キャリコ・グレイス/四
僕は決意をして会同が開かれているメインホールには戻らず立方体の施設の正面玄関を入ってすぐにある受付に向かった。僕は険しい顔を消して、韓国人のお姉さんから可愛いと褒められた純粋無垢な顔を、より一層子供っぽく装い、受付に立つ白い制服を纏った小太りのおばさんに近づいた。どこの街でもいるような本当に普通のおばさんが教団の白い制服を纏っているのは凄く違和感があった。
「すいません」と僕は正面玄関の外側に二人の屈強な警備員の姿を確認しながらおばさんに声をかけた。
「はい、どうしたの?」おばさんは僕が子供の顔をしているので全く警戒せず、それどころか優しい顔をこちらに向けていた。「あなた、一人? お父さんとお母さんは?」
「向こうでお話を聞いています、」僕は首だけメインホールの方に向けて、嘘を付く。子供が一人だけでここにいるというのは警戒される材料になってしまうだろうから。「僕、難しいお話を聞くのに疲れちゃって、出てきちゃいました」
「うふふ、」おばさんは笑って目尻に皺を作った。そして年寄りの三毛猫みたいにのっそりと体を動かしカウンタから身を乗り出すようにして僕の方に顔を近づけた。「そうよね、ちょっと難しくって退屈かもね、実は私もあの人たちがするお話、よく分からないのよ、あなた、小学生?」
僕は首を横に振る。「中学一年生です、あの、聞きたいことがあって」
「あら、聞きたいこと? なんでしょう?」
「さっき、塔の下で歌を歌った女の子のことです」
「ナユタ様のことね」
「ナユタ様っていうんですか?」僕はまだこのとき、彼女の名前も知らなかった。
「いいえ、本当の名前は私たちも知らなくて、便宜上ナユタ様と呼んでいるのよ、ナユタっていうのは無限大という意味ね、無限大の未来があるという意味で私たちは後継者様のことをナユタ様と呼んでいるの、素敵でしょう? 本当の名前はナユタ様ご自身と会主様しかご存知ないのよ」
「へぇ、そうなんですか、」僕は一度自分の足元を見てから聞く。「ナユタ様は普段はどこで暮らしているんですか?」
「鉄塔の下よ」
予想外の返答だった。僕はてっきり、この巨大な立方体の施設のどこかに彼女いると思っていたからだ。「え、塔の下、ですか?」
「そう、鉄塔の下に、ナユタ様の居住スペースがあって、そこにお住まいになっていて、基本的にそこから外へ出られることはないわ」
「ずっとそこに、塔の下にいるんですか?」
「ええ、そうよ」
「えっと、学校とかは?」
「外へ出られることはないのだから当然学校にもいかないのよ」
「でもナユタ様は僕と同じくらいの歳じゃありませんか?」
「そうね、ナユタ様の正確な年は私も知らないけれど、ナユタ様の存在が信者たちに公表されたのだって最近の話なのよ、そうね、だいたい、あなたと同じくらいだと思うわ」
「義務教育ってありますよね? 駄目なんじゃないんですか?」
「ナユタ様の傍には三人の守り人がいてお世話をしているのだけれど、彼女たちはナユタ様の教育係でもあって政府の教育カリキュラムはきちんとこなしているから問題はないのよ、」おばさんは早口で言って、そこでチャーミングに首を竦めた。「まあ、私も詳しいことは知らないけれど、そんなにナユタ様のことが気になる?」
「はい、」僕は気のない感じで頷く。「なんだか凄く不思議女の子だなって思ったし、歌も凄かったし、それに凄く、可愛いかったから」
「あら、正直ね、」おばさんはニッコリと笑いそして声を潜めて言った。「でも私はあなたの方が可愛いと思うわよ」
僕は照れた風におばさんに微笑み返す。「あの、次にナユタ様に会えるのはいつですか?」
「今のところ予定はないわね、早くても来年の夏を待たなくちゃいけないと思う」
「そうですか」僕は肩を落とし凄く残念だって気持ちを体で表現した。口の中で音を出さずに舌打ちをする。
「残念?」
「はい、とっても、出来ればお友達になりたかったな」
「お友達? うふふ、それはなんていうか、おこがましい考えだわね」
おばさんは笑顔のままぞっとするほど低い声で言って「あ、これあげるわ」と僕にミルク・キャンディをくれた。
「あ、ありがとうございます」僕はお辞儀をしてミルク・キャンディをポケットに突っ込んでおばさんがいる受付から早足で離れた。
背中から汗が吹き出していた。攻撃を受けてしまった。明らかに僕は油断していた。ここは教団の施設なのだと僕は再確認する。あらゆるものに宗教が絡んでいるのだ。安易な気持ちで触れてしまってはこちらが傷付く。一瞬でズタズタになる。僕は教団にとっての異物なのだ。僕が異物として、異物らしい行動をすれば、教団は僕を排出しようとするだろう。慎重にならなくてはいけない。
僕はトイレに避難した。個室が十個もある広くて綺麗なトイレだった。静かにクラシックが流れている。僕は用を足して顔をバシャバシャと洗う。Tシャツで顔を乱暴に拭いた。鏡に僕の切迫した可愛い顔が映る。濡れた指を髪に通す。
「……鉄塔の下か」と僕の喉は声を出していた。
どうやって鉄塔まで行く?
ロープウェイはもう封鎖されている。
ここから出て山を登るか?
あの濃い緑の中に飛び込み天辺を目指すか?
莫迦じゃないの。
僕にそんな高度なスキルはないでしょ。
装備もないじゃないの。
靴だって底に凹凸がほとんどないアディダスのスニーカーだ。
絶望はしていない。
ただ諦めなければいけないという状況が僕の心を強く締め上げていて苦しかった。
おこがましい。
その通りだと、僕も思う。