補遺2:薔薇十字の瞑想法と、基本的な五つの行について
詩人が詩を書くという作業は、幻視や霊視で完結するわけではありません。それによって得たヴィジョンを、今度は「言葉」を使って「形式」に当てはめていかなければなりません。これは本当に骨の折れる作業です。一度にみっつのことを気にかけながら作業をしなければならないのです。並大抵の集中力くらいでは、ひとつの詩を真に完成させることもできないでしょう。では、これらみっつの作業のうち、どれが一番、詩作の核となるのか、と問うならば、間違いなく「内容」に関する部分、つまり幻視や霊視になります。この能力を高めることは、詩人にとって特に有用なことだと言えるでしょう。そのための方法として薔薇十字の瞑想法の名前を挙げましたが、これについて、本当に簡単にではありますが、紹介しようと思います。
瞑想と言うと、眼を閉じて無心になるような方法を思い浮かべる方もいるかと思いますが、薔薇十字の瞑想は逆に、特定の像をじっくりと思い浮かべるという作業を行います。簡単に述べると、黒い木でできた十字架の中心に、輝く7つの薔薇が円状に絡んでいるものをイメージします。しかしもちろん、ただイメージするだけでは何にもなりません。重要なのは、思い浮かべた象徴的像に対して、深い感情を湧き上がらせ、自らの内に作用させることです。そのために、薔薇十字像の前の予備段階として、植物の瞑想を行います。簡単に述べると、次のように思考イメージを働かせます。「今、自分の目の前にひとつの種がある。種は根を出し、芽を出し、葉を広げながら茎を伸ばし、そして花を咲かせる。その隣に私が立っている。私は植物よりも高次の存在である。植物は、その場から動くことができないが、私は自分の意志を持ち、自由に動き回ることができる。しかしこうも言える。植物は純粋に成長していく。太陽に向かい、邪心なくまっすぐに成長していく。そんな植物の純粋さは、その体を流れる緑色の樹液に表象されている。対して私は、確かに植物よりも高次の存在ではあるが、そのための意志を持つと同時に、情念、衝動、欲望、それら低次のものまで身に付けてしまっている。そのため、私には植物の持つ純粋さが欠けている。そんな私は、この体を流れる赤い血により表象されている。ここで、赤い薔薇を考えてみる。薔薇は、緑色の樹液をその花びらにおいて、澄み透った赤色に変える。同じように私も、情念、衝動、欲望、それら低次のものを全て浄化することができたならば、この体を流れる赤い血は、薔薇の花びらを流れる樹液のように澄み透るだろう」このイメージを、豊かに、そして適切な感情を持って行います。植物が成長する場面ではその生命力に感動し、それよりも高次の自分という存在に輝かしいものを感じます。植物の純粋さには清浄な気持ちを抱き、それに対して、欲望まみれの自分にはどこまでも暗い感情を抱きます。赤い薔薇と澄み切った赤い血液の私は、努力と忍耐の結果、いつか将来自分が辿り着くであろう輝かしい人間像です。感情の起伏で言えば、上がって、最高に下がって、最後にどこまでも上がります。この感情を得たならば、次に薔薇十字像をイメージするわけですが、黒い十字は低次の自分です。つまり、黒い十字をまずイメージする時、最高に下がった暗い感情を自らに作用させます。次に7つの輝く薔薇ですが、これは将来的に自分が到達する輝かしい人間像の象徴です。ですからここで抱く感情は、最高に明るく浄福なものとなります。これを続けていくうちに、超感覚的器官が少しずつ形成されていきます。ですが、すぐに成果がでるとは思わないことです。あるいは何十年も続ける必要があるかもしれません。ですがここは忍耐強く、毎日5分でかまいませんので、続けることです。霊視の能力を得るためではなく、瞑想をすることそのものを目的として続けるとよいでしょう。
