピクピクと動く。
「……ハローアオイイェーイ!」
数秒の沈黙の後、オレじんは俺の手を無理矢理上にあげて、ハイタッチを強制的に行わされる。この瞬間相手がオレじんでよかったと思った。後のメンバーはきっと…引くだろう。
「とりあえずリビングに…」
「失礼しまーっす!」
「あっ、ちょ!おい!」
リビングまで行こうかと言おうとしたが、それはしっかりと遮られてしまった。そしてあろうことかオレじんは、俺の部屋の中へ突入していく。
「うおー!すっごいキレイ!私の部屋よりずっとキレイじゃん!」
仲からオレじんの叫び声が聞こえた。布団の上には先程脱ぎ捨てた寝間着と一着の冬服が放り投げてあるのに、俺の部屋を綺麗だと言った。
「オレじんの部屋って一体…」
脳内に浮かんだのは、見慣れた姉さんの部屋だった。見慣れたあの、少々埃臭い部屋だった。そこで昨日見た姉さんの部屋を思い出す。どうしてあんなに物が少なかったのだろう。
オレじん声が聞こえたのかその後から、ねいさんとさっくんが階段を登ってきた。二人は部屋へと足を踏み入れてくる。ご丁寧にも、「失礼します」と言いながら。
こうして、俺の部屋物色タイムが始まった。
「そう言えば葵?ボタン掛け違えてるよ?」
「あっ…」
俺は間違っていた。どうせ見つけられる事なんて無い、それは随分と甘い考えだった。忘れていた。さっくんは無駄にこのようなところを目ざとく見つけてしまうと言う事を。
「ちょっと直してくるね…」
それだけ言い残して俺は、部屋の外へ出た。
「そういえば、あとの皆はどうしたんだろう…」
掛け違えたボタンを直しながら、今更ながらそんな事を思い、部屋に戻らずそのまま階段を降りた。
「んー…居ない…」
一階に降りて捜索してみたが、結局誰一人見つかることは無かった。
「話聞いてみるか…」
俺は再度二階に上がり、今家に居る三人に話を聞くことにした。
何となく、何となく察しはついていた。
部屋に戻った途端、俺はそう思った。
「へー…葵ってこういうもの持ってたんだー…」
興味深そうにベッドの上に置いてあるぬいぐるみを見つめるねいさん。
「ちゃんと綺麗にされてるなぁ…」
部屋の至る所を見まわして感心するさっくん。
「……」
そしてオレじんは何故か、只々静かに、俺が先程放り投げた服を丁寧にたたんでいた。
「お、やっと戻ってきた」
ねいさんがぬいぐるみから俺の方へ視線を移してそう声を上げる。その一声にあとの二人も反応してこちらを向い
た。
「そんなにボタン掛けかえるの大変だった?」
見下してるのか何なのか、さっくんは微笑みを浮かべてそんな言葉を向ける。
「んなわけねぇだろ」
「だよね…じゃあ、何やってたの?」
「あぁ…そうそう」
さっくんが話の切り口を用意してくれた俺は、話したかったことをすぐに話すことができた。
「あとの皆はどうしたの?ほら、ゆっととか、ばねりとか、がっくーとか…」
「あぁーその事ね」
オレじんは頭を小突く。小突きながら「えーと…えーと」と口にした。
「そうそう、ゆっとは遅れるってよ、なんでも、鸚哥の方まで用事があるんだって」
「鸚哥?…何でまたそんな所まで…」
「さあl…そこまではさすがにわっかんないや」
「ふーん…そうか……因みにばねりとがっく―の事については知ってる?」
「いーえまったぁく」
オレじんは肩をすくめて頭をゆるゆると横に振った。
「じゃあ二人は何か知ってる?」
俺はねいさんとさっくんの方にも話を振った。
「さぁ…僕は全く…音依は?」
「いや…あたしも全く……あんなに楽しみにしていたのに…」
二人はうつむき気味に何か考えだした。二人の間で小さな会話が飛び交う。
「ま…まさか…」
「事故に遭ったんじゃ…!」
そして二人は青ざめた顔をこちらに向けた。
「いやいやいやいや!そんなことは無いでしょ!」
「えぇ…でも…」
「お前まで気を落としてどうする!」
オレじんさえも体を震わせたそんな時、チャイムの音がドアの外から聞こえた。
「オイツサブッオー」
