02 始まった地獄
平和で平穏で平常だった日々が粉々に砕け散った日。
七月二十五日、俺、風見晴人は技術室に無事到着した。
ゾンビ化したおじいさんの死をもって、だ。
俺は初めて人を殺した。
いや、正確には既に死んでいた人間か。
どちらにせよ、動いていたものを殺したというのは事実だ。
「まぁ、仕方ない……よな」
平和になったときこれが罪として扱われるのかはわからないが、今はそんなことを考えている場合ではない。
おじいさんに刺さったほうきは、抜けなかった。
それだけ深く刺さっていたからだ。
元々技術室で武器を作るつもりだったから別に構わないが。
技術室に入ると、まずは角材を持ってきて、引き戸に鍵をかける。
それから、机を移動させて、引き戸の前に並べる。これで戸は簡単には開かないだろう。
続いて、まずは武器にできそうなものを技術室から探す。
集まったのは、バールや金づちのような工具だった。
ただ、リュックに入れると重くて満足に動けないことがわかったので、見つけたものの中で一番使いやすそうなバールだけをリュックにしまう。
それから、アルミ製の一メートル定規を八十センチほどに折って、電動ヤスリなどの機械を適当に使って刀のように加工する。これを俺のメイン武器にするつもりだ。
柄の部分はガムテープでぐるぐる巻きにして完成。見栄えが悪いので黒いマジックペンで刀身のメモリを繋いで黒い刀にする。切れ味が落ちないように刃には黒をつけない。
「うーん、でもこれだと軽すぎてゾンビを殺せないなぁ」
黒刀アルメートラー(今命名)はゾンビと戦うにはあまりにも軽い。
天使の羽のようだとか比喩できるレベル。背筋がピーンってなっちゃうぜ。
「トドメにはこのバールを使うか?」
俺はリュックからバールを取り出して言う。バールほどであれば、刀を使って地面に倒したゾンビの頭を殴れば、即死させられるだろう。
「問題は、どう持ち運ぶかだが……。制服を改造するか」
制服のズボンの後ろ、腰のあたりにバールを通す筒のような形に布を取り付ける。たまたま裁縫セットが技術室にあって助かった。裁縫の知識なんかないから、縫い方超適当だけど。
腰にバールを固定したところで、ドアが音を立て始めた。
ゾンビが来たのだ。
色々な機械を使って作業をしたし、その時にかなり音が鳴っていたから、まぁ当然だろう。
「さぁて、まずはゾンビとの戦いに慣れますか」
俺は格闘技やスポーツのような運動経験が極端なほどにない。身体能力が普通の人より高いだけだ。
つまり戦いに関しては完全に初心者だ。『経験』、『慣れ』、といったものを何一つとして持ってない俺が考えなしにここから出るのはまずい。
「最初は一体ずつこの部屋に入れてぶっ殺す。安全地帯がずっと安全なんて保証はねぇんだ。早めに使い尽くす」
俺にはもう殺しについて迷いがなかった。
新しい武器を手に入れたからだろうか。武器を試したくてしょうがない。きっと、俺は今ワクワクしているのだ。
こんな状況で何をと思うかもしれないが、こんな状況だからこそ楽しむのだ。
楽しんで、楽しんで、楽しみ尽くす。
「お前らは、俺の練習台だ。死ぬまで付き合ってもらうぜ」
黒刀アルメートラーをそれっぽく構え、俺はゾンビ達のそれに近い獰猛な笑みを浮かべた。
※※※
不審者が校内に浸入したとの放送が体育館に流れたのは、校長先生の話が、終わる少し前ほどだった。
この高校の生徒会の生徒会長を除いたメンバーは、部活動のように自由に所属することができる。
一年生ながら生徒会に所属している私、御影奈央は、焦っていた。
セミロングに切られた明るめの茶髪は地毛で、そのせいか身長が低くてもある程度目立つ。不本意だが。
せっかく静かに話を聞いていた生徒達が、放送のせいでざわめきだしたのだ。それ時点を責めるつもりはない。むしろ当たり前だと思う。
しかし、こちらの話を聞いてくれない状況というのは困る。
この高校の生徒会は、非常時に教師と同等の権限が与えられることになっている。
だからといってさすがに私的な目的で校舎に戻るといった統率を乱す行動がとれるわけではないが、避難の指示を列の外から伝えるくらいの権限はあった。
