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空中散歩  作者: 雨咲はな
27/42

27.一歩目



 アパートの住人たちが起きだす前に部屋を出ていくよ、と晃星は言った。

「だってさ、俺がなるちゃんと一緒にここを出るところを見られたら、いろいろとマズくない? 特に隣の女の人」

 心の底から納得できる理由である。晃星がこの部屋を出るところを美沙に見られたりしたら、兄が留守なのをいいことに若い男を部屋に泊まらせて、と近所中に言いふらされること請け合いだ。困ったことに事実だけなら完全にその通りなので、反論も出来ない。

「いくらやましいところがなくたって、悪い噂が広まると困るからね」

 と言いながら、晃星は玄関のドアを薄く開き、用心深く外の様子を窺ったりしている。成海はその姿を見て、スパイみたい、という感想を抱いたのだが、晃星自身は、間男になった気分だ、とくすくす笑っていた。ものすごく楽しそうだった。

 誰もいないのが判ると、またパタンとドアを閉じて、成海のほうを振り返る。

「じゃあ俺、行くね。他の棟の窓の外を通って姿を見られたらいけないから、塀を飛び越えて隣の駐車場を通って道路に出る」

「は、はあ……」

 どちらかというと、そのほうが不審者に思われて注目を浴びてしまうのでは? と思うのだが、どうやったら人に見られずにここから脱出できるか、というゲームに張り切っているその様子を見ると、言葉にするのも憚られる。アパートの住人より、警察に見つからないといいのだが。いや、それさえも晃星は面白がりそうだ。

 彼はきっと、どんなことでも、こうやって楽しい遊びに代えてしまえる才能があるのだろう。

「気をつけてくださいね」

「大丈夫。見つかるようなヘマはしないって」

「そういうことではなく」

「ひょっとして、塀に足を引っかけて転がり落ちることでも心配してる? 俺のカッコイイ跳躍をなるちゃんに披露できなくて残念だなー。塀を越えて、車のボンネットに飛び乗って、柵の間をくぐり抜けていくくらい楽勝だよ」

 そんなことをするつもりなのか。聞いているだけでハラハラする。

「障害物競走じゃないんですから。無理しないでください」

「平気平気。俺、昔から短距離とハードルは得意だったんだ」

「それとこれを一緒にしていいのか、今ひとつ判断がつきません」

「筋トレとかは嫌いなんだけどね、あれ退屈で退屈で」

「え、そうなんですか? 誠ちゃんは毎晩、腹筋と腕立て伏せを百回ずつ、嬉々としてやってましたよ」

「だから脳まで筋肉になっちゃったんだねえー」

 失礼な。

 頬を膨らましかけたものの、結局、可笑しくて噴き出してしまった。

 晃星といい、昔の同級生といい、兄についての評価は酷いものばかりだが、それがなんとなくこちらの胸を温かくするものでもあるのは、その言い方や顔つきや声に、ちゃんと親愛の情が滲んでいるからだ。

「ああ、笑ったね」

 ふいに、かけられる口調が柔らかくなった。顔を上げると、晃星が微笑みを浮かべてこちらを見ていた。

 穏やかで優しい顔だ──と思う間もなく、その顔はまたすぐにころっとイタズラめいた表情に変わり、素早く成海の頬に近づいてきて、軽くキスをされた。

「可愛いね。なるちゃんはやっぱり、笑った顔がいちばん可愛い」

 ニコニコしながら言われて、赤くなる。キスにも、耳元で可愛い可愛いと連呼されることにももちろん照れるが、なにより、あまりにもストレートに嬉しさを表に出す晃星を見て、かえって昨日のことを思い出してしまった。

「……昨日は、いっぱい泣いちゃって……」

 ごめんなさい、と足をもじもじ動かしながら謝ると、口元に笑みをたたえた晃星が、うん? というように首を傾げた。

「なんで? それでいいよ。泣きたい時は思いきり泣けばいい。むしろ、泣きたいのを我慢して笑われるよりも、そっちのほうがよっぽどいい」

「…………」

 成海は口を噤んだ。

 ──そういえば、晃星の前で笑ったのは、いつ以来のことだったっけ?