そしてこの室内の空気にそぐわない、アイツの意味不明な叫び声が聞こえた。
「来たか………ごめんちょっと下行ってくるわ」
「え…あぁ…うん」
青ざめた顔で震えるねいさんんとさっくんをなだめるオレじんに向かってそう言い残し、俺は玄関へ向かった。ドアを開けるとゆっとが笑顔を浮かべてそこに立っていた。
「よぉっす!遅れてすまん!」
「全く…言い出した奴が遅れてどうする…」
「いやー…それには深いわけが…」
「どうせ寝坊だろ…」
「あーえとーそーれーはーへへへー………ごめん、ちょっと肩借りるね」
「ああ、おう」
ゆっとは俺の肩に手を置き、靴を脱いだ。
「みんなはー?」
自分の靴と、オレじんの靴をそろえながら俺に問う。
「二階にいる。俺の部屋」
「おーそうかそうかー」
靴をそろえ終わったゆっとは、すぐ近くの階段を見た。手を払い「よし!」と言うと、階段の方へ進んでいった。俺はその後について行った。
「んえっと…ボクまだ皆に言ってなかったことあったんだけど…」
階段を登っている最中でゆっとは立ち止まった。それに続いて俺も立ち止まる。ゆっとは一度深呼吸をし、俺の方へ振り返って口を開いた。
「ボク…さ…、えっと……中二の終わりごろにこの辺に引っ越してきたんだ……鸚哥から…んで…えっと…」
ゆっとは胸元の服の生地を掴み、目を閉じて深呼吸をする。息を吐き終われば、また眼を開いた。
「………そっちの方に…今もいるんだ……彼女が…」
俺は驚きのあまり、軽く開いたその口が閉じなくなった。
「まーーーーーーーーじーーーーーーーーでーーーーーーーー?!」
訪れた静寂は一瞬にして砕かれた。聞き慣れた彼女の…オレじんの声で。
「ねぇねぇねぇねぇどゆことどゆー?!」
「…聞かなくてもいいことを…よりによってオレじん…」
肩にしがみついて目を輝かせるオレじんを一度見た後、はぁ…と深いため息をついた。
「何の騒ぎなの本当に…」
「まだ耳がキンキンしてるよ」
ねいさんは左耳をふさいで、さっくんは右耳をふさいでこちらに向かってくる。
「被害者の会を立ち上げようか」
俺は口角を片方だけ釣り上げて口から笑いを含んだ息をフッと漏らす。
「ちょ、葵ー!被害者の会何てひっどーい!…そんなことはさておきー!実際どうなのかーい」
「さておかなくてよかったのに…いいよ…話すよ…あー…」
ゆっとは大きな口で溜息をついて目を閉じ、疲れ切った顔をする。
「よっしゃ!浮かれ切った話聞いたるでー!」
「じゃあ部屋へドーゾー」
俺は半分棒読みで、ゆっと、オレじん、ねいさんとさっくんの後方へ駆けた。そして階段を登り切った先にある俺の部屋の方へ手を開き、あけられたままの空間に指先を向けた。
「ハイ、コチラガヘヤデース」
そして今度は完全に棒読みで案内をしてやった。
「おぅおぅーそりゃごてーねーにどーもー!さっ行くよ」
オレじんはゆっとの首後ろにある服の布生地を片手でつかみ引っ張る。首つり状態になったゆっとは、カエルのように「グェ」と声を上げた。
「……っああ!もう!ここ階段!危ない!引っ張らないで!」
首元が緩んだのか、その場で暴れだした。
「…あ…」
階段の事だけあってゆっとは、足を滑らせてしまった。思わず俺は駆けだしたが、それにたどり着く前にその長い腕でさっくんがその手を掴んだ。
「ありがと」
「構わないよ」
ゆっとは手すりを掴んで、体勢を立て直した。そしてさっくんはオレじんの頭を弱く小突いた。
「もう、ここまでやったら駄目だからね?」
「はい……は…い…ぃ…」
返答が弱々しくなっていく。オレじんらしくない。下を向いて震えだした。おかしく思い近づくと顔に影が落ちる。
「アアアアァァァァァァァァァ!!!!」
そしてオレじんは突然叫び声を上げた。それと同時に顔を上げる。見えた顔には大粒の涙が伝っていた。目は赤くはれていた。
「あぐっ…うぅ……ぃっ…あぁぁあぁ…イっ…アアアアアアアア!……ヒィ……うぅ……なさい…ごめん…ごめんなさい兄貴…ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃ!………もうやめてお母さんやめてやめてやめて!!いぅぅぅあああああああああああああああああああああああああああ」
