38 計算されたやり方
ヒーローがいるだなんて考えたこともない。それはマンガや小説の中の話であり、現実にそんなものはありえない。
人はみな、ヒーローの存在を望んでいる。神を信じるように。奇跡を欲するように。
しかしそうである限り、ヒーローは永遠に現れない。
誰もがヒーローを望んでいたら、誰もヒーローにはなれないのだ。そうして、ヒーローは存在しなくなる。
もちろんヒーローになりたいと思う人はいるだろう。
だけどそんな人はきっと少数で、その中で本物のヒーローになれる人はもっと少ない。
他人を助けたいという想いが偽善であり、ヒーローの名を借りた偽善者となってしまっては、意味がないのだ。
ヒーローは誰かを助けるからヒーローたり得る。
それができる人間など見たことがない。
お父さんも、お母さんも、おじいちゃんも、おばあちゃんも、親戚のおじさんおばさんも、学校の先生ですらヒーローにはなれなかった。
だから、ウチは諦めていた。
助けはないのだと諦めていた。
でも。
「テメェを、黙らせたいんだ」
彼は、立ってくれた。
ウチの前に、ヒーローのように、立ってくれた。
ずっと、ずっと待っていた。
ヒーローになってくれる誰かをずっと待ち望んでいた。
別にウチを助けるためでなくても良い。ヒーローの存在を、この目で見たかった。
それが今、ウチの目の前にいる。
少し頼りなさそうだけど。
鬱陶しそうな顔が場の雰囲気に合わないけれど。
それでも。
ヒーローになってくれたのが風見であるなら、それで良い。それが良かった。
「かざ、みぃ……」
嗚咽交じりに言葉が漏れる。
流れる涙は止まるどころか、増えたような気さえする。
そんなウチの声を聞いて、風見はこちらを一瞥した。
そして一瞬。ウチにだけわかるように頬を緩めると、再び早苗ちゃんを睨みつける。
「ぷっ、くく……。名前知ってるとか、流花、アンタこんな陰キャラと知り合いだったんだ。ウケるんだけど」
「いや、そいつのことは全然知らん。席が隣ってだけだ。名前を知ってんのもそれが理由だろ」
「アンタに言ってないんだけど」
「んなこと言ったら俺もアンタと話してる途中だったはずなんだが?」
互いの視線が交錯する。
両者の目には共に相手しか映っていなかった。
二人はしばらく無言で睨み合っていたが、ついに風見が口を開く。
「……友達同士でケンカすんのはまぁ理解できる。それに対して部外者の俺がどうこう言うのは筋違いかもしれんが、言わせてもらうぞ」
そこで風見は区切り、目を伏せた。おそらく、その先を言うべきか迷っているのだろう。
短い逡巡の後、意を決したようにその口が言葉を紡いだ。
「今のは、アンタが悪いんじゃねえのか」
そして再び教室は沈黙に包まれる。
風見は言ってくれた。
ウチがついに言葉にできなかったことを言ってくれた。
やりすぎだ。いじめだ。そういう言葉を使うことで、ウチは果たして誰が悪いのかを明確にしなかった。
言えなかったのだ。
早苗ちゃんへの恐怖。友達としての良心。里美ちゃんにも悪いところがあったのではなかろうかという疑念。理由は色々あるだろうが、きっとウチはこの事件を解決することができていたとしても、早苗ちゃんに「悪いのはお前だ」と言うことはできなかっただろう。
風見は、そんなウチとは違う。
きちんと誰が悪いのかを最初に告げる。
逡巡はする。躊躇はする。迷いもするだろう。
それでも、ヒーローは悪者を明確に定めるのだ。
しかし言われた早苗ちゃんは、キョトンと首を傾げて、
「なんで?」
と言った。
「……あ?」
「いや、だから、なんで? なんでアタシが悪いの?」
「いや、は? 本気で言ってんのか?」