 一緒にここで食事をした時から、すでに二週間近くが経過している。その間、電話で話したりしたこともあったけれど、あれこれあって、単純にお喋りを楽しむ余裕はまるでなかった。どちらかというと、いつも緊張していたような気がする。

 晃星が心配しないように。

 こちらの不安を気づかれないように。

 ……本当は、ずっと無理をしていた。


「なるちゃんは、誠以外のやつに甘えることに、慣れていないんだね。どうしてかっていうと、お父さんとお母さんが亡くなってから、ずっと誠が君を大事に大事に手の中に包んで、守ってきたからだ」


 そうだ、その通り。

 両親がいなくなってから、誠が、残された幼い妹のことを、いつも懸命に守ってくれていた。

 ものすごくビビりで、泣き虫で、暗いところも狭いところも苦手で、すぐに何かというとおにいちゃあんと助けを求めていた妹が、つらい思いをしないように。

 いちばん大変な時に近くにいたのは誠。手を取って力づけてくれたのは誠。俺がいるから何も心配するなと言ってくれたのは誠。

 そうやって、いつだって、両手をいっぱいに広げ、成海を庇護してくれていた。

 誠だけ。誠だけが。


「だから君は、誠以外の人間に甘えるのが苦手になった。それはしょうがないことだよ。……でもさなるちゃん、甘えるってことと、依存するってことは違う。その違いが判らない人は多いけど、君はちゃんと、判ってる。その二つの違いを知ってる。俺はそう思う」


 弱音を吐いたり、泣き言を言ったり、困ったことを相談したりするのは、いつも兄。

 父も母も失った成海には、頼れるのはもうその人しかいなかったからだ。誠はいつでも親身になって聞いてくれて、一緒に考えて、励ましたり、解決案を提示したりしてくれた。

 成海にとって、すべてを曝け出せる相手は、庇護者である誠しかいなかった。自分の弱いところを見せるということは、守られるということ。それを等号で結んでしまうことに、違和感を覚えなかった。

 イコールは、たった一つしかなかった。

 だから、突然、庇って守ってくれる人がいなくなって、成海のその感情も、行き場を失ってしまったのだ。

 どこに向ければいいのか判らない。判らないから自分の中にしまい込むしかない。嵩が膨らんでも、重みが増しても。

 時間が経つにつれ、どんどん湧いてくる不安と疑問。いつも頼りきって甘えきっていたから、誠は成海のことが重荷になったのだろうか──そう考えたら、怖くてたまらなくて、余計に胸の中のものを強く閉じ込めることになった。

 もう誰にも、自分の弱いところは見せられない。

 一人でやっていかなければ。


「泣きたい時は泣いて、怒りたい時は怒って、笑いたい時は笑う。それって当たり前のことだよね? それで楽になるのなら、いくらだってそうすればいい。誰かの荷物になりたくないと思うあまり、いろんなものを押し込めて歪めるから無理が出る。なるちゃん、何もかもを、自分一人で背負おうとしなくていいんだ。いくらだって、甘えてもいいんだ。誰かに寄りかかったらそのまま思考停止するなんてこと、君は決してしない。時には甘えるだけ甘えて、それからまた元気に歩き出せばいい」


 誠がいなくなってから、この世界に置き去りにされたようで、心細くてたまらなかった。

 頑張らないと、一人でやっていかないと、その気持ちだけが空廻る。誠の帰りを待つと言いながら、常にその裏では、真っ暗な何かに塗りつぶされそうになっていた。

 何をやっても上手にいかない。周りにも認めてもらえない。誠のことが何も掴めない。悔しくて悲しくて寂しくて、唇を噛みしめて、俯かずにいるのが精一杯だった。

 何も出来ない。自分の無力さが情けない。どうしていたらよかったのか判らない。

 考えるのは、いつもそればかりだった。


「涙を隠さなくてもいい。そんな孤独な選択はしなくていい。誠もそんなことは絶対に望んでない。君はそこにいるだけで、誰かに何かを与えられることもある。──そういうことも、あるんだよ。間違いなく」


 変わらないことはたくさんある。成海はやっぱり力がないままで、誠はおらず、苦しさは消えたわけでもない。

 ……でも。

 たくさん泣いて、すべてを吐き出して、人の温かさを直に感じて、少しだけ素直になって、成海の心はようやく、別の方角の扉を開く。

 何も出来ない、ではなく。


 ──今の自分に出来ることは、何だろう。


 晃星が成海の顔を覗き込んだ。真っ直ぐな視線が、揺らぎもせずに瞳の奥に向かってくる。

 その目が細められ、ニコッとした。

「大体、君のくしゃくしゃの泣き顔も、おひさまみたいな笑顔も、あいつだけが独り占めなんて、もったいない話だと思わない?」

 からかうように言われ、成海もちょっと笑った。

 そうしたら、ふわりと頭に手が置かれ、優しく撫でられた。するりと成海の髪を梳いていく指が、くすぐったい。

「そりゃ、泣くより、そうやって笑ってるほうがいいけど。なるちゃんが楽しそうに笑ってるのを見ると、すごく元気が出る」

 晃星のその言葉にきょとんとして、目を瞬く。

「本当? 元気が出ますか?」

「もちろん」

 口元を綻ばせながら晃星はそう言って、少しだけ小声になって続けた。

「……How many times was I saved by your smile? I treasure you……It hasn't changed since a lot time ago.」

「え」

 突然の英語に戸惑う。

 ……なんて?

