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詩の認識――鏡としての森羅万象  作者: 武田 章利(Sai)
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詩人としての心構え

 ここまで、目標地点に自由詩を置き、そこに至るための道程を述べてきました。しかしながらもちろん、自由詩が詩の全てというわけではありません。現代の詩において、自由詩が特別重要な位置付けであることは確かだと思いますが、その他にも重要なものがあるはずです。私は集中して自由詩を取り上げましたから、もしかすると自由詩こそが詩の全てだという具合に受け取られてしまったかもしれません。ですがここで私が行った分類は、定型詩か自由詩か、という単純な二択です。そして、現代において詩を書くためには、まず定型詩から始めることで、自然と自由詩が書けるようになる、という道を示しただけなのです。例えば他にも、叙事詩と抒情詩、という分類方法もあります。もしくは、物語詩、劇詩、象徴詩、形而上詩、瞑想詩、そういったものを取り上げることもできます。自由詩というものばかりを述べてきた私に対して、「詩のもっと細分化された部分についてをおろそかにしすぎている」という批判があるかもしれません。確かに、詩が辿ってきた歴史を学び、言わばルーツを探るためには、細分化された場所にも焦点を合わせなければならないでしょう。それがある意味において大切なことであることは言うまでもありません。それは歴史に学ぶ、という叡智です。しかし、それが通用したのは戦前までだと私は思っています。戦後からの詩は、まったく新しいところから新しいものを創らなければならないという宿命を背負っているのです。全ては――私達詩人が過去から積み上げてきた遺産は、2度の大戦によって崩れ去ってしまったのです。もちろん、それらの精神が儚くも散りさって、もはや何の意味ももたない、とは思いません。むしろ、過去の作品達は今でも詩の光を放ちながら、私達を勇気付けてくれます。ですがそれは、私達が完全な受け手となる時だけです。現代の私達が創り手であろうとする時、詩人であろうとする時、過去は何の手助けもしてはくれないでしょう。それが、現代という時代なのだと私は感じています。私達は、全く新しいものを、つまり、自由詩を創っていかなければなりません。言わばそれが、最重要課題なのです。その自由詩が象徴詩であろうと、物語詩であろうと、それは個人の個性の問題であり、論じるようなものではないと思うのです。

 ですが叙事詩と抒情詩については少し触れておく必要があるかと思います。このふたつは、詩人の役割にも関わってくるからです。そしてもうひとつ加えて、黙示録詩も取り上げたいと思います。これらを通して、詩人が社会や世界、果てには宇宙のなかで果たす役割を把握しつつ、そのためにしなければならない基礎練習=心構えを述べていこうと思います。

 ひとつひとつの各論に入る前に、なぜ私が叙事詩、抒情詩、黙示録詩のみっつを選んだかについて、少し詳しく触れておこうと思います。私がこれらを選んだのは、詩を時間感覚的に捉えた場合の分類が、ちょうどこのみっつに当たると考えたからです。つまり、人間にとっての過去に当たるものが叙事詩、現在が抒情詩、未来が黙示録詩となります。これらには、それぞれに異なる役割を当てることができます。そしてみっつの役割を合わせると、詩が人間に成せることの可能生の多くを実現できると思うからです。例えば、ここで「物語詩、抒情詩、形而上詩」という分類にしてしまうと、少なくとも私には、これらのなかから詩の可能生を網羅するような話の展開に持っていくことができません。同じように、「叙事詩、瞑想詩、抒情詩」と分類しても、私にはできないでしょう。人間そのものを時間で捉え、言わばその成長の軌跡に合わせる形で詩を分類する時、詩というものが現代のなかで、人間とその時代の要求に答えることができるように思うのです。

 私はここで、詩を過去、現在、未来と分けましたが、いったい人間にとって過去、現在、未来はそれぞれ、どういった役割を担っているのでしょうか。この問いの答えは、時代によって様々に変化していくと思います。少なくともタイムマシーンのない現代においては、人間は「現在」しか生きることができません。ですから、人間が実際に生活をしている「現在」と、既に起こってしまい、言わば固まった「現在」として変えようのないもの、そして常に「現在」を生きる人間にあらゆる方面から影響を与えるものとしての「過去」、「過去」を持って「現在」を生きる人間にとって全くの未知数であり可能性である「未来」、この捉え方が変わることはないでしょう。しかしこれだけでは、あまりにも平凡すぎますので、詩に繋げてみたいと思います。

 私はここで、「過去」「現在」「未来」を、ひとつの比喩で表現してみたいと思います。時間を3分節したこの分け方を、物質の3態で例えてみます。そうすると、もはや固まってしまって変えることのできない「過去」は「個体」です。人間が存在できる唯一の場所である「現在」は、「過去」と「未来」に挟まれて揺れ動いているわけですから、「液体」です。人間のあらゆる可能性である「未来」は、大空いっぱいに広がる「気体」です。次に、「個体」「液体」「気体」という物質の3態を、さらに人間の持つみっつの能力で例えてみようと思います。まず「個体」は、人間でいうと物事をはっきりとさせ、言わば固定させるための能力、つまり「思考」です。「液体」は、人間のなかで常に揺れ動き、変化するものである「感情」が相当するでしょう。「気体」は、人間にとってその大部分が未知数であり、最も捉え所のない能力である「意志」に当たるでしょう。これをさらに時間の3分節と繋げてみますと、「過去」には「思考」が、「現在」には「感情」が、そして「未来」には「意志」がきます。これらの比喩を使って、改めて「叙事詩」「抒情詩」「黙示録詩」を考えてみます。