「うん」
早苗ちゃんは、どうやら本当になぜ自分が悪いのかがわからないらしい。それもそうだろう。早苗ちゃんの言い分の中で一番上に存在するのはいつだって早苗ちゃんだけだ。
自分のことしか考えない人間に他人のことが考えられるわけがない。
だから一番偉い人間は何をしても悪くないのだと早苗ちゃんは本気で思っている。
「アンタまさか、そいつらが傷ついたってことに気づいてないのか?」
「いや、そーゆーわけじゃないから。里美とか流花が傷ついたのはわかるけど、なんでアタシが悪いのかわかんないっつってんの」
「いやいやいやいや、傷つけたのアンタじゃねえか」
「だから?」
風見は絶句していた。
おそらく程々にバカな女だとかそういう風に早苗ちゃんを見ていたのだろう。ここまで自己中心的だとは思っていなかったらしい。
風見は聞きたくないことを聞こうとするように深呼吸する。
「……じゃあアンタは、誰のせいでこうなったと思ってんだ?」
「そんなの」
風見の質問に対し、早苗ちゃんは考えるような動作は見せなかった。
「流花のせいに決まってんじゃん」
即答。
ここまでの流れを、その責任を、ウチに押し付ける形で。
「……だよな」
風見はもはや笑っていた。
その笑顔は乾いていた。
まるで、狂った人間でも見ているような笑顔だった。
息を吐き。
それを一瞬無表情に戻すと。
「やるならここでいいか」
ボソッと、誰も聞こえないような小さな声で言った。ウチは口の動きで判断できたが、他の人は言葉を発したことに気づきもしなかっただろう。
そして、風見は再び挑発するような獰猛な笑みを浮かべた。
「アンタ、頭おかしいな」
「……は?」
「他人の気持ちを踏みにじっておいて、罪悪感もないとか。はっきり言って狂ってる」
「なにそれ、ムカつくんですけど」
早苗ちゃんはこめかみのあたりに青筋を浮かべて怒りを露わにする。
これまでずっと余裕そうにしていて、一度も怒らなかった彼女が。
ここでついに怒った。
「アンタは他人を傷つけておいて、その原因を作ったのがそいつだから自分は悪くないって言ってんだぞ。頭おかしい以外の何者でもねえよ」
「はぁ? 何こいつ、ウザ」
「ウザイのはテメェだアホ」
風見は言うと一度止めて、
「そういやアンタ、責任がどうのとか話してたよな?」
「それが何?」
「いや、なに。簡単なことだよ」
風見は目を閉じて肩をすくめる。
そして肩を揺らしながら軽く笑うと、先ほどまで読んでいた本を手に持って揺らしながら言った。
「アンタにも、俺の快適な読書を邪魔した責任をとってもらわねえとなって思って」
その言葉で、早苗ちゃんの怒りは頂点に達したらしい。
早苗ちゃんは後ろでずっと様子を見ていたお調子者に命ずる。
「アイツ、ウザイからぶっ飛ばして」
お調子者は一瞬考えたが、彼も風見の態度に苛立ちを感じていたらしい。
「……わかった」
そう言って、お調子者は風見の胸ぐらを掴んだ。
「お? なんだよ、暴力か? 自分はやらねえで他人を使うとは良い身分だなあクソアマ。自分の思い通りになる学校生活は楽しいか。女王様みてえに窓側一番後ろの玉座に座る気分はどうなんだよ。ええ?」
「黙れ」
茶化すようにまくしたてる風見にお調子者は一言告げる。
同時、乾いた音が響いた。
風見が殴られた音だ。
風見は勢い良く飛ばされ、周囲の机を巻き込みながら倒れる。
「……ってえな」
「陰キャラが出しゃばってんじゃねえよ」
お調子者は言うと起き上がった風見を蹴飛ばした。再び吹っ飛ぶ風見を見て早苗ちゃんは手を叩いた。
「弱ぁー。ヒーローくんよっわぁー。ダサいわー」
「そういうアンタも超ダサいけどな女王様」
