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空中散歩  作者: 雨咲はな
31/42

31.形なきもの



 同じ「飲食店」として分類されるだろうカフェとラーメン屋だが、実際に働いてみると、その二つは、似たようなところもあれば、大きく異なるところもたくさんあった。

 いちばんの違いはやはり客層か。若い女性が多かった「ル・クール」に比べ、「ラーメンにし」はほとんどが男性客、それも二十代から六十代くらいに幅広さがある、社会人ばかりだった。

 大部分は一人客で、複数で入るとしてもせいぜい三人ほど。もっともカウンター席しかないので、そんなに大人数で来ても同時に入れないのだが。女性客は男性に連れられてカップルとしてやって来ることが多く、たまに子供連れの家族も来る。成海と同じくらいの年齢の女の子が、単数または複数で入ることは皆無だ。

 見るからに、常連客、という態度で来る人もたくさんいて、そういう人たちが、カウンターの中の成海の姿を見ると、必ずと言っていいほど「えっ」という顔をするのがなんだか可笑しい。大体はまじまじと眺めてから、ぱっと視線を逸らされたりするのだが、年配の人あたりだと、そのあたり遠慮なく突っ込んで訊ねてくる。今までこの店のバイトに女の子がいたことはなかったためか、かけられる質問は「どういう関係なのか」というものばかりだったが、店主はそのたび、いい加減な受け答えをしていた。

「親父さんの娘? それにしちゃ若いな」

「まあ、そんなようなもんさ」

「あ、ひょっとして孫とか」

「まあ、そんなようなもんさ」

「親戚の子かい」

「まあ、そんなようなもんさ」

 と、こんな調子だ。なぜかみんな、成海のことを店主の縁者だと思うらしくて、そのような適当な返事でも、へえそうかい、となんとなく納得されてしまう。さすがに、「親父さん、まさかこんな齢の離れた嫁さんもらったわけじゃねえだろうな」という質問には、ギロリと睨んで黙らせていたが、成海は楽しいやら少しこそばゆいやらで、いつも笑いを堪えるのが大変だった。

 仕事の手順としては、そんなに難しいことがあるわけではない。出すのはラーメンだけなので、カフェのようにたくさんの種類のメニュー内容を覚えなければならない、ということもない。

 ただ、目が廻りそうなくらいに、忙しかった。

 成海がバイトに入って少し経った時間くらいから客がどんどん入ってきて、夕食時になるとずらっと店の外に列ができるほどの人数になる。しかも、カフェのように、客がゆったりと寛いでいくわけではないので、注文をして、食べて、出て行く、の流れが非常に速い。

 最も客が混み合う時間帯は、まさに戦場のような目まぐるしさで、丼を洗ったり、レジをしたり、テーブルを拭いたり、という単純作業だけなのに、息をつくヒマもないほどだった。

 あまりにもバタバタしていて、時々、ポカをしたりミスをしたりもしたが、店の客はおおむね、鷹揚な人が多かった。中年の男性たちは、成海がレジでもたついても、「いいよいいよ、ゆっくりやんなよ」などと待っていてくれる。慣れないこともあり、すみません、と、ありがとうございます、とを繰り返すだけでいっぱいいっぱいだったのだが、「親父さんの娘だか孫だか知らねえけど、まあ、頑張んな」と声をかけていってくれるお客さんもいたりして、ずいぶん救われる気持ちになった。

 そうやって成海にまで温かく接してくれるのは、つまりそれだけ店主の人柄が信頼されているからなのだろう。そう思うと、なんだか嬉しくなって、成海はますます張り切って働いた。

 ただ一人、マツだけが、

「なんで誰も、俺の嫁さんか、って言ってくれないんだろ……」

 と、納得できない表情で、ぶつぶつと零していた。



          ***



 そんなこんなでやっと三回目のバイトを終え、明日は土曜だから昼からだ頑張ろう、と意気込みながら、アパートまでの暗い道を歩いていた時のこと。

 突然、背後から誰かが覆い被さってきた。

「……っ」

 心臓が一瞬止まった。

 止まった心臓が活動を再開しはじめると同時に、痴漢だ……! という思考が浮かび、頭にまで昇った血液が一気に下まで降りる。

 怖い、どうするんだっけ逃げるんだっけ、急所を蹴りあげるんだっけ、とパニックになった感情に押し流されるように悲鳴が口から吐き出されようとした途端、前に廻っていた腕が動き、掌で口を塞がれた。