 困った。何か大事なことを言われている気がするのに、何を言われているのかまったく判らない。流れるような発音、しかも音量まで抑えられていては、ほとんど聞き取ることも出来なかった。

「あのー、できれば日本語でお願いします……」

「すごーく歯の浮く台詞だけど、正確に日本語に訳したほうがいい? この場にいられないくらい恥ずかしい思いをすることになるかもしれないけど、聞く?」

「……やっぱりいいです」

 これ以上恥ずかしい思いをさせられたら、成海の羞恥心の限界を超えそうなので、謹んで辞退することにした。ただでさえ初心者なのに、そういっぺんに進まれては、知恵熱を出して寝込んでしまいそうだ。

 晃星が明るく笑った。



          ***



「──辞める?」

 携帯の向こうで、征司が驚いた声を出した。

「はい。今まで散々お世話になっておいて、申し訳ありません」

 成海はそう言って、深々と頭を下げた。電話だから、そんなことをしてもあちらには見えるわけがないのだけれど。

「どうしたんだい。どうしてまたこんな突然──何があったの、成海ちゃん」

 そう、突然だ。まだ店も開けていない時間、いきなり征司の携帯に電話をして、バイトを辞めさせてください、なんて。

 こんなやり方は、あまりにも非常識で、身勝手だ。成海はバイト経験は征司の店がはじめてだが、辞める時には、せめて二週間、普通に考えて一カ月前には意志を伝えておくものだということくらいは知っている。今日からもう行かないなんて急に言われても、代わりの人が見つかるかどうか。

「本当に、申し訳ありません」

 もしも代わりのバイトが見つからなかった場合、征司は困ることになるだろう。新しいバイトを募集して、見つかったとしても、また一から仕事のあれこれを教えなければならない。不慣れで慌ただしい雰囲気は、なんとなく客にも伝わる。落ち着かないカフェだと思われたら、それだけでもかなりのイメージダウンだ。

 誠がいなくなって、途方に暮れている成海に、よかったらうちの店で働いてみないかい、と言ってくれた征司。困っているのを助けてもらったのは、成海のほうだったのに。

「謝ってほしいわけじゃない。説明をしてくれと言っているんだよ。辞めると言うからには、相応の理由があるんだろう?」

 征司の声音が厳しさを帯びた。それでもやっぱり、いつもと変わらない、理性的で穏やかな対応だった。心臓がぎゅっと縮んで痛いくらいだ。いっそ、怒鳴られたほうがよかった。

「個人的な事情です。すみません、すべて、私の勝手な都合なんです」

「個人的な事情?」

 繰り返して反問する声に、訝しげなものが混じる。

「天野のことで何か──いや」

 少し、沈黙があった。何かを考えているかのような……違う、躊躇するような間を置いて、征司が再び口を開いた。

「ひょっとして」

 携帯の向こうから聞こえてきたのは、まるで喉に何かが刺さって引っ掛かっているような、少し掠れた声だった。


「……笙子が、なにか」


 一瞬、強く目を瞑った。

 ──征司は薄々、気づいていたのか。

「いいえ、違います」

 再び瞼を上げ、成海はきっぱりと答えた。

「成海ちゃん、正直に言ってくれ。笙子が、君に何か言ったり、したりしたんじゃないのかい。実は最近、君のことで、彼女と話し合いをしたんだけど、少し意見がすれ違っていてね。僕も出来るだけ、笙子の理解を得られるように話したつもりなんだけど」

 急きこむように言葉を続けてから、ふいに言い淀むように、またちょっとだけ間が空いた。

「その、なんというか……彼女はかなり精神的に脆いところがあって、思い込みが強いというのかな、あれこれ考えはじめると、どんどん悪い方向に思考が向いてしまうことがあるんだ。それで、成海ちゃんのことも、何か誤解をしているのかもしれなくて」

「いいえ、常陸さん、違います」

 もう一度、今度は静かに言った。

 ……それは、「誤解」と名付けるものではないと思います。

「笙子が君に、何かを言ったかい。それとも……何か」

 征司はそこでまた黙った。

 ややあって、言いにくそうに、ぽつりと続けた。

「以前にも、似たようなことがあって……それで僕も、気をつけていたつもりなんだけど」

 そうか。ここ最近、ずっと征司が成海に対して何かを言いたげだったのも、注意深くこちらを窺っていた様子なのも、それで納得がいく。

 今まで、笙子のいちばん近くにいたのは征司だ。彼女の様子が少しずつ変化していくところを、征司だって見ていただろう。刻々と彼女の精神を蝕んでいくものがあるのを、目には見えなくても、心で何かしら感じ取っていただろう。以前にも似たようなことがあったのなら、なおさら。

