33.一方通行
学校は、じき、冬休みに入る。
受験を控えた生徒が多いとはいえ、もうすでに推薦で進路が決定している者もいれば、専門学校志望でそれほど勉強を詰め込まなくてもいいという者もいて、教室内の雰囲気は、どこかピリピリしていながらも、そこはかとなく浮かれてもいるという、少々複雑なものになりつつある。
成海はもうすでに受験は関係ないし、学校を経由しての就職もほとんど諦めている状況なので、精神的に尖っているわけではない。しかしあれこれとやることには追われていて、慌ただしい気分でいるのは変わりなかった。
「へー、じゃあもう、荷物の片づけとかはじめちゃってんの?」
園加に問われ、こくりと頷く。それと同時に、小さな溜め息が漏れた。
「少しずつだけど……早いうちにしておくに越したことはないと思って。とりあえず、使わない食器だとか洋服なんかを箱詰めしてる」
「けど、住むところはまだ決まってないんでしょ?」
「うん。おじさんに紹介してもらって、大家さんには会ったんだけどね」
成海はその時のことを思い出しながら言った。
店主の友人で碁敵、というその人は、樋口という六十代の男性だ。
ラーメン屋の営業時間が終わってから店に来てもらって話をしたのだが、一見したところ、店主と同じように厳めしい風貌の人だった。老人と呼ぶには少し申し訳ないくらいにかくしゃくとしており、非常に声が大きく、無口な店主とは逆によく喋る。このあたりにいくつもアパートを持っていて、剣道の有段者で、町内会長もしていたというのが、なるほどと大いに納得できるような、堂々としたところがあった。
「親父の紹介と言うんで来たがね、私ゃ未成年の女の子にアッサリ部屋を貸してやるほど甘い年寄りじゃないからね」
どかっと椅子に座りながらそう言い放ち、ジロジロと胡散臭そうな目で成海を睨む樋口老人は、最初からこちらを非常に警戒している様子だった。最近の若い娘は何かというと自由を欲しがる、親の脛をかじりながら何が自由だ、とひとしきり文句を並べ立てるその姿は、だらしない格好の若者を見たら一喝してやらねば気が済まないタイプの、頑固一徹な老人そのものだ。どうやら成海のことも、遊びたいから親元を離れて一人暮らしをしたいのだろうと、はじめから決めてかかっているらしかった。
「まあまあ大家さん、そう言わないでさ、とにかくなるちゃんの話を聞いてやってよ」
「まったく思い込みの激しいジジイだな。そんなんだからカミさんともすぐに喧嘩になるんだ」
「関係ねえよ! なんだよ二人とも、すっかり骨抜きにされちまって」
マツと店主の取り成しにも、余計に怒って口を曲げてしまう始末である。せっかくこうしてセッティングしてもらったけれど、これはもう無理なんじゃないかなあ、と成海はその時点で、半分以上諦めたほどだった。
とにかく挨拶をして、遅い時間にわざわざ足を運んでもらった礼を述べたが、樋口老人は腕を組んでそっぽを向き、うんでもすんでもなく黙り込んだままだ。成海は困ってしまってちらっとカウンター内の二人を見たが、店主はただ頷き、マツはニヤニヤ笑って様子を眺めているだけで、何も口出ししてこなかった。
ここはもう、結果はともかく話すしかないなと腹を括り、中学生の時に両親が亡くなったことから遡って話を始めたのだが──
誠が行方不明になったあたりにさしかかったところで、突然、泣きだされてしまった。
ええっ、と成海は大いに動揺したが、店主は、「ほれ」とタオルを差し出してきたものの、驚くでもなく平然としている。樋口老人はそのタオルに顔を埋め、うっ、うっ、と嗚咽し、さらに鼻を大きく啜ったり、合間に派手に咳き込んだりと大忙しだ。
こんな年齢の男性が泣くところを目の前で見たのははじめてだったので、成海はオロオロしながら、そっと彼の背中をさすって大丈夫ですかと言ってみたのだが、それで余計に突っ伏して大泣きされた。困った。