「……あのさなるちゃん、いい加減、俺の感触を覚えてくれないかな」


 今まさに外に放出されようとしていた大音量の叫び声が、耳元で囁かれた言葉によって、かろうじて喉の奥へと押し戻される。

 口を塞がれたまま顔を動かし、後ろに立っている人物を認めて、全身から力が抜けた。

 ふらっと足許が覚束なくなったが、後ろから抱きすくめられているのはそのままなので、その場にしゃがみ込むというみっともない真似はせずに済んだ。

「こ……晃星くんは、どうしていつもいつも、私の後ろから現れるんですか……」

「本当、どうしてだろうね?」

 他人事のようにしれっとそう言って、首を捻っている姿が腹立たしい。

「毎回同じようなことしてるのに、そのつど新鮮に驚くなるちゃんが不思議だよ」

「普通の人は誰だって、いきなりこんなことされたらビックリします!」

「そーかなー、普通の人はもうちょっと学習能力があると思うけどなー。これからこういうのを何度か繰り返せば、なるちゃんの極度のビビりもそのうち改善されるんじゃない?」

 これからもこんなことを何度も繰り返すつもりなのか。絶対にイヤだ。慣れる前に心臓発作を起こして昇天してしまう。

「今度後ろから驚かしたら、そのまま警察に駆け込みます」

「ひどいな。久しぶりだから、ちょっと甘えたかっただけなのに」

 晃星は唇を尖らせて文句を言うと、くるっと成海の身体を反転させて、今度はぎゅっと前から抱きしめた。

 わ、と成海は慌てたが、彼はまったく構わない。髪の毛に鼻を寄せて、「なるちゃんの匂いがする」と、ご満悦の声を出す。

「…………」

 広い胸板に顔を押し当て、動きを止めた。晃星の上着からは、彼の匂いではなく、冷たい空気の匂いしかしなかった。そういえば、さっき口を塞いだ掌も、かなりひんやりとしていたっけ。

 今までずっと冬の風に晒されていたのかな、そうやって成海のことを待っていたのかなと思えば、怒りはあっという間に蒸発して消えていく。ここは公道だという事実は一旦頭の外に追い出して、自分も晃星の背中に腕を廻した。

