106 Archangel
『大天使』は御影奈央個人を指す。
それは本人から書き置きを通して聞いていたことであったが、実際に研究者たちもそのように認識していることがわかるとまた変わってくる。
おそらく秋瀬は心のどこかで漠然と、何かの間違いなのだと思っていたのだ。
「――でも、そもそも『大天使』とか『天使』とかって……なんなのよ」
左側の髪を耳にかけ、資料を持ち直す。秋瀬はその異質な存在の解説を探した。
「あった。これね」
天使とは神の使いのことである。また『ミカゲ』と呼ばれる彼らの存在も神の使いだと考えられている。よって彼らは『天使』と呼称される。
神という存在の定義がこの世界を創り出した者と仮定するならば、彼らはその存在の意志によって意図的にどこかから召喚された。
「……これはまた、ぶっ飛んだ資料ね」
まるで物語の設定資料である。到底現実のものとは思えない。と言っても、ゾンビなどという非現実が現実となった今では、何もかもが今更ではあるが。
「じゃあそれは、ヒトと何が違うのかしら」
天使とヒトとの違い。読み進めていくと、それは所有するエニグマ量の圧倒的差と器の許容量にあると推測されていた。
天使たちはヒトであれば耐えきれず自我を失うほどのエニグマ量を保有し、それに耐えることのできる身体を持っているのだという。
「そういえば、エニグマ量と器の強さの話はどうなってたっけ?」
機密資料を開きつつ、空いた手で再び先ほど仕分けた資料を漁る。分別の成果もあって、目的の資料はすぐに出てきた。
ゾンビ化騒動の際、始めにゾンビ化したのは老人や赤ん坊などの身体の弱い人間たちだった。これは七月二十五日に全人類のエニグマ量が上昇した時、それに耐えられなかったからである。
そして上昇に耐えうる器を持つ人々もゾンビたちに噛み付かれることでエニグマ量に変動が生じ、身体が耐えきれずゾンビ化するのだ。
「圧倒的なエニグマ量を保有していて、かつゾンビに変異しない存在……それが『ミカゲ』ってわけね」
秋瀬の中で天使の存在を解釈し、再び機密資料を読み進めていく。
ヒトと彼らの違いは分かった。では彼らの目的とは何なのか。何の理由があって、何をしようとしているのか。
それについての資料は、推測の域を出ないと前置きされた上で綴られていた。
「次代の『神』を、選定するため……?」
秋瀬は頭がクラっとするのを感じた。軽い目眩のようなものだ。
何を言っているのか。いや、資料は語らない。言うというのは不適切か。
何が、書かれているというのか。こんな理解のできない推論を、壁の研究部門は機密資料にしているのか。そんなわけがないと、秋瀬は強く思った。
「あまりにも、ぶっ飛びすぎているわ」
意味がわからない。そのために、人類はみなこんな騒動に巻き込まれたというのだろうか。
それでは死んでいった者たちが報われなさすぎるではないか。
決して少なくない数の死者が出た。そして未だ人類は、死者たちを弔えずにいる。
それなのに、死の理由がこんなにも不明瞭では彼らが報われない。
「ちゃんと、研究してほしいわね……」
そんなわけがない。彼らの死にも、何か意味はあるはずだ。『神』とやらが本当にいるならば、こんなことをするわけがない。
それともこれすらも、『試練』とやらだと言うのか。
「『ミカゲ』はそれぞれ、世界を構成する要素を司る……?」
研究部門はどこまで明らかにしているのか、そんな見出しの資料を見つけた。これでは敵勢力の情報は丸裸ではないのか。
だったらなぜ、篠崎響也程度にあれほどの苦戦を強いられたのか。いや、本当は苦戦したわけではない? 何か目論見があって、敢えて最小限の部隊数で相手をした?