カウンターのほうを見ると、マツはその場に膝を曲げてしゃがみこみ、何をしているかと思えば腹を抱えて爆笑しているし、店主はタオルを渡しただけであとは放置を決め込んだらしく、黙々と片づけ作業に入っている。成海はひたすら困惑して、何が悪かったのかよく判らないながら、樋口老人に向かってごめんなさいと謝り続けた。
「あ、謝ることはない」
老人はようやくタオルから顔を上げると、未だ涙の残る目を向けて、ぐしゅぐしゅと鼻を鳴らしながら、がしっと両手で成海の手を取った。
「謝ることはないんだ、あんたは何も悪いことなんてしとらん。いや、むしろ悪かったのは私だ。今どきのワガママで生意気な娘っ子と決めつけてひどいことを言って悪かった。私だって親を早いうちに亡くして、若い頃はそれでずいぶん苦労をしたのに、こうして金に困らん暮らしをするようになってすっかり慢心しておったらしい。恥ずかしい話だ。今でもそうやって苦労をしている子供がいるということにまったく気が廻らないとは。うん、マツのように三十過ぎてもフラフラといい加減に生活しているやつがいる半面、まだ高校生なのにあんたのように真面目に生きようとしてる人間もいるということだな!」
「ちょっとちょっと大家さん、さりげなく俺を落とすのやめてくれない? 俺だってこうして真面目に働いてるでしょうに」
マツは笑いを止めて抗議したが、それをつるっと無視した樋口老人は、「よし!」と大声で言うと自分の膝を掌でぱちんと叩き、
「私に任せとけ! 部屋はいくつか空いとるから、いつでも見に来るといい。家賃のことも心配いらないよ。アパート経営は、どうせほとんど道楽でやってるようなもんだからね。もう年の瀬で落ち着かないというんなら、あれこれ決めるのは新しい年になったらでもいいさ」
とあっさり前言を翻し、力強く約束してくれたのだった。
店主がボソッと、「本当に単純なジジイだな」と呟いたが、それは幸いにして耳には入らなかったらしい。
……というわけで、成海自身が茫然とするほどあっけなく、引っ越し先は決まりそうな気配である。
いくらなんでも樋口老人の厚意にすべて甘えるわけにはいかないし、家賃などのことはこれからじっくり相談するにしても、年明けにはアパートを紹介してもらってどこかに決め、移り住むことになるだろう。だったら今のうちに少しずつでも荷物の整理をと思い、始めてはいるのだが。
「誠ちゃんの荷物をどうするか迷ってて……」
と成海は言って、もうひとつ大きな溜め息をついた。
どんな部屋であるにしろ、引っ越し先は、自分一人が住む程度の広さがあればいいと考えている。布団を敷くスペースと、両親の仏壇を置くことが出来ればそれでいいから、今使っている成海のベッドやタンスや勉強机、食器棚も食卓も処分することになる。
それらに対する迷いはないのだが、問題は誠の分だ。
ベッドやタンスなどは確実に持っていくのが無理なので、申し訳ないが処分することになるだろう。しかし洋服は? 他の私物は? 誠の小学生時代から大学生時代の思い出の品は? 捨てるわけにはいかないが、かといって全部を引き受けることは出来ない。それをしたら、新しく借りる部屋が、間違いなく荷物に埋もれて生活の場ではなくなってしまう。
「お兄さんの私物ってかなり多いの?」
園加に聞かれて、首を捻る。
「うーん、洋服もたくさん持ってるわけじゃないし、誠ちゃんってあんまり物には思い入れしない性格だから、そんなに多いほうじゃないんだろうけど」
何をしてもどこに行ってもその場その場で楽しめばそれでいい、というシンプルな考え方の持ち主である誠は、基本、「記念としてモノをとっておく」ということをしない。
写真を撮ったりするのも嫌いなら、アルバムを大切に保存しておくという繊細さもなかったので、その類のものもあまりない。卒業文集なども、以前に住んでいた家からアパートに引っ越す際に、「邪魔だから」と捨ててしまったくらいだ。