それでも、聞いてもらえないのだ。
目の前で、あちらに避難してくださいと言ったところで、その場から動いてもらえない。
そのせいで、不審者と思われる人間は、体育館に来てしまった。
「なんだお前はァッ!!」
すぐさま体育教師の平間先生が怒鳴る。
不審者は平間先生を全く相手にしない。
これは面白い話題を得たとでも思ったのか、相変わらず生徒達は呑気にざわめいているだけだった。
しかし。
「おい! 聞いてるのかお前!!」
返事がないことに腹を立てた平間先生が、不審者の肩を乱暴に掴む。
そして平間先生が怒鳴りながらその肩をゆすっていると、しばらくして断続的に咀嚼音のような音が体育館に響いた。
生徒達のざわめきも、聞きなれない音によって中断される。
「……あ?」
生徒達の会話もなくなって、聞きなれない音に支配された体育館に野太い声が響く。
私の位置からは平間先生で不審者が隠れてしまい、不審者が何らかの行動をとったということしかわからない。
そして生徒達が平間先生と不審者に釘付けになっていると、鈍い音が耳に入った。
ゴリッ、と。
堅い何かの折れるような音がして。
ブチブチッ、と。
何かが千切れるような音が聞こえた。
その時に、チラッと不審者の姿が見える。
不審者は、何かを咥えているように見えた。
私は、気づいた。
気づいて、しまった。
不審者が咥えているのが人の腕なのだと。
平間先生の腕が不審者に喰われたのだと。
誰もが話を止める。
当然だ。
誰も声を出せない。
当然だ。
誰もその場を動けない。
当然だ。
なぜなら、今の行動で目の前の不審者が私たちの同じ人間でないことに、気づいたから。
「ひっ……ギィァァァアアアアアアアアアアッッ!!」
平間先生が甲高い声を上げて倒れた。
肩から先が無くなった腕からは、大量の血液が出ている。
誰もが直感的に判断した。
平間先生は、自分たちは、これからこいつに殺されると。
「ああッ!? 喰われるッ、喰われるぅぅぅぅッッ!!」
不審者は、平間先生の腕だけでは足りないのか、平間先生の身体をボリボリと貪り始めた。
それを見て、既に生徒の何人かは吐いている。
私も、吐き気がしてきた。
平間先生の硬い筋肉も、骨も、内蔵も、関係なしに貪り尽くすその姿があまりにも現実離れしていて。
それでも、現実としか思えないほどリアルな光景が、おぞましかった。
すると、不審者は平間先生を喰べるのを止め、立ち上がった。
平間先生を喰べることに飽きたのかも思った。
しかし、理由はもっと単純だった。
あまりその手のゲームはやらない私ですら知ってる常識のような知識。
『ゾンビが人を喰べると、喰べられた人もゾンビになる』
平間先生は、立ち上がった。
ところどころ欠けた、その身体で。
目の焦点は合っておらず、歩く度にお腹にあいた穴から内蔵が一つ、一つと落ちていく。
それは。
それはまるで。
「ゾンビだ……」
静寂となっていた体育館のそれを破ったのは、誰なのだろうか。
誰かが、叫んだ。
「ゾンビだぁぁぁあああああああああああああああああッ!!」
その言葉を聞いて、集団はパニックに陥った。
私は生徒会としての責任感が心の片隅にあったおかげで、何とか落ち着いていられているが、私のように落ち着いている人は何人いるのだろうか。
「死にたくないっ、死にたくないぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっ!!」
「嫌だぁぁぁああああああああああああああああ!!」
「怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いッッ!!」
体育館は、一瞬で地獄絵図と化した。
私は何とか体育館を抜け出し、校舎に逃げ込もうとしていた。
私の後ろには、やはり何人か生徒がついてきている。
生徒会の腕章をつけているからだろう。こんなときだけ信用されてもなぁ……。
校舎の中には食堂がある。
そこを何とかして安全地帯にできれば、水も食料もあり、数日は凌げるはずだ。
