キャリコ・グレイス/六
「こんなところで何してるの?」
僕がしばらく反応しなかったせいだろう、ナユタ様はもう一度同じ質問をした。首を僅かに傾げて、まるで普通の少女のように、ナユタ様は僕に問いかけている。ナユタ様は、僕が空想したようにあらゆるものを吸い込んで溶かしてしまいそうなほどの透明感を放つ黒い眼をしていた。彼女は鉄塔の下のステージで賛美歌を歌ったままの姿だった。飾りの少ない白いドレスを纏い黒い布で頭をすっぽりと覆い隠し綺麗な額を露出していた。
僕は両手で目を擦った。
あまりにも唐突な登場は僕に、彼女は幻なんだと思わせた。ナユタ様のことを考え過ぎて、とうとう幻覚を見てしまったのだと。それがこの状況を説明するのに、もっとも相応しい答えだと思えた。
だってナユタ様は鉄塔の下にいるはずなんだぜ?
ナユタ様がこんなところにいるわけがないんだから。
「目がかゆいの?」
ナユタ様は僕にぐっと接近し、白いオウムと同じ目で僕の顔を不思議そうに覗き込んだ。ナユタ様の目に僕の可愛い顔が映っていた。僕よりも可愛い少女の目に僕が映っていた。よく分からなくなる。
背は僕の方が少し高い。でもほとんど一緒。
「もしかしてナユタ様、ですか?」目を擦る手を止めて僕は聞く。
「そうね、」ナユタ様は顔全体を躍動させてニッと微笑んだ。「皆、私のことをナユタって呼ぶ、だから私はナユタ様なんだと思うわよ」
「こんなところで何してるんですか?」
「それは私が先にした質問よ、君はこんなところで何しているの?」
「僕は、」僕は息を吐き、僕らを取り囲むコレクションを見回した。僕は緊張していた。ナユタ様の登場は紛れもない現実で、僕はどうやら現実にナユタ様と会話をしているようだとハッキリ認識し始めたからだ。声が毅然と出るか、心配だった。目の前の少女の前で僕は悠然としていたかった。「ここにあるコレクションを見ていたんですよ」
「面白い?」
「面白いというか、えっと、僕はこの白いオウムの絵が好きです」僕は振り返り視線をオウムに向けながら意識の全てをナユタ様に向けていた。
「私も好きよ、退屈なコレクションばかりだけど、この絵は好きな方ね」
「ナユタ様の眼とこの白いオウムの眼がよく似ていますね」
「私の眼とオウムの眼がよく似てるって?」
「はい、あ、えっと、もしかして怒りました? すいません」
「ううん、そんなこと考えるんだ、って思って、」ナユタ様は愉快そうに微笑んだ。「んふふっ、変なの、もしかして君、変な子?」
「変わっているとはよく言われますけど、でも僕は至って正常ですよ」
「あははっ、やっぱり変な子だ」
「ナユタ様だって、」僕は苦笑しながら彼女の笑顔を素敵だと思う。なかなか直視出来ないんだ。困るな。視線が定まらない。心が浮き足立ってくる。制御が難しい。「普通じゃないでしょうに」
「ねぇ、君の名前を教えてよ?」
「皆、僕のことをコテツって呼びますよ」
「コテツか、刀みたいな名前だね、可愛い」
「可愛くはないでしょうに、刀なんですから、」僕は照れた顔を彼女に見られないように足元を見た。「あ、それで、ナユタ様の方こそ、こんなところで何してるんです?」
「鬼ごっこよ」
「……は?」
「鬼から逃げてるの、だから鬼ごっこでしょ」
「えっと、鬼ごっこって?」
「鬼ごっこを知らないの? やっぱり変な子ね」
「そうじゃなくって、なんで鬼ごっこなんてしてるんです?」
「退屈過ぎて死にそうだからよ、」ナユタ様はそう言って、そして片目を閉じた。僕はそれがウインクなんだと遅れて気付く。彼女の速度に僕は遅れがちになる。「もしよかったら、コテツ、一緒に逃げない?」
「別に構いませんけれど、ちょうど僕も退屈過ぎて死にそうだったんですよ、えっと、それで、一体誰から逃げているんです?」
「エイダとロザリィとイサクからよ」
そのときだった。
「ナユタ様!」
怒鳴り声が響いた。
咄嗟に振り返れば、三人の女のシルエットが通路の先に見えた。
「やばっ」
言ってナユタ様は僕の手首をぎゅっと掴んで引っ張って走り出す。
彼女の体温は紛れもない現実だった。
「逃げるぞぉ!」弾けるナユタ様の声。
なぜか僕は走らなくちゃいけなくなった。
走るのは好きじゃないんだけどな。