「おかえりなさい」

 そう言うと、晃星が成海の肩に顔を埋めて、細く長い息を吐き出し、うん、と呟くように答えた。



 しかしとにかく、いつまでも外でそうやっているわけにもいかない。中で温かいお茶でもどうですかと言うと、晃星が自分の口を掌で押さえてくくくと笑った。

「部屋に行きましょうって……すげえ誘い文句……」

「やっぱりファミレスにしましょう」

「待って待って! 方向転換しないで! そりゃファミレスの薄いコーヒーよりは、なるちゃんが淹れてくれたお茶のほうがいい」

「だったら余計なことを言わなければいいのに」

「なるちゃんに誘惑されて、照れてるんだよ」

「誘惑してませんし、ぜんぜん照れてるように見えません。大体、キス以上のことはしない、って晃星くんが言ったじゃないですか」

「ちゃんと、多分、って言っ……」

「信頼してます」

「…………」

 晃星は横を向いて面白くなさそうにぶつぶつ言った。英語だったので、なにやらロクでもない内容であるらしいことは推測できた。気にしないでおこう。

「晃星くん、食事は? お腹空いてるんだったら、何か作りましょうか」

「そうだな、腹ペコってほどでもないけど……作ってくれるって、たとえば何を?」

「えーっと、おにぎりとか、お茶漬けとか、お粥とか」

「……米しかないんだね。あのさなるちゃん、栄養失調になるほど節約精神を発揮するのはやめなさいって俺があれほど言ってるよね?」

「ちょっと買い物に行きそびれているだけですよ」

 晃星のがみがみと続く説教を聞きながら、二人してアパートの部屋へと入る。

 ストーブを点けて自分の部屋に行き、着替えてからまたLDKに戻ると、晃星が両親の仏壇に向かって、律儀に手を合わせていた。

 それが済むと、今度は隣の誠人形に顔を向けた。

 しばらく無言で、じいっと見つめていると思ったら、どういうわけか、人形の頬部分の布をぎゅーっと指でつまんで引っ張ったりしている。

「……何してるんですか」

「別に。今、この顔を見ると、なんか無性にイラッとするだけ」

 真面目にわけの判らない返事を寄越された。相当、疲れているらしい。大丈夫なのだろうか。

「晃星くん、牛乳がありますよ。ホットミルクにしましょうか。リラックス効果があってぐっすり眠れるって聞いたことがあるし……」

「なんでそんな、子供をあやす母親みたいな顔してんの? せっかくなるちゃんといるのに眠るなんてもったいない。コーヒー淹れてくれる?」

 そう言いながら、立ち上がって食卓の椅子に腰を下ろす。下ろすのと一緒に、短い息が洩れた。

 コーヒーメーカーをセットしながらちらっと窺うと、晃星は難しい表情をして、室内をぐるりと見回していた。その目は、コードを替えて、ちゃんと通じるようになった白い電話機のところで一瞬止まり、次に食卓の傍らの窓のほうへと向かった。

 窓にはすでにカーテンが引かれてあるので、外は見えない。だからそこを見ているわけではないのだろう。ベージュのカーテンの布地に向かっているようで、その目が見ているのは多分まったく別のものだ。


 ……何を見ているのかな。


 この間のファミレスで思ったようなことをまた思う。笑みを消した晃星の横顔は尖っていて、他人からの干渉を受け付けないように見えた。

「なるちゃん」

 いつの間にか、ぼーっと動きを止めてその姿を眺めていたらしい。ぱっとこちらを振り向かれ、思わずびくっと全身で身じろぎしてしまった。

 「はっ、はい?!」と裏返った声を出したら、晃星は怪訝な顔になった。

「……なんでそんな驚いてんの。今度は後ろから声をかけたわけじゃないでしょ」

「前触れのない唐突な動きも苦手です」

「どこまでビビりなんだよ」

 顔を下に向けて、くっくっと笑われる。ビビり認定は不本意だが、晃星の顔に見惚れていたと本当のことを言ったらなおさら笑われそうなので、黙っていることにした。

「なるちゃん、今日は宿題はないの?」

「えーと、そうですね……」

 今日の宿題……と呟きながら考える。思い出して、ぴたっと口を噤んだ。

「あるといえばある、ような気がしますが」

「要するにあるんでしょ。なにその持って回った言い方。どんな宿題? 俺が見てあげようか」

「いえ、お気遣いなく。明日も明後日もあることだし」

「なるちゃん、目が泳いでるよ」

「そういえば、バイトの話をまだ……」

「それをゆっくり聞きたいから、まずは宿題を片付けようかって提案してるんだけど? 教科はなに?」

「晃星くんはコーヒーはブラックでしたっけ?」

「教科」

「…………。え……英語……」

 それを聞いて、晃星がこれ以上なく楽しそうに、にんまりと笑った。

 だから言いたくなかったのに……。



          ***



「なになに……『あなたが彼に援助を求めてもそれは無駄です』? つまんない例文」

 英語の問題集を見ながら、晃星はさっきからケチばかりつけている。

「つまらないか面白いかは、あまり関係ないと思います」

「だってこいつ、やたらと上から目線じゃん。冷たいわりに、自分は何もしないし。こんなこと言うやつは嫌われるよね、普通」

「やっぱり宿題やめません?」

「なるちゃん、それ違う。It is no use ~ingで、『~しても無駄』。構文なんだからそのまま覚えてね。有名なところでは、It is no use crying over spilt milk.『零れたミルクを泣いても無駄』つまり『覆水盆に返らず』。Do you understand?」

「……ハイ」

 どうしてこんなことなっているのかよく判らないが、晃星はけっこう厳しい家庭教師だった。問題がくだらない、こんなことを言うやつは人間性に問題がある、などと文句を言いながら、成海が間違えるとビシビシ指摘してくる。