そして数日凌げば、きっと助けがくる。自衛隊や、警察の人たちが、きっと助けてくれるはずだ。
後ろをついてくる生徒たちも、私がどこへ行こうとしているのかに気づいたようで、男子生徒なんかは私を抜かしていってしまう。
それが、私の策が失策であったことを気づかせた。
カチャ、と。
乾いた音が、私が食堂の前に辿りついた瞬間聞こえた。
「えっ?」
何が起こったのかわからず、食堂のガラスのドアからカギを閉めた男子生徒の顔を呆然と見た。
男子生徒は、笑っていた。きっと、安全地帯を見つけた安堵からの笑みだ。
「ち、ちょっと!? 何カギ閉めてんのよ!! 開けてよ!!」
私の後ろにいた生徒たちが口々に喚き出すが、食堂の中の男子生徒たちは机を移動してドアが開かないように完全に閉じる。
「生徒会です! 開けてください!!」
私もさすがに落ち着いていられなくなった。
ゾンビは凄まじいスピードで増えていっている。こちらに来てしまうのも時間の問題だ。
しかし、
「生徒会だぁ? 役立たずが今更何ほざいてんだっての。せっかく安全地帯を作ったってのに、開けるわけねぇだろ」
男子生徒たちは、信じられないほどに利己的で、自己中心的で、自分勝手だった。
しかし、心のどこかで仕方ないことなのかな、と思ってしまう私もいた。
私は考える。
他に、打つ手はないのか。
どこかに、逃げ場はないのか。
校庭。
ダメだ。今、そちらに逃げていった生徒たちが次々にゾンビへと姿を変えているところなのだ。そんなところに足を踏み入れてしまったら、きっと生きて帰れない。
校舎。
ダメだ。各教室にもカギはあるが、やはりどうしてもドア自体が脆く、突破されてしまう可能性が高い。
プール。
ダメだ。更衣室のドアだって破られるだろうし、そもそもカギのかかる場所など、もうほとんど取られてしまったはずだ。
体育館。
ダメだ。ゾンビが始めに姿を見せたところなのだ。そんなところにいってしまったら……あれ?
そこで、私は一つの可能性を手に入れる。
「体育倉庫」
その可能性に、絶望だった生徒の表情も少しだけ明るくなった。
「危険だけど、体育倉庫のドアは教室なんかよりずっと硬いからきっと大丈夫」
その言葉を聞いて、生徒たちが走り出した。
私も生徒たちの後に続く。
来た道を戻る形になる。
先ほどまで私が先頭だったために、私が最後尾になるという少しだけ不本意な列だった。
私は小、中学校とともに学級委員や生徒会を務めてきて、自分のカリスマにはそれなりに自信があった。
だから先頭に立って列を統率すべきだと言おうとして、もう遅いことに気づいた。
列の先頭。
ポニーテールの少女が、元は普通の男子生徒だったものに、ゾンビに変わった人間に、喰われた。
それも頭の半分ほどを。
ポニーテールの少女はゾンビとぶつかった衝撃で、くるくると回転しながら空中を舞った。
そのとき、半分しかない顔の、目が、私と合った。
悲痛に歪んだ表情の少女に、遺言の一つも言えなかった少女に。
許さない。
そう、言われた気がして。
「……ぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
喉が張り裂けるほどに、叫んだ。
私が何をしたと言うのだ。
私は何も悪くない。
むしろ、私は頑張った。
賞賛されてもいいはずだ。
それなのに、なんでこんな目に遭わなければならないのだ。
校庭にいたゾンビは、ぞろぞろとこちらへ集まってくる。
完全に、詰んだ。
終わった。
私は、ここにいる生徒は、みんなここで死ぬ。
いや、死んでも蘇るのだ。
ゾンビとして。
殺されたら殺すことしかできなくなる。
天国やら何やらといった場所に行くことも許されず、ただ、殺すことしかできない。
そんなの、嫌だ。
私は、前にいるゾンビたちを睨みつけた。
まだだ。
まだ終われない。
「こんなところで、終わらない!」
私は、震える身体を動かして、それでも叫んだ。
目標は体育倉庫。
そこまで行けばいい。
ルートは、絶対にゾンビと合わないことが条件。
「攻略法、案外楽勝にみつかるのね」
私は、御影奈央は、走り出した。