 征司は警戒していたのだ。笙子の胸の内に潜む暗い思いを。彼女がひそかにとるかもしれない悲しい行動を。心のどこかで疑いを抱きつつ、けれど必死に否定して。

 いつかは説得できると考えながら、それでもやっぱり不安は捨てきれず──

「違います。笙子さんは関係ありません。私、笙子さんとはこのところずっと会っていません」

「成海ちゃん……」

「単に、私のワガママです。常陸さんには本当に、ご迷惑ばかりかけて申し訳ありませんでした。せっかく優しく親切にしてくださったのに、ひとつも報いることが出来なくて、ごめんなさい」

 ごめんなさい、と言ってまた頭を下げた。今度は、目の前にはいない笙子に向けて。

「もう、お店には行きません。常陸さんの前に姿を見せることもしません。学校のことも、就職のことも、これから一切ご面倒をかけることはしません。兄の件でも、もうご連絡はしません」

「待ちなさい、成海ちゃん」

 征司が焦った口調で遮るように名を呼んだ。

「待って、君ともちゃんと話をしよう。もっと早くにそうしなきゃいけなかった。君の今後について決めておくことが山ほど──」

「私のこれからは、私が決めます」

「いや、しかしそれは」

「ゆっくり考えて、やっていきます。ひとつずつ」

「君はまだ子供だ。一人じゃ無理だ。成海ちゃんが思うほど、社会も世間も甘くない。担任教師の相手をするのさえ難しかったんだろう? 高校生が自分の力で出来ることなんて、たかが知れてる。君には保護者が必要だ、だから」

「保護は必要ないんです。自分の力が足りないのは判っています。だからそれをどこでどう補っていくかを考えます。私に出来ることをして、それで失敗したら他の方法を見つけます。どうなっても、それは私自身の責任です。自分の代わりに、その責任を他の人に負ってもらおうとは思いません」

 携帯のあちら側が無言になった。

「……それは」

 しばらくして届いた征司の声は、ずいぶん低いものになっていた。

「それは、誰かの入れ知恵?」

 こちらを窺うような口調になって、彼は言った。

「もしかして、あの八神という青年に、そう言うように指示されたんじゃないのかい。君に保護者は要らないと。そうやって自分がその位置に納まろうとしてるんじゃないのかい?」

「いいえ」

 少し悲しくなった。あちらからは、はっきりとした猜疑心が伝わってくる。どうして征司はいつも、そんな風に晃星という人間を捉えるのだろう?

「成海ちゃん、僕が言ったことを忘れた? その彼はどんなに上手いことを言ったとしても、結局いつかは、君から離れていく。ずっと君の近くにいるわけじゃない。寂しい気持ちにつけ込もうとしているだけだ。実際のところは何を企んでいるのか知れたもんじゃない。大体、素性も経歴もよく判らないままなんだろう? 何が嘘で、何が本当なのか、君に見極める力があるのかい?」

「…………」

 何が嘘で、何が本当か?

 それは確かに判らない。素性も、経歴も、どこに住んでいるのかも、普段何をしているのかも、さっぱり判らない。何もかも、知らないことばっかりだ。

 でも。

 晃星は「君には嘘をつかない」と、言ってくれたから。


 成海は、その言葉を信じようと思う。

 信じることにした自分を信じたいと思う。


「いずれ裏切られて、後悔するのは成海ちゃんだ。つらくて苦しい思いをするよ」

「──じゃあ」

 征司の言葉に、わずかに微笑んだ。

「先になって後悔しないように、とことん信じることにします。少しでも疑いながらこの時間を過ごしたら、きっと悔やむことになると思うので。……晃星くんが離れていっても、あとで振り返って、あの時は幸せだったと心から思えるように。思い出すたび、幸せな気分になれるように」

「…………」

 言葉に詰まったのか、征司が黙り込む。さぞかし呆れているのだろう。

 でも、別にいい。どう思われてもいい。それが成海の率直な気持ちなのだ。

「どうか、常陸さんは、私じゃなく、笙子さんと話をしてください」

 切られたコードは買い替えれば済む。それですぐにまた、電話は通じるようになる。

 でも、人の心はそういうわけにはいかない。すぐには通じないし伝わらない。切れても取り替えはきかない。簡単には修復できない。笙子の心を癒せるのは、征司の存在と言葉と気持ち、そして時間しかない。

 成海が出来るのは、二人の幸せを願うことだけだ。

「今まで、ありがとうございました」

 そう言って、通話を切った。




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