しかしそれにしたって、人ひとりの持ち物なのだから、そんなに少ないはずもない。洋服以外では、スキー用品、登山用品、愛用していた文具。意外と読書好きだったので、本棚にはミステリーやSFなどの文庫本がずらりと並んでいる。そのうちの何を取っておいて、何を処分していいのか、成海にはさっぱり判断できない。
「うううーーん……」
頭を抱えて机に突っ伏して呻くと、園加がやれやれといったように首を振った。
「だったらちょっと余分にお金はかかるけど、トランクルームでも借りたら? レンタル倉庫ってやつ。服や本くらいなら、小さいサイズでも収納できるスペースはあるでしょ。どうしたらいいかわからない、ってものはとりあえず、そこに入れておけばいいんじゃないの」
「あっ、そうか!」
園加の案に、ぱっと顔を上げて明るい声を出した。
それはちっとも思いつかなかった。もちろん成海にとって安くはないお金を毎月払わねばならないだろうが、誠の私物をまとめて保存しておけるなら、かなり精神的な負担が減る。
「園ちゃん、ありがとう! 早速探してみるよ!」
ニコニコして手を取り、礼を言ったら、園加は仏頂面になって、ふんと明後日の方向を向いた。照れているらしい。可愛いんだから、もう。
「そういう細かいことはあるにせよ、一応、これからのことは目星がつきそうなわけね」
そのまま余所を向き、手に持っていたペットボトルをぐいと口に含みながら、園加が言う。成海は「うん、そうだね、一応は」と返事をして頷いた。
部屋を決めるのはこれからだし、家具の処分や、荷物の整理や、今の部屋を引き払う手続きなどもあるわけだが、とりあえず道筋はついた、と言ってもいいだろう。道の先は行き止まりか断崖絶壁かと考えていたほんのちょっと前からすると、信じられないほどの急展開だ。本当に、周りの人々のおかげだ。成海一人で悩んでいるだけでは、どうにもならなかった。
まだ考えなければならないことは山ほどあるが、まずは引っ越して、高校を無事卒業することが、今の自分に出来るいちばんのことだと思っている。
ちなみに上田はあれ以降、何も言っては来ないし、近づいても来ない。どころか、目を合わせることもしない。成海や園加の姿が視界に入ると、露骨に怯えたように視線を逸らすので、申し訳なくなるほどである。あちらも、このまま成海が目の前からいなくなるのを一日千秋の思いで待ちわびているようなので、特に何事もなければ、多分問題なく卒業できるだろう。
「ふーん……」
園加はペットボトルの飲み口のところに視線をやって、一本調子な声を出してから、
「……じゃ、それでよかったんだ」
と、独り言のようにぽつりと言った。
「うん?」
首を傾げて問いかけると、園加はこちらを向いて、少しきまりの悪そうな顔をした。
「あのさ、あたし、前に常陸さんのとこに直談判しに行ったことがあるじゃん?」
「うん」
「あの時さあ、常陸さん、すごく嬉しそうにしてたんだよね」
「嬉しそう……に?」
目を瞬く。
園加が征司に頼んだのは、成海の一日保護者になって担任と話をしてくれないか、ということだったはずだ。どちらかといえば、一方的に面倒事を押しつけるようなものだ。征司は優しいし大人だから、迷惑そうな態度を表に出すようなことはしないだろうが、それでもそれは、「嬉しそうに」聞く内容ではないのではないか。
「常陸さん、『成海ちゃんは何も言ってくれないし、僕を頼ってもくれないから、ずっと心配してた』って言ってた。『こうして話を聞いて、僕にしてあげられることがはっきり判って安心した』って。あたしに対しても、話しに来てくれてありがとう、って丁寧に言ってくれてさ」
もう何も心配はしなくていいよ。君は友達思いのいい子だね。
そうさ、まだ高校生なんだから、大人に守られなきゃやっていけるわけがない。
僕もどうしてあげればいいのかずっと考えてたんだけど、その方法がやっと判った。
天野がいない現在、その役割を担うのは、あの子のいちばん近くにいる僕しかいない。