「こんなつまんない例文ばっかり出すから、学生は英語を勉強する気がなくなるんじゃないの? もっと普段よく使うような、実際に役に立つ文章にすりゃいいのに」

「実際に役に立つ……」

 なるほど、それは一理ある、と感心した。

「人にどうやって道を尋ねればいいか、とか?」

「女の子を口説くにはどう言えばいいか、とか」

「…………」

 真面目に聞いた私が馬鹿でした。

「そうだな、たとえば……You send me happiness everytime.わかる?」

 晃星が少し考え、自作の例文を出した。いつもの流暢な話し方と違い、単語と単語の間を区切ってはっきりとした発音で口にしてくれているので、成海でもなんとか聞き取れる。

「えっと……『あなたはいつも私に幸せをくれる』?」

「Good.」

 晃星がニコッとした。成海も、えへ、と頬を緩める。

「じゃあ次、I am always on your side.は?」

「えーと」

 下を向き、シャーペンの先でとんとんノートを叩いた。

「……『私はいつでもあなたの味方です』、かな……」

「That's right! Your smile makes me happy.は?」

 えーと、とまた呟きながら、ふと顔を上げる。

 そうしたら、隣に座っていた晃星の顔がすぐ間近にあることに気づいて、動揺した。

 ──あ、あれ、いつの間に?

「……『あなた、の』……」

「『君の笑顔を見ると俺は幸せ』」

「……は、はあ」

 本当にこれ、普段使うような例文なの?

 じっとこちらを見つめられて、ものすごく落ち着かない。頭の回転が、途端に鈍くなった。大体、英語のヒアリングをするだけのことに、どうしてここまで顔を寄せて、やたらと色気の滲んだ声を出す必要が──

「じゃ、I can’t take my eyes off of you.は?」

「え、えええーと……」

「『君から目が離せない』」

「…………」

 息が頬を掠めるほどに、晃星の顔が近くなる。


「──I love you.は?」


 低く囁くような声を出され、成海はギブアップした。

 もう、無理!

 火を噴きそうなほど赤くなって、寄ってきた晃星の顔を掌で押し戻す。こんな言葉を素面で言えるこの人は、やっぱりどこかおかしい。

「わ……『私はあなたに好意を抱いています』!」

「なに、その残念な訳。意味は大体合ってるけど、ニュアンスがまったく違うよ?」

「日本で生まれ育った人間の頭の中に、それらの語彙は存在しません」

「そんなわけないでしょ。じゃあ最後ね」

 手首を掴まれた。

「Can I kiss you?」

 押し戻そうとした掌の向こうの口許が笑っている。なんだか憎たらしいが、さらに抗おうとする気持ちが自分の中にはないことが判って、諦めた。

「……Yes.」

 赤い顔のまま小さくそう言うと、再び顔が近づいてきた。

 温かい息がかかって、成海はそっと目を閉じる。

 ゆっくりと、口づけられた。

 軽く何度も啄まれる。優しくて、まるで包み込むようなキスだった。舌の先がほんの少しだけ絡み、するりと唇をなぞって、離れていく。

 目を開けると、晃星が微笑んでいた。

「外に何か食べに行こうか、なるちゃん」

 手首から外した掌を天井に向けてぱっと開き、「紳士でいるのって、思った以上に大変だねえー」と嘆くように続けた。



          ***



 アパートの近所にあるファミレスに行き、そこで軽く食べたりしながら、バイトのことをあれこれ話した。晃星は相槌を挟みながら、興味深そうに聞いてくれている。

「──それで、迷っちゃって」

 店主のことを、どう呼んでいいか迷った、という話だ。マツも客も、みんな彼のことは「親父さん」と呼んでいるが、さすがに成海はその呼称を使うのはためらわれる。それで、店長、か、西崎さん、で呼ぼうとしたのだが、今度は店主本人にイヤがられた。

 呼ばれ慣れないので誰のことかわからん、と言うのである。

「さんざん考えて、結局、『おじさん』になりました」

 バイトが雇い主に対して、おじさん呼ばわりはどうなのかなあ、と困惑してしまうが、店主はそれでいいと言うし、マツも「それがいいよ、そうしなよ」とニコニコと賛成するので決定となった。おじさん、と成海が呼びかけるのを聞いて、客たちの、「成海は店主の縁者」という疑惑は、確定に変わった模様だ。

 西崎さんと呼んでも、おじさんと呼んでも、店主の対応はいつも変わらず「うん」だけの無愛想なものだが、マツに言わせれば、間違いなく後者のほうにデレている、のだそうだ。よくそんなことが判るなあ、と成海は感心しきりだったが、余計なことを言ったマツは、その後店主に思いきり頭を叩かれていた。