「うっせえんだよ陰キャラぁ!」
口の減らない風見にお調子者は激昂し、力を込めて殴り飛ばす。
先ほどはある程度加減してたのだろう。今の拳は音から違った。
「人を傷つけるとかなんとかの話をしながらテメェも早苗を傷つけてんだろうがよ! バッカじゃねーの、カス野郎! 死ねよクズがッ!」
お調子者は叫び散らし、倒れる風見を踏みつける。
しかし風見は一切抵抗しなかった。できなかったのではなく、していないのだ。
そこでやっと。
そこまで見てやっと。
ウチは、風見が何をしたかったのかに気づいた。
ウチが早苗ちゃんに立ち向かうことで里美ちゃんは孤立してしまう。
それでは、状況は何も変わらないどころか悪化する。
そこで風見がさらに早苗ちゃんに立ち向かい、ウチを孤立させる。
そうすれば孤立したウチと里美ちゃんは友達になることができる。ウチと里美ちゃんは一人ではなくなるのだ。
つまり風見は、自らを犠牲に早苗ちゃんのグループからウチと里美ちゃんだけを切り離したのだ。
さらにここで相手に過剰なほどに暴力をふるわせてしまえばきっと先生や誰かが止める。一度そうやって誰かに止められてしまえば、それ以降いじめられる可能性もぐっと少なくなる。
これで、解決。
ウチの何も考えていないものとは違う、計算されたやり方。
「かざみぃ……」
でもそれでは。
風見のそのやり方では。
風見自身が、救われない。
「もうやめてよ! お願いだから!」
ヒーローは自分を助けない。
自分を助けない代わりに、他人を助けるのだから。
そんなにも酷い、歪んだ存在を。
ウチは、望んでいたのか。
「やめてよ! じゃないと、風見が……死んじゃう……」
ウチの声は聞き取りにくい涙声で、さらに合間に挟む嗚咽でさぞ滑稽に映ったことだろう。
でも、それでも。
風見がこれ以上傷ついてしまうのを、見ていたくなかった。
そこに。
「やりすぎだ。止めろ」
高月くんが、割り込んだ。
高月くんはお調子者の襟を掴み風見から引き離すと、投げるように突き飛ばした。
全てが風見の計算通りだった。計算通りに、なってしまった。
「んだよ快斗! こいつはッ!」
「やりすぎだって言ってるんだ!」
興奮状態にあるお調子者にそう怒鳴ると、お調子者は舌打ちし「クソが」と言い残して教室を出て行った。
それを見届けることなく、高月くんは倒れる風見の元へ行く。
「君とは、初めて話すな。風見くん」
「っせえ、やるなら最初から助けてくれよ馬鹿野郎」
余程痛かったのだろう。風見は血まみれの顔を拭いながら、高月くんを睨む。
その風見の言い方に高月くんは苦笑する。
「君はすごいな。僕はこんなことできないよ」
「だろうな。俺も二度とやりたくねえ」
「はは、君は同じ状況になったらまた同じようにやりそうだけどな」
「初対面で分かったようなことを言ってんじゃねえ!」
高月くんとの会話を聞く限り、風見は元気そうだ。
じゃあ、ウチは仕上げだ。
ここまで全部風見がやってくれたのだ。最後くらいウチがやるべきだろう。
ケリをつける。
ウチは早苗ちゃんに向き直った。
「まだ一週間しか経ってないのにこういうこと言うの、自分でも酷いと思うけど」
告げる。
「早苗ちゃん。悪いけど、今日で絶交させてもらうね」
ウチの言葉に早苗ちゃんは舌打ちし、自席に戻ってスマホをいじりだした。
ウチはそれまで早苗ちゃんが陣取っていた里美ちゃんの席に里美ちゃんを座らせると、その前の席を借り、里美ちゃんと会話を始める。それを合図に、パラパラとクラス内でも会話が再開された。
クラスの雰囲気は元に戻り、先ほどまであったことは忘れ去られる。
そうしてこの事件は幕を閉じた。