成海ちゃんのことは、僕がすべて引き受けるから安心して。
──これから、あの子のことは僕が守るよ。
征司はそう言って、嬉しそうに微笑んだのだという。
「それ聞いて、いい人だな、なんて優しいんだろ、って感激したんだけどさ……同時に、なんとなく、もやっとしたものがあったんだよね」
少し言いにくそうに、園加が口をもごもご動かした。
「その時はわかんなかった。だからそのままお腹の下のほうに押し込めた。けど、今になって、ちょっと、わかった」
ちょっとだけ、と小さな声で続ける。
「──常陸さんの主語は、ずっと、『僕』だった。『成海は』っていう言葉は、ほとんどあの人の口からは出なかった。成海が何を考えてるのか、どうしたいのか、何を望んでいるのか、そういうことはまったく言わなかった」
成海ちゃんのこれからのことは何も心配いらないよ。
あの子が安心して暮らしていけるように、僕が考えるから。
僕がなんとかするからね。
「それは、それだけ常陸さんが、成海のことを子供扱いしてた、ってことかもしんないけど」
子供を危険なところに行かせないためには、掌で囲って外に出ないようにするのがいちばん安全だ。
征司が園加の話を聞いて嬉しそうにしたのは、これであのフラフラと危なっかしい子供を保護できる、とホッとしたからかもしれない。
「でもさ考えてみりゃ、成海のことを成海が考えるのは当たり前じゃん? いくら力のない高校生でも。あたしからすると、アホみたいにじれったくて、苛つくようなことでも。八神さんもそう言ってたでしょ、『それがなるちゃんだからしょうがない、こっちは後ろからハラハラしながら見てるしかない』って。ラーメン屋のオッサンも兄ちゃんも、成海のやろうとしてることに手は貸してくれるけど、成海の代わりにこれからの成海の人生を決めたり考えたりはしない。……結局、そういうこと、なんだよね」
考えるように宙を見据え、うんうんと何度か頷く。
「あんたが言ってた、『助けてもらうってことと、庇護してもらうってことは違う』っていう意味が、ちょっとわかった。だから、きっと、これでよかったんだ」
園加はそう言って、成海と目を合わせ、口の両端を上げてにっと笑った。
「八神さんがそばにいてくれりゃ、あんたは大丈夫だよね」
「…………」
少し間を置いてから、成海も笑った。
「……うん。ありがと、園ちゃん」
晃星からの連絡は、この数日間まったくないままだとは、言いだせなかった。
***
ラーメン屋にクリスマスはあまり関係ないと思うのだが、マツは「もういーくつ寝ーたーらークーリースーマースー」という替え歌を歌ってウキウキしている。
「ねえねえ親父さん、せっかくなるちゃんっていう若い女の子もいることだし、店にツリー飾ろうよ! キラキラでピカピカのやつ! 俺が買ってくるから!」
「店にそんなもん置いたらぶっ殺すぞてめえ」
店主の目つきは剣呑だが、いつものことながらマツはちっとも気にしない。あー早くクリスマス来ないかなーとサンタからのプレゼントを無邪気に楽しみにする子供のようなことを言っては、ちらっちらっと成海のほうを何度も見る。いかにもワクワクしたその顔に、観念した成海は掃除をしていた手を止め、質問した。
「クリスマスには、何か嬉しいことがあるんですか?」
マツの細い目がきらっと輝いた。
「そーなんだよ、よくぞ聞いてくれましたなるちゃん! 誰かに聞いて欲しくて聞いて欲しくてしょうがなかったんだよね!」
そうでしょうね……。
「仕事が終わった後、ダチとバイクでツーリングするんだー。夜通しブッ飛ばして、きれいな景色のとこ行って、日の出を見るんだよ! いいでしょいいでしょ! あ、ちゃんと帰ったら店に来るからね!」
「ツーリングと日の出って、クリスマスと何か関係がありますか?」
「あっ、わかってないんだからなあ、もう! 聖夜のイルミネーションがキラキラ輝く中を、チャラチャラ浮かれて着飾った連中を尻目に颯爽とバイクでかっ飛ばすってのが粋でカッコイイんでしょ! これぞ硬派! って感じで!」