「マツさんは今、あのお店で修行しているところで、いずれのれん分けをしてもらって、独立するのが夢らしいです。素敵ですよね」

 言動は軽いものばかりだが、マツはマツで、ちゃんと将来を見据えて着実に努力を重ねているのだ。

 成海としては、二人が仲良くなってくれたらいいなと思うので、そのあたりをさりげなくアピールしてみたのだが、その先輩店員の長所を口にするたび、晃星は不機嫌になっていく一方だった。

「なるちゃんは『素敵』って言葉の使いどころを間違ってる……俺に対してはぜんぜんそんなこと言ってくれないのに……」

 ぶつくさ不平を言っている。この人は時々、取り扱いが難しい。

「晃星くんも素敵なところはたくさんありますよ」

「たとえば?」

「……えー、たとえば……うーん……」

「すげえ考えてる! ぱっと浮かばないあたりがもう傷つくんだけど!」

 椅子の背もたれに上半身を預け、がっくりと首を垂れる晃星に、成海は慌てて手を振って弁明した。

「思いつかないんじゃなくて、言葉にしづらいんです」

 晃星の「素敵なところ」は、そうそう簡単に表現できるようなものではないからだ。

 成海は彼のことを、優しい人だと思っている。けれど、それを言葉に変換すると、なぜかその瞬間、少し違うものになってしまうような気がする。優しいところ、と口にしたそばから、違和感を覚えてしまいそうだ。

 晃星は女の子への口説き文句をたくさん並べることが出来るようだが、成海が彼に対して思っていることの全部は、とてもではないが、そんなものでは伝えきれない。

 きっと、何を言っても、いくつもの言葉にしても、自分自身、どこかもどかしい思いをするだろう。

 気持ちを言葉にして伝えるのは、とても大切だ。自分の中にあるものをそうして外に出すことによって、その分軽くなれることもある。

 ……でも、やっぱり、言葉は万能じゃないのだ。

 愛してる、と言えたとしても、愛の言葉には限界がある。同じ言葉でも、中身は時によって変化をし、増減し、入れ替わる。そこに内包する様々なものをすべて言葉にして、相手に届くように差し出すことは不可能だ。

 だって、それには形がない。形のないものは、誰にも説明できない。


 ──本当のところ、人と人との間には、「確固として形のあるもの」って、存在しないんじゃないのかな?


「なるちゃん」

「はい」

 そんなことを考えている間にも、晃星はまだ拗ねていたらしい。むっとしたように口を曲げて、空になった皿の置かれたテーブルの上で頬杖をつく。

「傷ついた心に、癒しが欲しい」

「はあ。どうすればいいんですか?」

「俺が喜ぶようなこと、なんか考えて」

「ううーん……」

 難問を出されてしまった。傷ついたわりに、晃星は楽しそうだ。真剣に悩む成海を見て、くすくすと笑っている。

 晃星が喜ぶこと、というと……

「じゃあ、あの、どうぞ」

 いきなりにゅっと差し出された右手に、晃星はきょとんとした。目を瞬いて成海の顔を見てから、また手に視線を移す。

 とりあえず、という感じで、頬杖を解いてその手をぎゅっと握ったものの、訝しそうな顔つきは変わらなかった。

「……えーと、それで、これは何?」

「少し荒れているかもしれませんけど」

「いやそんなことないよ、綺麗だよ。……で、これは何?」

「晃星くんは、手を触るのが好きみたいなので」

「…………」

 晃星はしばらく石になった。

「……今、俺となるちゃんの認識の間に、深くて暗い河が見えた……」

 大きな溜め息とともに、ぼそぼそと低い声で呟く。しかし呟きながらも、しっかり成海の手を自分の両手で包んで、握ったりさすったり撫でたりしている。言っていることと行動が一致していない。

「これで、ちょっとは元気になりますか?」

 そう訊ねたら、晃星はふてくされたような顔をしたものの、すぐに堪えきれなくなったように威勢よく噴き出した。

「なった。すげえ、なった。自分でもびっくりするくらい元気になった。なるちゃんはすごいよ」

 その明るい笑い声に、成海もほんのり目元を和ませる。

 人と人との間に、形あるものはないのかもしれないし、言葉はたまに無力なのかもしれないけれど。

 ──でも、それ以外の「何か」で、伝わるものがあればいいなと思う。




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