キャリコ・グレイス/九
僕の村には中学校がない。だから僕は、自転車を漕いで駅まで行って駅から電車に乗ってG県明方市にある明宝中学校に二時間かけて通っていた。教団の施設を見学した次の日、僕は夏休みにも関わらず制服を着て明方中学校までのいつもの二時間をウォークマンに接続したイヤホンを耳に挿しヘッセを読み過ごした。登校日、という訳ではない。親友に会いに僕はここまで来たのだ。僕は昇降口には向かわずに直接北校舎一階の保健室に向かった。
そこに僕の小学校からの親友がいるはずだった。彼は夏休みも通常も何もかも関係なく、保健室にいる。彼にはその習性があるのだ。
僕は保健室の扉をガラガラと開けて「こんにちは」と中に入った。保健室の中は冷房が効いていて涼しかった。白衣を纏った養護教諭の合田ミナト先生は机に向かい書き物をしていた。ミナト先生は視線を上げこちらを見て黒縁の重たそうな眼鏡を取って微笑んだ。夏休みだからかミナト先生の茶髪は明るさを増していた。「あら、いらっしゃい」
僕の親友の津田ゲンは保健室のベッドに寝転んでニーチェのツァラトゥストラを読んでいた。ゲンは僕が哲学のことを議論出来る、この学校では唯一の男だった。ゲンは僕が保健室の中に入るとツァラトゥストラの文庫を枕元に投げ捨てて上半身を持ち上げ胡坐を掻き上機嫌そうに言った。「コテツじゃないか、どうした? まだ夏休みは終わってないぞ」
「ニーチェはどうなの?」僕は微笑みながらゲンが座るベッドの横の丸椅子に腰かけた。
「全ての神々は死んだ、」ゲンは自分の太ももの上に肘を置き手の平に形のいい顎を乗せて、いつも通り力のある目を僕に向けて声を低くして言った。「いまや、わたしたちは超人の生まれることを願う」
全ての神々は死んだ、いまや、わたしたちは超人の生まれることを願う。
昨日、教団の施設を訪れていた僕にそのフレーズは、一瞬の邂逅を促した。
僕はナユタ様との鬼ごっこと森で飲んだ水の味とエイダとロザリィとイサクの電子音的な声を瞬間的に思い出して、あれは僕の空想などではなく、確かな現実だったのだと強く思う。現実でなければ、これほどの加速を伴う邂逅などには襲われないだろうから。
「どうした?」ゲンは訝しげに僕のことを見ている。「ぼうっとして」
「……いや、」僕は思考を保健室に戻して首を横に振って笑う。「神は死んだ、なんて、なかなか言えることじゃないなって思ってさ」
「ニーチェは狂っていたんだ」
「そうだ、狂ってしまわなければ、」僕は枕元のツァラトゥストラを持ち上げて言った。「こんなものは書けないもの」
「狂っているって、」ミナト先生は椅子を回転させてこちらに体を向けて両手を持ち上げ伸びをしながら言った。ミナト先生の大き目な胸元が強調されて僕は目のやり場に困る。「君たちは好き勝手なことを言うなぁ、ニーチェは要するに自分自身に対して強くあれって、至極道徳的なことを言っているわけでしょう?」
「至極まっとうな人間だから狂ってしまったんですよ、彼は純粋だった、しかし世界は歪んでしまっていて狂気だった、だから彼は狂気をそこから借りてきた、借りた狂気で大衆に道徳的正常を訴えかけた、しかしそれは地球の自転軸の傾きを垂直にすることとほとんど同じだった、そして最終的に世界から借りてきた狂気に呑み込まれてニーチェは死ぬんです、狂った世界に忠実であろうとした証拠だと僕は思います、つまり真面目過ぎたんです、彼に不足していたものがあるとするならそれってきっと、天体史学的唯物論者的なユーモアですよ」
「素晴らしい空想だな」ゲンは手を叩いて笑う。