「はあ、なるほど……」
「サンタのコスプレして走るんだよ!」
「硬派って何でしたっけ……」
「十人くらいが全員サンタのカッコしてバイクに乗るからさ、道行く人が手とか振ってくれるんだよね! 子供たちにも大喜びされるし! クリスマスツーリングって楽しいよ! みーんな彼女も嫁もいない独身男ばっかりだけどね!」
「…………」
聞けば聞くほど趣旨がよく判らないのだが、マツは本当に楽しみにしているらしい。クーリスマースーと歌いながら葱を切る包丁さばきも、いつもより軽やかだ。
「なるちゃんも楽しみでしょ、クリスマス!」
いきなりこちらに振られた。どぎまぎする。
「え、と……そうですね、楽しみです」
「でしょでしょ! なんたってクリスマスだもんね! あの男、いかにもそーゆーイベントはハズさなさそうだし、電飾見たりご馳走食べたりプレゼント交換したりするんでしょ! そんで歯の浮くセリフ吐いたりするんでしょ! あーやだね!」
自分で言っておきながら、やだやだ! と憤慨している。店主は新聞に目をやりながら、ふんと鼻で息を吐きだした。
「そんなに浮かれるようなことかね。クリスマスなんてもんは、子供のお祭りだろうが」
「やだな親父さんはわかってないんだから! クリスマスは恋人同士のお祭りに決まってるじゃん! 誕生日と並ぶ、絶対に欠席不可の行事っスよ! 葬式と一緒で、『この日は予定が入ってるんでパス』なんて言おうもんなら、人でなしだの常識知らずだの彼氏失格だの信じらんないサイテーあたしのこと遊びとしか考えてないんでしょ! だのって罵られて、ビンタしてフラれること間違いなしの恐ろしい儀式なんスよ!」
喋っているうちにイヤな思い出でも甦ったのか、マツは少し泣きそうな顔をした。
「そんなわけで恋人同士っつーのは、クリスマスには必ず会わなきゃいけないんですって! 年に一回七夕の日にしか会えない彦星と織姫なんかよりもよっぽど必死になって、何がなんでもその日は空けておかないといけないの! そうだよね、なるちゃん!」
「そう……でしょうか」
「そうだよ、なに言ってんの! なるちゃんもあのキツネ男に言っておきなよね! クリスマスには、絶対にプレゼント持って会いにこいってさ!」
「はあ……」
曖昧に笑い返したところで、店の戸が開いて客が入ってきた。
「いらっしゃいませ!」
成海はほっとしてそちらを振り返り、大きな声を出した。
バイトを終え、電車に乗った。
外は暗いが、まだそんなに遅い時刻ではないので、乗客が多い。年末近くになって、彼らの顔には楽しそうなものと急いたものが同時に浮かんでいる。電車内の広告も、クリスマスの宣伝で溢れていて、世界中が赤と緑と銀色に染まっているかのように錯覚させられるほどだった。
電車から降りると、駅からアパートまでの道を歩きながら、携帯を取り出した。
「ル・クール」でバイトをしていた頃は、大体こうして歩いている時に晃星からの電話がよくかかってきたものだが、今その小さな機械はぴくりとも音も振動もする気配がない。
開くと同時に、暗闇の中、眩いばかりの白い光が浮かび上がる。
画面には、着信やメール受信を知らせる文字は入っていなかった。
「…………」
ふう、と溜め息をついて、再び携帯を閉じる。
──あれから一週間。
晃星の背中を見送ってからこれまでの一週間、電話もなければメールもない。今までだって毎日連絡があったわけではないけれど、ここまで音沙汰のない状態が続いたことはない。成海は毎日一回はメールするようにしているものの、それを晃星が見ているのかどうかも判らなかった。
忙しいのかな。圏外の場所から動けないのかな。身体を壊しているのではないといいけど。ちゃんと眠れているだろうか。疲れていないだろうか。元気に笑えているだろうか──
晃星は、今、何を見てる?