「オレじん!」
ねいさんは手を伸ばした。しかしオレじんには届かなかった。そして彼女は階段を駆け下りていった。玄関の扉が閉じる音がする。外へ出たということがわかる。
今まで見たことのない豹変ぶりに俺はただその場で口を開いて止まっている事しか出来なかった。
「まずい…」
ねいさんはそう口にした。そしてオレじんと同様に階段を駆け下りていく。しかし途中で立ち止まった。
「青い橋だ…サギ…蒼鷺橋だ!…まずい…ごめん、ちょっと後谷鳥川の方までいってくる」
「え…あ……」
俺達はただ、その一瞬の光景に気を取られて何もできずにそこで立ち続けていた。ただ何も口にすることもできないまま。この部分だけ、時が止まってしまったかのような、そんな気すらした。
頭の整理が追い付かない。情報が多すぎて訳が分からない。オレじんがどうしてここまで錯乱したのか。そしてまだねいさんはオレじんと出会って一年と少ししかないはずなのに、あの錯乱の後どこへ向かったかの察しがついたのか。デタラメかとも思ったが、場所が明確に俺たちの耳に伝えられている以上それは思い付きの発言や勘なんかじゃないことがわかる。
「えっと…?」
振り返った先に見えるさっくんは首をかしげる。
「こーれーはー…?」
ゆっともまた、さっくんに続き首をかしげる
「一体どういうことだ…?」
ねいさんに一番近い存在とも言えるさっくんでさえも、訳が分からないと言いたげな顔をしている。生憎、この瞬間的な出来事は、今の俺たちには理解しい得ないことのようだ。
「お茶…出そうか?」
「え、ああ、じゃあよろしく」
静寂に何もしている訳にもいかず、俺は咄嗟に思いつきたての言葉を吐いた。
「あ、こっちがリビング」
階段を降りて玄関から伸びる廊下のつきあたりにあるドアを指した。そして俺は二人の前を歩く。
ドアを開けるとそこには線香の香りが立ち込めていた。
「なんか…これ…線香?」
俺がドアを開け瞬間、さっくんは首をかしげる。
「せいかーい」
俺は自分でもわかる程、不自然な笑顔を浮かべた。言葉は軽いが、思いは重く沈んでいるせいだと思った。また、あの日の絶望の情景を思い出したからだ。
「やっぱり豪邸ばかりの住宅街なだけあるねー、リビングひっろい!」
ゆっとはその「広さ」を示すかのように、適当な広さの開いている場所でクルクルと回転し始めた。本人が靴下を着用しているのと、床がフローリングなだけあってよく回った。
「本人は目が回ってないのかね」
「さぁねー」
俺はさっくんの問いに言葉に呆れを乗せて答えた。
「ちょっと待っててね」
「はいはーい。…ゆっとー…ストップ!」
突如、クラッカーのような音が一つ、部屋に響いた。
「ふぁい?!」
その音に驚いたゆっとは回転を止めて、その場で姿勢を正した。そしてどうやらそのクラッカーのような音はゆっとの回転を止めるべく、さっくんが手を打った音だと気づいた。
「あー…そうだ、冷たいのと暖かいの、どっちがいい?」
「ボク冷たいのでいいよー」
「じゃあ僕もそれで」
「はいよー…あ、二人ともソファー使っていいよ」
食器棚から適当に取り出したグラスに三つほど氷を入れて、サーバーにセットする。モニターに表示される数ある選択肢の中から麦茶、次に冷と選択してスタートの選択肢を選んだ。約三十秒ほどでグラスに冷たい茶は注がれた。注ぎ終わった時ピーと三回、機械から音がした。
「あれ、お茶のパック切れちゃった」
食器棚の下の戸棚から、麦茶のパックを取り出して、それをサーバーの内部にセットした。これが無かったらもっと便利なのに、将来はまたこれを超えるものが現れるのかなとも思った。
「はい、二人ともお待たせー」
「どもすー」
「ありがとー」
少し熱くなった体に、冷え切った麦茶を体内に流し込む。三人の息の後、溶けた氷が触れ合い、カラリと音がする。
「……どうする?」