「君たちは本当に中学生かね、」ミナト先生は苦笑してから僕らに向かって口癖のようになってしまった台詞を吐く。「私は天才たちの成長を今まさに見守っているのでしょうか?」
「そんなことより、」と僕はニーチェから話題を変えた。「二人に話したいことがあるんですよ」
僕は二人に昨日教団の施設に行ったこと、ナユタ様という未来の会主との遭遇について掻い摘んで話した。途中でゲンはベッドの上で僕に顔を近づける姿勢で横になり、ミナト先生は椅子のキャスタを転がして僕に近づいた。二人は熱心に僕の話を聞いてくれた。僕はおよそ十分間しゃべり続けた。窓辺に置かれた水槽の中で泳ぐ鮮やかなオレンジ色に光る金魚たちは顔をこちらに向けて不思議そうに僕の話を聞きながら、口をパクパクさせていた。「……とまあ、そんなことがあったわけなんですけど、どう思います?」
「どう思うかって?」ミナト先生は眉を潜め、目をパチクリとさせ、エクステンションして一学期の終わりよりも長くなっているまつげを躍らせた。「どう思うかって、そりゃ、こてっちゃん、勇猛果敢も善いけれど、好奇心に従順に生きるのもいいけれど、そういう冒険心も凄く格好いいって思うけど、あんまり一人で、そういうところに行っちゃ、先生、危ないと思うぞ」
「そんなことを言うなよ、ミナト、そういうところがコテツのいいところなんだ、愛らしいところなんだから」ゲンはミナト先生を嗜めるように言った。
「ごめん、ゲン君、」ミナト先生はゲンの腕に軽く触れ素直に謝った。「でも一人ってやっぱり危ないよ」
二人の人間関係ってそんな感じだった。ミナト先生は基本的にゲンに従順で、彼に頭が上がらない。それというのは、ミナト先生はショタコンで、ショタコンだから養護教諭になった変態で、ミナト先生とゲンは正式に付き合っていて、ミナト先生は彼女のイニシャルと同じ属性を持っているからだった。
二人が付き合うことになったのは本当に偶然の出来事がきっかけになっていて、その偶然には僕も絡んでいた、というか僕が中心にいた。
春の話だ。
僕は体育の授業中にグラウンドですっ転んで膝に怪我をしてしまった。痛みはあまりなかったが、傷は深かったようで血は脈拍に合わせてどくどくと流れ出てきた。僕は自分の右足が真っ赤な血に染められているのに得も言われぬ快楽を味わいながら体育教師に「何ぼうっとしてんの! 早く保健室に行ってきなさい!」と怒鳴られてミナト先生がいる保健室に向かった。
「ありゃあ、」ミナト先生は消毒液を浸したガーゼで僕の傷口の血を綺麗に拭いながら、なんだかとっても楽しそうに言った。「これは縫わないと駄目だぞぉ、痛くない?」
「平気です、」僕は首を横に振ってミナト先生を安心させるために笑顔で言った。「ちょっと違和感があるくらいで」
「強い子だ、」ミナト先生は笑顔で僕の頭を優しく撫でてから、とりあえずの応急処置として分厚いガーゼを傷口に当てテープでそれをきつく固定した。その手際はとても鮮やかで芸術的で僕はミナト先生のことを尊敬した。ニーチェもそうだけれど、僕は芸術に無条件の価値を感じるタイプなのだ。「病院に行って縫ってもらわなくっちゃだけど、お父さんかお母さん、お家にいるかな?」
「両親は二人とも仕事なんです」
「そうか、それじゃあ、私が病院に連れて行かなくっちゃいけないね」
「すいません、お手数おかけします」
「気にしないの、それにしても随分大人びた物言いをする子だ」
