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詩の認識――鏡としての森羅万象  作者: 武田 章利(Sai)
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補遺1:霊視ヴィジョンと幻視について

 詩の書き方、という視点から霊視ヴィジョンと幻視を述べるだけでは、やはりあまりにも不親切だと思いますので、私にできる範囲で、これらを掘り下げておこうと思います。詩人であれ、そうでない方からであれ、超感覚的=霊的なものに対する批判はあるものと思います。「いくら詩というものが自由な創作物だからと言って、突拍子もなく根拠もない、そして人を変に惑わすようなカルト系の思想を持ち出して詩を語ることは許されない」と言われることでしょう。私はそもそも、そういった意見に対して真っ向から反論をするつもりはありません。しかしここでは敢えて書きますが、詩人がその創作を真の意味で続けていくのであれば、その人は必ず超感覚的=霊的なものに辿り着くでしょう。

 とは言え、ひとまず私は、超感覚的=霊的なものの真偽には触れずにおこうと思います。その答えがどうであれ、少なくとも詩を書く者が体験する内容を否定することはできません。重要なことは、その体験を科学的に説明できるかどうかではなく、実際に体験として起こることを述べるという、ただその点にありますから、物質でできた現象の世界とは違う世界があるかないか、ということは、ここでは問題になりません。ギリシャ時代においては物質界ではない世界からの、一種の強制力が必要でしたから、神々の世界があるかないか、という問いは、大問題だったわけです。しかし自由詩は、神々からの強制として書くものではありません。それは自ら以外の何ものにも従わないわけですから、もちろん、神々ですらそこには直接関与できません。だから、ひとまずは超感覚的世界の存在については問題とならないのです。

 では、幻視体験と霊視ヴィジョンの体験について、実際に詩を書く際に起こる事実として述べようと思います。まず詩を書く上での「内容」を見つけ出す作業を詩人は行います。例えば、「りんご」の詩を書くとします。その時詩人はりんごを思い浮かべ、りんごを自身の言葉で彫刻していくわけですが、彫刻のための原像として、りんごの「内容」が必要となってきます。そこで詩人は、りんごについて考えることにひたすら没頭します。すると、まるで自分の思考制御が効かなくなったような感じで、自らの内に様々なイメージが浮かび上がってきます。ここで出てくるイメージは、基本的には詩人自身の経験がもとになっています。彼の経験や体験が、思考作業のなかで勝手に動き出し、あらゆる組み合わせとなって浮かんでくるのです。夢を見ている状態に少し似ているかもしれません。この状態をずっと続けていると、あたかも自分の知らないことが自らの内より湧き出してきているような、そんな感覚になってきます。ですが注意しなければなりません。ここで浮かんでくる膨大なイメージ群は、あくまで自分の体験や経験が様々な像となって組合わさっているだけです。そして、基本的にこれらのイメージ群には規則性などありませんし、今自分が集中している「りんご」に関係しているものばかりでもありません。あるいはこの状態を、心理学で言うところの「深層心理」だと呼ぶこともできるかもしれませんが、詩を書くにあたっては、それに特別の意味があるわけでもありません。この、膨大なイメージ群が定まらない形で次々と現れては消えていくこの状態に留まることは、あまり良いことだとは言えないでしょう。仮にここでのイメージ群を詩を書くための「内容」にしてしまったとすると、そうしてできあがった「りんご」の詩は、全く不可解なものになるだけで、詩としての機能など備えてはいないでしょう。詩人は、この状態を越えるために、さらに「りんご」に集中しないといけません。すると、これまで無秩序に現れていたイメージ群が、すっと自分の思考世界から姿を消していきます。その代わりに現れてくるものがあります。それは感情です。最初はごく小さな、感情と気付けないような「ざわめき」です。しかし集中を徹底すればするほど、その感情は詩人のなかで大きくなっていきます。感情を保つという能力があまり育っていない場合、ここで膨らむ感情を自らのなかに抱えきれず、溢れさせてしまう場合もあります。これに関してはここではこれ以上述べません。ともかく、規則性も意味もない単なるイメージ群が主張を控え始めると、その代わりに「りんご」という感情が生まれてくるのです。その時の感情は本当に特殊なものです。「りんご」に集中する場合、その時に生じてくる感情のことを、私は「りんご」としか呼ぶことができません。それは、嬉しいとか悲しいというのと全く並列に、「りんご」という感情なのです。この感情を体験し、それを維持することができるようになれば、今度はこの感情をひたすら自らの内に作用させ続けます。今はただ、目の前の実物の「りんご」だけではなく、感情としての「りんご」にも沈潜します。すると次には、ぴかぴかと明滅する何かが自分のなかに現れます。最初は、これがいったい何なのか全く分かりません。しかし、明滅するこの何かが、「りんご」という感情を深く心に作用させることによって起こっているひとつの像だとすぐに気が付くでしょう。「りんご」という感情に集中すればするほど、この明滅するイメージははっきりと現れてきます。最初に自分のなかに生まれた膨大なイメージ群とは違い、ここでははっきりとしたイメージがかなり現実味を帯びて現れます。これが、幻視です。とりあえずの手段として、詩人はここで見る幻視を詩の「内容」として用いることができます。ですが、ここでは本当に注意深くあらねばなりません。この時に見る幻視は、本当にかなりの現実味を持っています。ですがそれでも、これはあくまで単なるイメージであって、本当の現実ではありません。自分の感情が像として反映されているだけです。しかしこれを現実だと勘違いしてしまうと(注意深くあることができないと、人間は本当にこれを現実だと思い込んでしまうのです)、その人は実際の現実生活を全うに生きることができなくなります。そして精神疾患と見なされ、社会生活のなかから取り残されてしまうことになるでしょう。ですから、詩人はこの時に得る像を、必ず「幻視」、つまり、幻であるのだと意識していなければなりません。