氷の音を合図に溜息をついたゆっとは、その横に座る俺たちの方へ困った顔を浮かべて問ってきた。
「そうだなぁ…このまま待ってる訳には…んー…どうするべきか…」
「じゃあ僕音依に連絡とってみるよ…」
そう言ったさっくんは自身の鞄を膝の上にのせて漁り始めた。数秒後、鞄の中を激しく漁り始めた。
「葵?ちょっとここの机借りるね…」
「ん、いいよ…?」
さっくんは俺たちの座っているソファーとテレビの間にある低めの机の上に荷物を次々と出していく。
「ウソ……どうして…昨日の夜入れたはず…」
俺の視界に移るさっくんの横顔は段々と青くなってゆく。カバンの中を掻き回しながら「どうして」と言い続けいる。
「そうだ…あれを使おう…音依の…為だ…」
数秒後、その行動は突如止まった。顔を見ればまだ青いが言葉から察するに、何か思いついたのだろう。
さっくんは鞄を漁る時には一度も触れることのなかった鞄のフロントポケットを探り、サージスらしき物を取り出した。サージスに見えるものと言うところから、さっくんがいつも使用しているものと違うことがわかる。
サージスの電源をつけて、起動を待つさっくんは「電話してくる」と言ってリビングを出ていった。
廊下の方からわずかながら声が聞こえてくる。
「えっとー…あのー…」
ゆっとは辺りを見回しながら口を動かし、後頭部を掻く。
「どうした、ゆっと」
「そう!ご家族に挨拶して来ていい?」
「ん?……あぁ!仏壇か…」
「そうそう…いい?」
「あぁ、いいよ」
俺は六畳程の和室へ続く襖を開けて、そこにある仏壇の方までゆっとを誘導した。
「これがお父さんで、これがお母さん。これが姉さんで、これが弟……みんな事故で死んじゃったんだ…五年ほど前に…」
「そっ…か…辛い思いさせてゴメン」
「いいんだよ、なにがあったかは俺が言い出しただけだから」
ゆっとはいつもと違う笑みを浮かべた。いつものような元気さじゃなくて、どこか弱さのあるような笑みだ。その顔を伏せて仏壇の前の座布団に座る。
写真を見ている彼は今どんな顔をしているかなど、彼の後ろに座る俺にはわからない。無論、どのような感情を抱いているかもだ。
「じゃあ俺向こうで待ってるね」
「うん」
開けっ放しだった襖の枠を通り抜けてその戸を閉める。
溜息を一つ吐いた。何となくだ。
何となくの溜息をついて少しの間、俺はソファーに体を預けて何も考えずにいた。只々白い天井を見上げていた。一瞬それが所々赤く見えて、昨日の「夢」を少し思い出したりしていた。そんな時にさっくんが扉を開けて、そこからねいさんとオレじんがリビングに来た。さっくんが戸を閉めた後オレじんはねいさんの陰から顔を出した。
「オォーッス!!」
彼女はその行動に続いていつものように笑った。
「え?」
俺は思わず目を丸くした。さっくんもまた同じく、驚いた顔をしていた。
俺たちのこの反応の理由はきっと一緒だ。きっとどころか、そう言いきれるだろう。
先程の喚き散らした表情はどこへ行ったのか、オレじんは笑顔を部屋中ににじませたのだ。
「葵―挨拶終わったよー」
俺とさっくんが困惑の表情を浮かべているときに、ゆっとは戻ってきた。
「あっ!ゆっと!!」
オレじんはゆっとの姿を目にとらえると駆け寄って行った。そして頭を勢いよく下げた。
「ごめんなさい!」
その様子にゆっともまた少し困惑した表情を浮かべたが、すぐに柔らかな表情を浮かべた。
「もういいよ、顔あげて。だってほら、僕も別に怪我一つないし」
オレじんは顔を上げた。
「ごめんね…もう、あの話もしなくていいから…」
オレじんは、か細い震え声でゆっとに言葉をぶつけた。
「いや、話すよ」
「どうして?」
「ずっと隠しとくのもアレだし、それにもうばれちゃったし。ボクがすっきりしないからね
そしてゆっとは、いつも俺たちに見せる笑顔をオレじんに向けた。
「ありがと、我儘な奴でゴメンね」
その笑顔につられるようにして、オレじんもいつもの笑顔を浮かべた。部屋に戻ってきたときの表情よりも、もっと自然な、彼女らしい笑顔を浮かべた。