というわけで僕はミナト先生の深緑色のミラジーノに乗って学校から十分くらい走ったところにある整形外科に行き三針縫ってもらった。白髪が素敵なおじいちゃん先生の縫合も芸術と呼ぶべき見事さだった。消毒の仕方を教わってもしも痛んだ時の場合にと鎮痛剤を貰って、とにかくその帰りだった。ミナト先生はもちろん運転席に座り、僕はミラジーノの助手席に座っていた。ミナト先生と僕は車中ですっかり仲良くなっていておしゃべりが止まらない、という感じだった。ミラジーノは赤信号で止まった。僕はそのタイミングで盛大なくしゃみをして鼻水が垂れてしまった。ミナト先生が「その中にティッシュがあるから」と助手席のダッシュボードの収納スペースを指差し言った。僕は開けた。「あ、やっぱり駄目!」ミナト先生は何かを思い出した風に慌てて言った。「え?」でも僕は開けてしまっていた。そこにあるものを見て僕は、それらは開いた拍子に滑り落ちるように僕の膝の上に散乱した、どうしてこんなものがあるのか訳が分からなかったがとりあえずポケットティッシュで鼻をかんだ。ティッシュを丸めてゴミ箱に放り込んでから僕はミナト先生に聞く。「どうしてゲンの写真ばっかりこんなに沢山あるんですか!?」
ミナト先生は僕の問いに応えずに黙ったままハンドルに額を乗せて項垂れていた。放心状態という感じだった。口元が金魚みたいにパクパクとゆっくり動いていた。
「……黙ってないで、何か言って下さいってば」僕は散乱したゲンの写真を拾い集めていた。全部で五十枚くらいはあるだろうか。そのどれもが、盗撮を思わせる角度から撮影されたものでゲンの目線は一つともカメラの方に向けられていなかった。
クラクションが後ろの車から響く。
ミナト先生は「あっ」と顔を上げた。
青信号に変わっていた。
深緑色のミラジーノは急発進する。
「あ、危ないですって」
僕はミナト先生を刺激して事故にでもなったら大変だと思って唇をきつく結び、黙ったままミナト先生が何か言うのを待った。
そしてミラジーノは学校の正門の前を華麗に通過した。
「ちょっと、ミナト先生!」僕は通り過ぎる学校を窓に見ながら言う。「どこに行くんですか!?」
「マクドナルドよ、」ミナト先生は僕を睨むように見て言った。「明方市は正午よ、お腹空いたでしょ?」
「え、給食は?」
「私はマクドナルドが食べたいのよ」
ミラジーノはマクドナルドのドライブスルーに滑り込んだ。ミナト先生はダブル・クウォータ・パウンダのセットを二つ注文してから「飲み物は?」と僕に聞いていた。
「あ、コーラで」
「コーラね、二つともコーラで、」ミナト先生はマイクに向かって言ってから僕の方に険しい顔を向けて言う。「他に何か食べたいものある?」
「……チキンナゲットも食べたいです」ミナト先生に狂気を感じながら僕は答えた。「あ、マスタードソースで」
公園の路肩に停まったミラジーノの中で僕とミナト先生は無言でダブル・クォータ・パウンダに噛り付いていた。沈黙が車内を支配していた。僕はミラジーノから脱出する方法を考えていた。まずシートベルトを外してドアのロックを解除して公園の敷地の中に入って林の中に入ってミナト先生の目をくらまして……、でもこの足じゃ上手く走れそうもないし……、ただでさえ走るのは苦手だっていうのに……。
「ここから逃げよう、」
僕はミナト先生の声にドキリとなる。「なんて考えているんじゃないでしょうね?」
ミナト先生は乱暴に包み紙を丸めてコーラを物凄い勢いで飲み干し小さくゲップをして僕の膝の上にあったチキンナゲットをソースも付けずにむしゃむしゃと食べてから急に堪えていたものが抑えられなくなったという風に泣き出した。
「うわーん!」
子供みたいに泣いている。
っていうか、……え?
なんで泣いてるの?