 これよりもさらに「りんご」とその感情に集中して深く向き合うならば、いつか霊視ヴィジョンを得ることができます。私はここで、「ヴィジョン」という言葉を使いますが、これはあくまで比喩です。霊視によって感得できるものは、私達の通常生活に見られるような何らかの像とは全く異なっています。幻視も、現実生活で触れるものに比べると説明困難なものと言えますが、霊視ヴィジョンは言葉によっては全く説明不可能です。そもそもそれを、眼によって見える何ものかと比べることも、誤解を招く要因となるでしょう。霊視には私達の肉体的感覚器官は全く関与しません。眼による視覚と超感覚的器官によるヴィジョンは、全くの別ものであると考えて下さい。眼の存在を忘れられないうちは、霊視ヴィジョンを得ることはできないでしょう。

 以上に述べたことは、全て体験としての話です。理論や仮説を述べているのではありません。ですから、多方面からくる批判に対しては、「ともかくもこれらの体験は真実である。私はこれを、現実的な側面と幻想的な側面の両方から述べる。詩を書く過程のどこまでが現実で、どこからが幻であるかをしっかりと把握した上で述べている」と応えることができるでしょう。加えて、このような批判もくるかもしれません。「確かに、それは一人の人間の体験としては真実かもしれない。だが、詩というものは現実の生活に即して書かれなければ意味がない。だとすると、現実から離れた幻を詩に持ち込むことは許されない」というものです。ですがこれに対しては、「その批判は、霊視ヴィジョンを正しく理解していないことからくるものだ」と答えることができます。もちろん、幻視も霊視ヴィジョンも、現象世界にある物質そのものではありません。ですが私達の現実は、物質界にあるりんごだけではありません。それに集中する時、詩人の胸の内に起こる全ての体験も、手に取ることができるりんごと全く同じ意味で現実です。ただ、手に取れるものと取れないものとを区別することが大切なのです。目の前のりんごは手に取り、食べることができます。しかし私達のなかに生まれるイメージは食べることができません。この違いをしっかりと意識することができていれば、りんごもイメージも同じように生活のなかのひとつの現実なのです。

 ここで、もうひとつ疑問を提起しておきます。「霊視ヴィジョンや幻視が、人間の体験として存在することは分かった。しかし、それらの体験で得た内容は、本当に「りんご」の体験であると言えるのか。本来は全く異なるものを、無理矢理りんごと結びつけているだけではないのか」というものです。しかしながら、この問いに対する答えは、ここで私が説明するようなものではないでしょう。実際に幻視や霊視ヴィジョンを「内容」として書かれた詩を意志で読む時、その人が自らの詩体験から答えを出してもらえたら、と思います。

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