「やっぱり、『壁』には何か目的があるのかしら」
不信感が募る。そういえば、高月快斗も壁に対して良い感情を持っていなかったと思う。
状況次第では彼との相談も必要になるだろう。上の人間に聞かれないように細心の注意を払わなければ。
まず本来は、秋瀬の知って良い情報でないということを念頭に置かなければならない。三原からの信頼があったからこそ、この書類整理を任されているのだ。形だけとはいえ上官を裏切ることはできない。
「誰にも聞かれないようにして情報を伝えないと……」
永井雅樹にも後々相談が必要になってくる。しかし彼は高月と比べると少しだけ勢い任せなところがある。付き合っている相手とはいえ、先に話をすべきは高月の方だ。
再び資料整理に戻る。秋瀬は知りすぎた。不必要な知識を頭に入れすぎてしまった。
そしてこれ以上は、頭がおかしくなりそうだった。秋瀬が今知った情報はあまりにも現実離れしており、誰に言っても理解は得られないだろう。
だからこそ自分の中で整理する時間が必要だった。
資料を分別しながら、自分の頭の中も整理する。少しでも落ち着くように促す。この世界は物語ではない。現実なのだと言い聞かせる。
そして何気なく手に取った資料。
「――え」
その機密資料のタイトルは、さすがに見過ごせなかった。
記されているのは、ひと言。
「御影奈央について」
『ミカゲ』『天使』そんなワードは先ほどまでも出てきたし、前提として大天使が御影奈央を指すこともわかっていた。
しかしその機密資料はとにかく異常だった。
「まず、いつあの子を研究したのよ!?」
御影は壁に来て三日ほどで出て行った。壁の研究員たちが彼女を調べる時間などなかったはずだが。
「――まさか」
壁に入って一番初め。金属探知機のようなゲートを通ったことがある。何の機械なのか知らされないまま通り、御影だけはゲートに弾かれた。
もしかするとあの時に、何かの検査がなされていたというのだろうか。
あの時狩野将門はエニグマ探知機の誤作動だと言った。それは御影奈央が『大天使』である以上あり得ない。全くの嘘である。
もしも秋瀬の想像通りだったとしたら、あの機械は彼女の何を暴いたのか。
中を開き、秋瀬は自身の目を疑った。
「御影奈央は、『――』を司る」
何かの冗談だと言って欲しかった。
そうでなければ、あまりにも自分たちが報われない。それが真実であるとしたら、あまりにも残酷だった。
だとしたら何のために高坂流花は死に、何のために風見晴人はヒーローになったというのか。
秋瀬は口の中が乾くのを感じながら、蒼白になった自身の顔を両手で覆った。
何よりも秋瀬を悩ませたのは、その真実が否定できないところだった。彼女がそれを司るとすれば、確かにここまでのすべてにおいて辻褄が合う。
だからこそ、秋瀬は自分の感情の整理がつかないのだ。
「今私が苦悩するのは、あの子の力なのか……それとも……」
もう何も信用できなかった。
秋瀬は足元が崩れるような錯覚を覚えた。先ほどよりも強い目眩。吐き気を催すような感覚に襲われた。
そうして資料から意識が離れていたおかげだろう。かすかに、ヒールが地面を叩く音が聞こえた。
ハッとなり、迅速に機密資料を隠す。さも分別を終えましたという風に整えた。
間も無くして資料室のドアがノックされる。「どうぞ」と答えると、入って来たのはやはり三原だった。
「進捗はどうかしら……って、大体終わってそうね」
「え、ええ……」
まずい。上手く繕えない。
機密資料は片付けた。だから後は表情さえ繕えば機密資料の閲覧は彼女にバレない。はずなのに。
「……? どうかしたの?」
「い、いえ! 昼食に当たったのか、どうも体調が優れなくて……」
我ながら白々しい嘘である。三原の目もすうっと細くなった。
「そう、急な仕事を押し付けてごめんなさいね」
「大丈夫です! もう終わるので、片付け次第休憩を考えています」
「それが良いわ。なるべく貴女には倒れて欲しくないもの」
その言葉は体調不良に対して告げられたのか。はたまた、機密資料の閲覧について釘を刺されたのか。秋瀬にはわからない。