僕はあっけにとられて口元に運んでいたポテトを指から落としてしまった。
かけるべき言葉が見つからなかった。
「君は狡い」ミナト先生は肩を震わせ涙目を擦りながら急に訳の分からないことを言った。
「え、狡い?」
「狡いでしょうに、だってずっと、ゲン君の傍にいられるんだから」
「は?」
「付き合ってるの?」ミナト先生はポケットティッシュでびびっと鼻をかんだ。
「え?」
「君とゲン君は付き合ってるのかって聞いてんだよっ」口調は僕の手当てをしてくれた優しいミナト先生とは完全に違っていて日本海の荒波だった。
「そんなわけないでしょ!」僕は大きな声を出して否定した。絶対にそんなこと、ありえない話だからだ。「僕とゲンが付き合うなんて、そんなわけないじゃないですか、ゲンは確かに僕の親友です、小学校からの仲良しです、確かに学校でのほとんどの時間を僕はゲンと過ごしていますけど、付き合っているなんて、そんなことはありえませんよ、絶対にありえない話ですって!」
「絶対にって、そんなことが本当に言えるの?」
「言えますよ、絶対に、未来永劫、僕とゲンが付き合うなんてこと、ないんです」
「……本当?」ミナト先生は疑いに濁りに濁った眼で僕を見る。
「本当ですから」
「本当に本当に本当に本当?」
「本当ですよ、何度も言わせないで下さいってば」
「……そっか」ミナト先生はやっと落ち着きを取り戻したみたいだった。
「そうですよ」
「……ごめんね、……あははっ、私ってば、嫌ね、気が動転しちゃって、」ミナト先生は額を押さえ乱れていた茶髪を掻き上げ整えた。そしてじっと僕の顔を見て、微動する唇をゆっくり開け話し始めた。「もうご存知かもしれないけど、私、ゲン君のことが好きなの、一目惚れだった、もともと私ショタコンで、あ、小さい男の子が大好きな変態って意味なんだけどね、実はそれで養護教諭になったわけなんだけども、入学式で初めて彼のことを見てから、ゲン君、新入生の代表の挨拶をしたでしょ? あのときよ、私の恋心に火が点いてしまったの、彼が火を点けたのよ、彼の、なんていうのかな、高慢なところというか、自信に満ち溢れているというか、戦ってもいないのにすでに勝利している雰囲気というか、そういうところがね、分かる? 堪らなく好きなのよ、身体検査のときはすっごく緊張して身長を計る手が震えていたもの、そのときだけね、彼の体に触ることが出来たのは、今でもゲン君の肌の感触を右手は忘れてないわ、すっごくすべすべで女の子みたいに柔らかい肌、髭もまだ生えていないしツルツルで、とにかく私は毎日ゲン君のことばかり考えているのよ、きっと誰よりもゲン君のことを考えてる、でもこれって叶わぬ恋、ちゃんと分かっているのよ、二十八歳が十二歳のことを好きになるなんて狂ってるって、私だって犯罪者にはなりたくない、でも気持ちは膨らむばかり、そんな気持ちを私はゲン君を盗撮してコレクションして楽しんで発散していたのよ、眠るときはゲン君と絶対に一緒なの、その写真は大切なもの、それがなくっちゃ今の私は駄目なの、せめてこれだけは許して欲しいの、だからお願い、お願いします、お願いだからこのことは誰にも言わないで」
「分かりました」
僕はミナト先生と約束したが、結果的にそれを破ることになる。僕は悩んだ末にゲンにミナト先生の恋心を全て話した。ミナト先生に幸せになって欲しいと僕が思ったからだった。ゲンのタイプはセクシィな大人の女性だって僕は知っていた。僕とは全然タイプが違うんだ。可能性があると思ったのだ。ゲンは微妙な表情でぼんやりとなんの関心もなさそうに聞いていたが、次の日にゲンはミナト先生とキスをしていた。それからゲンは保健室を自分の居場所の一つにしている。言わば保健室は二人の愛の巣で、僕がここに歓迎されるのには愛の天使の役目を果たしたということに理由がある。
そんなこともあってか、どこか二人は僕の恋路について少し熱心なところがある。
「……要するにコテツは、」ゲンは人差し指立てて僕の眼前に押し付けるようにして言う。「その、ナユタ様っていう少女に恋をしたんだろう?」
「どうだろう?」僕は首を横に小さく振った。「分からないよ、正直、彼女に抱いている気持ちについてはまだ謎が多いんだ、恋にしては謎が多過ぎると思うんですよ、ミナト先生みたいに屈折はしていないと思いますけれど」
「え?」ミナト先生は吹き出すように笑った。「屈折の仕方は私の角度より鋭いでしょうに、でも、ええ、ある意味、真っ直ぐだとは思いますよ、ええ、とっても素敵、小説みたい」
「とにかく、それじゃあ、まずその謎を解き明かさなくてはいけないな、一つ一つ」ゲンは腕を組む。
「簡単に言うけど数学みたいにはいかないものだよ、これはそういう種類の話なんだと思う、雲を掴むような話、」僕は苦笑する。「……って使い方あってます?」
「それで、次に少女の面会式があるのはいつなんだ? 何はともあれ、彼女と再び遭遇しなくっちゃどうしようもないだろうが」
次のナユタ様の面会式は一年後の夏だった。