110 泥中の蓮
自衛隊が中心となって組織されている第三部隊『チェイサー』は、現在東京に壊滅的被害をもたらした亀を追っていた。亀とは先日の騒乱において突如現れ、その口から放った絶大な威力の光線で東京の街を吹き飛ばした存在である。
本来壁外の任務は第二部隊『ハンター』の管轄だ。だが今回は、その山のようなスケールからパワードスーツを駆って戦う第三部隊に調査任務及び討伐指令が下された。
「にしても、壁はよくあの光線で壊れませんでしたね」
「俺もよくは知らんが、どうやら壁にも何らかの能力が付加されているらしい」
永井雅樹の素朴な疑問に隊員の益川敦己はそう答える。おそらくはそれだけの重要機密なのだろう。
二人は現在、山梨との県境付近を訪れていた。これは亀の目撃された方向から推測されている。
上層部の見解としては、亀は現在山に擬態しているとのことだった。確かにあれほどの巨体がすぐに消息を断つ術などそれ以外に考えられない。
今回の遠征では亀の調査及び、山梨県付近の状況を調べることもあった。
生存者の集まりとのやりとりも少しずつ増えてきた中で、最近では都市部の様子がわかるようになってきた。多くの都市近郊は人が多い影響か壊滅的な被害を受けたようだ。
しかし地方の山岳部などはどのような影響を受けているのか計り知れない。亀のようなゾンビに進化しうる環境が自然にあるのであれば、それ以上に脅威となるゾンビが現れていたとしてもおかしくはない。
だから調査の第一歩として山梨県が選ばれた。日本を象徴する富士山をもつこの場所こそ、調査には最適だったのだ。
「今のところは普通のゾンビしか見かけないっすね」
「そうだな、都市近郊と比べればここはのどかな環境だ。そもそも進化のために必要なエニグマを取り込めないのだろう」
永井の疑問を益川はそう推測した。
確かに田舎は都会と違って人が少ない。それに、この騒動の発端は終業式の行われる時間帯――つまりは午前中だ。
ただでさえ人のいないところにさらに人がいなくなっていたならば、通常のゾンビしかうろついていないのも頷ける。
「やっぱ壁って、ゾンビについての研究は進んでるんすね」
「俺も役職を持ってるわけでないからあまり知らされてはいないがな」
言いながらも、益川は周囲の警戒を怠らない。永井はその振る舞いから、益川はおそらくは自衛隊員だったのだろうと推測した。
「エニグマって、なんなんでしょうね」
「……人類に足りないものだと、俺は思う」
人類に足りないもの。知能を持ち、感情を持ち、文明を持つ人類に足りないもの。それはなんだろうか。
「人類に、と言ったのは俺たちの場合においての話だ。動物もゾンビ化することを考えればすべての存在にとって――その欠けた部分を埋めるもの、だと俺は思う」
「欠けた、部分を……」
「例えば人間は、一人一人は脆い生き物だろう? だが今はそれが、個人で戦争をするようになっている」
益川が言うのは先日の『屍の牙』戦だろう。確かに篠崎響也の能力は驚異的であった。たったひとりで壁の目前まで進軍し、多くの戦闘員を倒した。
「エニグマを、欠けた部分を埋める何かを集めることによって、俺たちはより完璧な存在へと近づくことができる――俺は、そんな風に思えてならないんだ」
「じゃあ、益川さんはこの事態を悪いようには捉えてないんですかね?」
冗談のつもりで訊ねる。益川は一瞬驚いたような顔をして、フッと笑った。
「まさか。最悪の事態だろう、コレは」
「……ですよね」
最悪の事態。まさしくその通りだ。これが良いことであるはずがない。
多くの死者が出た。永井の友達もその多くが命を落とした。涙を流す暇もなくて、自分はおそらくどこか現実として捉えきれていないところもあるのだと思う。
だから自分の心は、自分たちの心はすでにどこか壊れてしまっているのかもしれない。
何か大切なものを欠いてしまったのかもしれない。
永井は、エニグマに――少しだけ希望を感じてしまった。
それが正しいことであるはずがないのに。多くの犠牲者の上で成り立つものに正当性があるはずないのに。
今の益川の言い方。全く希望を抱いていない人間はあそこまで語れないだろう。おそらくはこの人も、同じなのだ。
人類の進化。文明の超越。神への到達。
エニグマが齎すものは、もしかすれば神話の世界の産物に値しうる。
(――これ以上は、やめておこう)
考えるな。こんな考えはゾンビとなってしまった人や、死んでしまった人たちに申し訳が立たない。
今は、とにかくひとりでも多く生きるために全力を注ぐべきなのだ。
そういう言い訳をして、永井は内から湧き上がる雑音のような思考に蓋をするのだった。
※※※
田舎町を超え、山に差し掛かった。
慎重に登山を進める。この辺りはおそらく亀が踏み荒らしたのだろう、道らしい道はなく、仕方なく足場の悪いところを進んでいくしかなかった。
