キャリコ・グレイス/二
ロープウェイで辿り着いた山の頂きは、そこだけが病気になってしまったかのように緑が丸く伐採されていて白い煉瓦で舗装されていた。炎天が直接ここに降り注ぎ、青い空が物凄く近いと感じる。ここに独りきりだけならとても開放的な気分を味わうことの出来る場所だが、今はこの明るい遊園は信者たちで溢れかえっていて人口密度が濃くって窮屈で、本当に息苦してならなかった。
遊園の奥に、僕がずっと見たいと思っていた教団の鉄塔が見えて僕は思わず「うわぁ」と小さく声を上げた。その鉄塔は僕が想像していたよりもずっと小さく、四階建てのビルくらいの大きさで、鉄塔よりも高い木々によって左右と背中を隠されていた。だからロープウェイからも鉄塔の姿を見ることは出来なかった。この緑に囲まれた遊園に降り立つことによって初めて見ることが出来るのだ。鉄塔の左右と背中で伸びる木々は鉄塔の頭の上で絡まり合っていて、つまり上空からもその存在を確認出来ないようになっている。僕は傍に行って間近で見上げてみたかったが、鉄塔の前にはすでに多くの信者たちが隙間なく整列していてそれは不可能だった。仕方がない。面会式が終わって信者たちが帰る時間になれば鉄塔を近くで見ることが出来るだろうと思い直して、僕は列の後ろの方で韓国人のお姉さんと一緒に面会式が始まるのを待った。
「不思議なものね、」太陽の強い日差しに目を細めて鉄塔を見つめていたお姉さんがポツリと言った。「変な形」
変な形。
お姉さんは蔑む気持ちで鉄塔に向かってそんなことを呟いたのではない。事実、異様な形をしているのだ。
鉄塔は、四本の白い鉄柱を中心に組み上げられていて、東京タワーやエッフェル塔のように地上から緩やかな曲線を描き鉄柱は天辺で交差している。異様なのはその中腹に見える土星の輪を思わせる真っ赤に色づけられたリングと、天辺に近い部分にある四枚のプロペラのような装飾だった。そのプロペラのような装飾は金色に輝いていた。僕はこれと同じようなデザインの建造物を知っていた。それはG県の錦景山にかつてあった発電施設で、その通称はスクリュウというものだった。スクリュウもこの明るい遊園の奥に立つ鉄塔と同じように天辺に四枚のプロペラ、まさにスクリュウを備えていた。確か、地球史を前進させるというコンセプトで、そういうデザインが採用されたと僕はスクリュウに関する何らかの記事で読んだことがあった。しかしスクリュウは稼働して間もなく爆発事故を起こし、運行中止を余儀なくされ今では錦景山のモニュメントと化していた。その事故というのが確か七年前くらいの出来事で、丁度この教団の施設の建造時期と重なる。スクリュウと鉄塔をデザインしたのは同じ人物なのかもしれない。とにかく鉄塔の姿は異様だ。教団の施設の中で、他にも目を惹く異様なものはあったが、鉄塔がぐっと際立ってそう思えた。そして不思議なことに、その鉄塔は心の奥底から込み上げて来る可笑しさに表情がニヤリとなってしまうくらい、周囲の自然と調和しているのだ。その不思議さは、この明るい遊園に来て鉄塔を見上げなければ感じることの出来ない妙な気持ちだ。そして信者たちは今、同じ気持ちを抱いて鉄塔の前に立たされている。宗教とは要するにこういうことなのかもしれない、と僕は思う。
とてつもなく明るいが、粘りつくような湿っぽさがある。
鉄塔の前や遊園と森の境、ロープウェイの昇降口の周りには白い制服を纏った警備員がいて無線で連絡を取り合っている。面会式の時刻が迫るに連れ、彼らは慌ただしく動き始めた。面会式の五分前になったところでロープウェイの最終の便が到着し昇降口から信者たちが吐き出されるように出てきて、昇降口はすぐに警備員たちによって封鎖された。すでに明るい遊園は未来の会主を約束された少女の面会式に相応しい静寂に包み込まれていた。話し声は一切なく、鳥のさえずりと遠くを流れる川のせせらぎだけが本当に小さく聞こえていた。この異様な雰囲気に僕は静かに興奮していた。もっと奇妙な気分を味合わせてくれ、と信者たちの中にあって僕だけ、抱く興奮の種類は違っているのだろう。果たして未来の会主を約束された少女とは、どんな人間なのだろうか? どんな姿形をしているのだろうか?
午後の一時になった。
その瞬間。
パッと照明が点灯し下から鉄塔を照らした。
太陽の光だけでも十分に明るかったのに鉄塔はさらに明るく照らし出された。
天辺のプロペラが動き出し、すぐにかろうじて目で追える速度で回転し始める。
同時に真ん中の土星のリングがゆっくりと上昇を始めた。それに連動して四本の鉄柱に囲まれた部分が高くせり上がり、そこに円形のステージが産まれた。
その上に、小さな少女が立っていた。
飾りのないシンプルな白いドレスを纏い、黒い布で髪をすっぽりと隠し、額を露わにしていた。
両耳には宇宙空間を漂う惑星、といった風な球体のイヤリング。
首には黒くて細いチョーカ。
そこには金色のベル。
彼女はレース生地の白い手袋で包まれた手を前で組み、目を瞑ったまま立っていた。
足元は長く伸びたドレスの裾に隠されて見えない。
僕と同い年くらいだろうか。遠くからではよく分からない。とにかく小さくて華奢だ。鼻筋は通っていて唇の形もいい。綺麗な少女だ。日本人ではないかもしれない。骨格の造形が僕にそう思わせた。
少女は一歩前に進み出る。
首元のベルが、凛と小さく鳴った。
そして。
目を瞑ったまま口を開き大きく息を吸って声を発した。
マイクも通していないのに、明るい遊園中に轟くように彼女の声は響いた。
その一声に背中が震えた。
心臓をぐっと動かされた気がした。
僕は彼女の声が素敵だと思う。
ああ、これは歌だ。
歌っているのだと、僕は遅れて気付いた。
讃美歌?
おそらくそのようなものだろう。伴奏はなくアカペラだ。日本語ではなくて英語。僕はこの英語の歌を聞いたことがなかった。それにしてもなんていう声量だろう。彼女の小さな体のどこにそんな声を出して響かせる機能が隠されているのか。
信者たちがすすり泣く声が耳に入り始めた。僕はそれが気になってノイズだと思う。涙を流すなんて自意識をコントロール出来ていない証拠だ。ノイズを鬱陶しいと思うくらい僕は、彼女の声に魅了され始めていた。
隣に立つ韓国人のお姉さんも泣いていた。彼女は黄緑色のハンカチを取り出し目元に当てて涙を吸わせていた。
そしてお姉さんは僕にその涙で少し濡れたハンカチを差し出す。
「?」意味が分からなかった。
そんな表情でお姉さんを見上げていると、彼女は僕の目元にハンカチを優しく押し当てた。
驚いた。
僕は少女の讃美歌に泣いていたんだ。