マツの言葉を思い出して、目を伏せた。今の成海は、クリスマスどころか、晃星にいつ会えるのかも判らない。
晃星がどこにいるのか、何をしているのかだって、成海には判っていない。きっと彼にとってとても大事なことをしているのだろうと思うけれど、その根拠はと言われても、はっきり差し出すことは出来ない。
彼が口にしないこと、まだ説明できないと言っていること、その中身も理由も、成海は知らない。知らないままだ。
なんて脆い繋がりだろう、とイヤでも再認識させられる。
成海の手許にあるのは細い鎖のネックレスだけ。そして鳴らない携帯だけ。晃星がどこでどんな危地に陥っていたとしても、成海にはどうすることも出来ない。助けに行くどころか、手を差し出すことも、それを知ることさえ。
晃星が病気になっていても、怪我をしていたとしても、成海はただ、ここにいることしか出来ないのだ。
このまま、彼がどこかに行ってしまっても。
成海はここで待っているしかない。
晃星が連絡をしてきて、晃星が訪ねてくる。最初から、ずっとそうだった。晃星からの一方通行。一方的な訪問でしか成り立たない関係。付き合っているのかと言われても、まったくピンとこないのはそのためだ。こんな不自然なものを、普通は「付き合っている」とは言わない。
連絡が途絶えてしまえば、それっきり。
それは判っていたことだった。判っている上で、「待つ」と答えたはずだった。それでもやっぱり、こうして心細くなる。いなくなってしまった人たちのことを思い出して、胸が塞がりそうになる。
こんな時、何をよすがにすればいいのだろう。「待っていて」という、あの言葉? ううん、言葉は必ずしも実現されるものではないということを、成海はよく知っている。すぐ帰ってくるね、と言った両親はそのまま帰らぬ人となった。夕飯までには戻るから、と言った誠のために作った食事は、誰も手をつけることなく冷たく固くなった。
じゃあ、何を信じればいいんだろう?
この不安な気持ちを、湧きあがる怖さを、どうしたらなくすことが出来るだろう。
目には見えないもの、形のないもの、それらをしっかり捕まえておくには、どうしたらいいんだろう。
自分を信じるところからはじめたいと言ったけれど、そのためには何を礎にすればいいんだろう。
──自分にとっての真実は、一体何だろう?
頭上を振り仰ぐと、夜空ではいくつかの星が、地上で発していた携帯の白い光のように、暗がりでちかちかと瞬いていた。空気は冷たく、口から吐き出す息も白い。
見渡す限りの広い空。吸い込まれそうな闇。小さくて明るい星々。それを見上げるだけの成海という存在は、なんてちっぽけなのかと思う。
……そういえば、以前、こうして真上に顔を向けて、晃星に話したことがあったっけ。
こんな綺麗な空を歩けたらいいですね、と。
雲をぴょんぴょんと飛ぶように歩いて、時々はのんびり寝転がってみたり、風に流されたり、虹を渡ってみたりしたら、どんなに気持ちがいいだろうかと。
地上にいたら見えない景色を、空の上から眺めて。
ずっと遠いところを見渡して。
雲に乗って、日本どころか、世界中を巡って。
そうしたら、誠を見つけ出すこともきっと簡単に出来るだろうに、と思った。
でも、こんなに真っ暗な中では、それも叶いそうにない。あの時、美しいと思った世界は、今は闇に覆われている。
たとえ雲に乗ったとしても、足元がよく見えなければ、歩けない。
──誠も、晃星も、見つけられない。
吐き出す白い呼気が空中に拡散して消えていく。じっとまっすぐに、小さな星明りを見据えた。
夜空を見上げたまま、拳を握りしめる。
つらくても苦しくても、もう投げ出したりはしない。逃げたりもしない。成海はもう、しゃがみ込んだりはしない。
揺らがずに立っているためには、何が必要で、何を望むのか。
プレゼントなんて要らない。
歯の浮くような甘い言葉もなくていい。
……成海は、成海だけの真実を見つけたい。