しかしながら、瞑想の結果、霊視能力を得たとしても、その他の人間的能力が育成されていなければ、下手をすると霊視能力が原因で、現実生活を送れなくなる可能性もあります。それを避けるために、瞑想と平行して行うべき、基本的な五つの行というものがあります。「思考の修行」「感情の修行」「意志の修行」「積極性の修行」「公平性の修行」です。できればこれらの五つを、一ヶ月単位でひとつずつ行うことを推奨します。そして六ヶ月目には、この五つを全て行います。すると、一年間で二回繰り返すことができます。これも、忍耐強く続けることです。続けていくと、人間としての能力がどんどん向上していくことを実感するでしょう。「思考の修行」では、全うな思考ができるようになり、集中力も身に付きます。「感情」の修行をすることで、人間としての懐が大きくなるでしょう。「意志の修行」では優柔不断な部分が改善されてきます。「積極性の修行」では思考能力と感情能力が上手く調和してきます。「公平性の修行」では、思考能力と意志能力が調和してきます。それぞれの方法を簡単に紹介しますと、まず「思考の修行」ですが、これは何かひとつのものについて最低5分間考え続けます。例えば、鉛筆やはさみなど、日常生活でよく用いるものがお勧めです。ただひたすら鉛筆のことを考え続けるのです。途中で違う思考が入ってはいけません。鉛筆の構造について考えていたのに、いつの間にか木炭のことを考えてしまっていてはいけません。そこは集中力を持って思考を制御し、全うな思考能力を身につけなければなりません。この「思考の修行」に関しては、ずっと科学に携わり、論理的思考を繰り返した人達のなかには、「自分には、全うな思考を行う能力は十分についている。だからこの修行をする必要はもうない」と言われる方もおられるかもしれません。ですが試しに、まずは5分間、この修行を実際にやってみてください。科学的で論理的な思考ができることと、この修行を通して全うな思考ができるようになることは、全く別ものです。むしろ、科学にずっと携わってきた人間ほど、この「思考の修行」に取り組むべきだと私は思います。五分間、とは言え、最初はおそらく三分も続かないでしょう。すぐに違う考えが入ってきますし、思考が何の脈絡もなく違うところに飛んでもいきます。ですがこれも忍耐強く続けることで、五分と言わず、十分、二十分と長い時間続けられるようになっていきます。
「感情の修行」ですが、これは、一日に一時間でもよいので、感情を外に出さないようにする、というのが内容です。これだけだと、「感情の修行と言いながら、それではまるで、感情を自分のなかから消し去るようなものではないか」と言われるかもしれませんが、実際のところは、その逆のことが起こります。人間の心を、ひとつのコップだと思って下さい。人が何らかの体験をした時、その人の心に感情が湧き上がってきます。心がコップで、ここでは感情を水だとします。この感情という水は、コップの底から湧いてくるのです。そしてどんどんと水かさが増し、さらに湧き続けるならば、水=感情は、コップ=心から溢れてしまいます。心から感情が溢れてしまうと、肉体が溢れた感情を消化しようとして、反応を起こします。例えば、映画を見て感動したとします。その時の感動が大きいと、人間は感動を心のなかだけに貯めきれず、外に出してしまいます。そうして外に出た感情は、肉体において涙となって目から流れます。よく泣く人、よく怒る人、よく笑う人、そんな人は確かに「感情豊か」と言えるかもしれませんが、別の見方をすると、湧き上がる感情の全てを心で体験できず、余剰の部分を肉体から捨ててしまっている、とも言えます。「感情の修行」の目的は、湧き上がる感情の全てを心で体験できるようにすることです。そのために、面白いことがあっても笑いをこらえ、笑いたいという感情を自らの心のなかだけで体験するよう試みて下さい。この修行は、詩を書く上でとても重要です。「りんご」に集中して、「りんご」という感情を得た時も、この能力が低いと「りんご」の全てを感情として体験できません。ここでしっかりと感情体験できないと、幻視や霊視を得ることもできません。