「崖は避けるが、気をつけるんだぞ。逸れることだけは何としても回避したい」
「わかりました」
言いながら、永井はゴーグルのスイッチを入れる。ここまでは予測される危険性の低さから温存していたが、山に入った今からは人工知能を解放すべきなのだった。
『ハイ! 貴方だけの理想の妹、マイだよ!』
「マイ、周囲の索敵を頼む」
『了解ですお兄ちゃんっ』
この人工知能のテンションにも慣れた。突っ込まないことが大切なのだ。
幸いにも現在永井たちは大型のパワードスーツほどではないが、着ているパワードスーツのお陰で多少道が悪いくらいであれば何ということはない。
だから強力なエニグマ反応を探知すれば安全なルートから慎重に近づき、遠くから情報収集を行うことができるのだ。
しかし。
『んー、おかしいなぁ』
「どうしたんだ?」
『なんかね、何の反応もないの!』
「何の反応もない?」
そんなまさかと思った。
永井の言葉に先行していた益川も足を止め、こちらを振り返る。
「そんなバカな、こういうところこそ動物系のゾンビがどんな進化をしてるかわかんないって話だったじゃないか」
『そうは言っても、ないものはないもん……』
「亀の反応すら探知できないのか。一体、どうなってるんだ?」
この人工知能は壁が誇る頭脳、五木が作り上げた叡智の結晶だ。まさかその性能に文句があるはずもない。
であれば、この現象にはなんらかの原因があるはずだ。調査任務のある永井たちは、これを調べることが先決だと判断した。
そうしてジリジリと足を進めるが、ゾンビはおろか生き物すら見かけない。普通であれば鳥の鳴き声などが聴こえてくるはずの山中で、自分たちが地面を踏みしめる音以外の一切の音が聞こえないというのは明らかに異常だった。
「考える可能性は二つだ」
益川は振り返らずに自身の推論を述べる。
「自我のないゾンビは、環境に影響を受けて進化することが多い。例えば俺が競技場で見かけたゾンビの多くは、スポーツマン然とした見た目をしていて全体的に身体能力が高かった」
永井にもその話を裏付ける経験はある。学校で逃げ回っていた頃、技術室から現れたゾンビはチェーンソーを身につけていた。風見晴人によれば体育館にいたゾンビはみな、素早かったと聞いている。
「その話から考えれば、このような大自然において生き物が進化するとすれば……擬態ではないかと思う」
「つまり、人工知能の探知にも引っかからない特殊な擬態を使えるゾンビへと進化していると……?」
「という推論がひとつだ」
益川はそこで人差し指を立てる。永井はその説明に大きな説得力を感じた。確かにその可能性はあり得る。
ゾンビの性質が未解明な以上、そのようなことも起こり得るのではないかと思うのだ。
だが益川は続けて中指を立て、もうひとつの仮説を強く推すように恐る恐る切り出した。
「もうひとつはもっと単純だ。亀がここいらのゾンビをすべて食らってしまったから、という可能性」
「……え?」
永井は眉をひそめた。それはひとつ目に比べれば説得力に欠ける。第一その亀の反応がないではないか。
いや、と永井は思った。
亀は現在どうしていると考えられていた。
「亀は現在、山に擬態していると……推測されている」
「その通りだ」
「まさか……」
亀がこの辺りのゾンビをすべてくらい、人工知能の探知すら掻い潜る擬態を習得していたのだとしたら。
その亀は、今――。
「永井、何かに掴まれ!」
「え!?」
慌てて近くの木に捕まる。反射的に掴んだ影響で少し力が入り過ぎてしまい、幹に指が食い込んでしまった。
その瞬間、地震が起こった。ありえない大きさの地震だ。縦にシェイクされたように揺れ動き、捕まっていなければ振り落とされていただろう。
(――振り落とされていた?)
自分が何を考えているのか、益川がどういう推測をしていたのか、すべてわかった。
幹に食い込んでいた指のうち、左手を外してみた。すると幹からは、血液のように赤い液体が流れ出てきた。
どうやら自分たちは気づかない間に、目的のゾンビと出会っていたのだ。
「この山が、亀」
永井たちは山に擬態している可能性があるというのに無警戒すぎた。そのあまりにもな大きさに想像力が追いつかなかったのだ。
このゾンビは文字通り、スケールが違った。
永井は揺れる視界の中で、ただ生きて帰れることを願うのだった。
お久しぶりです。青海原です。
更新頻度が亀より遅い本作をまたお読みくださりありがとうございます。
世間では新型コロナウィルス感染症が騒がれている中、ゾンビものの本作を更新していく不謹慎作者でございます。
外出自粛のお供になるほどの更新頻度ではありませんが、是非とも次話をお待ち頂ければと思います。
読者の皆様はお身体に気をつけて、泥中の蓮のように力強く心を持って下さい。