「意志の修行」は、とても具体的で分かりやすいと思います。方法としては、一日のうち、時刻を決めて、毎日その時刻に何か同じことを行う、というものです。例えば、夜八時に時計のねじを巻く、とか、朝の七時に体操をするなど、行うことは何でも構いませんが、少し努力しないと難しい内容と時間に設定するほうがよいでしょう。「意志」とは行動のことです。「今日の昼は外に出かけよう」と心のなかで思う段階では、意志ではありません。昼になった時、実際に外に出かけることができた場合に始めて、「意志」となります。
「積極性の修行」は、少し内容があいまいで、行いづらいかもしれません。行うことは、「否定をしない」ということです。人間は受け身の状態であっても、悪いことや嫌なことにはすぐに気が付きます。しかし、良いところ、素晴らしいところに関しては、能動的な態度を取らなければ見つけることができません。そのため、「否定をしない」というこの修行は、「積極性の修行」と呼ばれます。例えば、交通マナーの悪い車を見かけても、それに対して否定的な言葉を使ってはいけません。確かにその車は交通マナーが悪く、危ない運転をしています。しかしそのことだけに囚われて、本当は存在している素晴らしいところ、良いところが見えなくなってしまうとすれば、それは非常にもったいないことです。もしかするとその車は、ぴかぴかに磨かれ、きちんと手入れされているかもしれません。その時、「あの車は確かに綺麗だったけれど、あんなにマナーの悪い運転をするようではいけない。人間としてどうにかしている」そう言ってしまうと、物事に対しての能動性を保てていないことになります。この場合は、「あの車はマナーの悪い運転をして、危ないけれど、車は綺麗に磨かれている。車をしっかりと手入れするという持ち主の行為は素晴らしい」そう思えなくてはいけません。
最後の「公平性の修行」は、どれだけ私達が思い込みによって普段の生活をしているかということを思い知らされます。例えば、真夏に誰かが「雪が降っている!」と叫んだとしても、「こんな暑い時に雪なんか降るわけがない。それは見間違いで、雪ではない何かが舞っているだけだ」と思ってしまうのではないでしょうか。仮に「雪が降っている!」と叫んだ人が、よく人を騙す人だったとすれば、なおさら本当に雪が降っているなどとは思わないでしょう。しかしこの態度は良くありません。人間のこの性質こそが思い込みの原因であり、ミスをする要因のひとつです。人間が間違ってしまうのは、判断を下す時です。私達の感覚器官自体は決して間違いを犯すことはないのに、感覚器官が捉えたものと自分の経験とを組み合わせた時、感覚器官が捉えたものは主張を控え、経験のほうが大きな顔をし始めます。そこから下す判断は、なんと根拠がなく、脆弱であることでしょう。私達は基本的に、これまでの経験からくる「思い込み」で判断をしようとしているのです。「公平性の修行」は、そんな思い込みに対する修行でもあります。「人から聞いたことが信じられないような内容でも、それを自分の目で確認するまでは、疑ってはいけない」これが修行内容です。ただし、この修行は行うことそのものが少々困難であります。人の言うことを信じる、というのは大切なことですが、例えば営業の仕事でこれを徹底していると、仕事が先に進みません。ですから、ほどほどに、あるいは時間を決めて行う、というのも良いでしょう。
これら「基本的な五つの行」は、詩人としての能力を高めるだけではありません。詩人でなくとも、人間が生きていくうえで大切な力を身につけるために、十分行う価値のあるものだと思います。忍耐強く続ければ、必ずその成果を自分自身でも感じてくることでしょう。重要なのは、忍耐強く続けることです。成果のために行う、という姿勢ではきっと続かなくなってしまうでしょう。修行をすることそのものが目的となるくらいの心持ちが必要です。そうすると、修行のなかで様々な気付きに出会えることと思います。それらは私達を、詩人としてさらに成長させてくれることでしょう。私達の最も厳しく、最も身近な先生は、「忍耐」なのです。