 まずは「叙事詩」です。「叙事詩」はその名の通り、出来事の記述です。ですが西洋の「叙事詩」では決まり事がいくつかあり、例えば、韻を踏んでいないものは「叙事詩」と認められません。そこから言いますと、日本にはただのひとつも「叙事詩」がないことになります。しかしここで、あるいはこういった意見も出てくるかと思います。「日本語によるソネットが、西洋のルールそのままでは成り立たないように、叙事詩もまた、西洋式のルールではなく、日本式のルールで考えれば良いのではないか」これは当然の意見のように思われます。ですがここで、「叙事詩」についてひとつ注意しなければならない点を挙げてみましょう。詩は「内容」と「言葉」と「形式」で成り立っています。「言葉」については省きますが、叙事詩における「内容」とはいったい何でしょう。おそらく、叙事詩の「内容」とは実際に起こった出来事のことだ、という答えが最も適切なように思われるのではないでしょうか。しかし私は、ここで敢えて「それは違う」と言いたいのです。叙事詩に書かれている「出来事」とは、叙事詩にとっての「形式」です。西洋式ルールの考えでいきますと、叙事詩の「内容」に出来事を置き、「形式」として韻を与えれば詩の形ができるように思えます。ですがこのやり方では、日本において韻なしで叙事詩を作ることができません。「形式」を詩人固有のリズムとしたとしても、「内容」が出来事に規定されていますと、「形式」の自由がまったく意味を成しません。出来事というものは、生命を持っていません。なぜならそれは「過去」だからです。生命を持てるのは「現在」と「未来」です。前述したように、「形式」も生命を持ちませんから、「内容」を出来事とし、「形式」に詩人の自由なリズムを持ってきたとしても、それで書かれたものは生命力を持ち得ないのです。となると、もはやそれが詩であるかどうかもあやしくなってきます。いえ、はっきりと言いますが、それは詩ではありません。ただの記録です。ですが、「形式」に出来事を置くならば、それが詩としての生命力を持った叙事詩になる可能性が生まれてきます。「内容」はここでも、霊視ヴィジョンであるべきなのです。詩人は記録係ではありませんから、「出来事」を「内容」にしてはいけません。それは詩人の仕事ではないのです。歴史家の仕事です。詩人個人の霊視ヴィジョンを「出来事」という「過去」に映したものが、叙事詩なのです。叙事詩はまた、非常に「思考」的だと言えます。どんな詩を書くにしても「思考」の力を大なり小なり使うことになりますが、叙事詩はそのなかでも特別です。主に「思考」を使って書く、と言っても過言ではないでしょう。ですから詩人は、叙事詩を書くために、ひとつの心構えをしておかなければなりません。それは、自分の受け取る印象を、ただ享受するだけに終わってはいけない、というものです。例えば何かおいしいものを食べたとします。その時私達は、「ああ、なんておいしい食べ物なんだろうか。私はこんなものを食べられて幸せだ」と思うとします。ですがこれで終わってしまっては、詩人が必要とする素養のひとつを開発することができません。私達は絶え間なく能動的でなければならないのです。「おいしいものを食べられて幸せだ」と思うことの他に、私達にはその経験に対して行える思考がいくつもあります。「なぜこれはこんなにもおいしいのだろうか」「私はどうしてこれを食べておいしいと感じるのだろうか」「この食べ物が私の前に来るまでの経緯はどんなものだろうか」など、様々なことを考えることができます。私達にとって経験とは、どのひとつを取ってもいわば「きっかけ」であるべきなのです。経験を享受して終わるだけではなく、その経験から様々なことに思いを馳せるための「きっかけ」です。この心構えを常に意識し、能動的に経験と関わることができれば、そこから得るものが、「出来事」と霊視ヴィジョンを繋ぐ糸を見つける助けとなるでしょう。

 ではここで、「叙事詩」の持つ役割を考えてみたいと思います。例えば現代の詩人が叙事詩を書いたとして、同じく現代を生きる人々に対して、それはどんな意味を持つのでしょうか。「現代には、戦争を直接知らない人がたくさんいる。戦争の真実を忘れないためにも、叙事詩として残して語り継いでいくべきだ」という意見が出るかもしれません。ですが私は反対です。上述したように、このような目的のためでしたら、詩なんかにするよりも、直接、生の声で語るほうがよっぽど伝わります。上記のように言うのは、叙事詩が本来的に言おうとしていることを正確に認識していないためです。確かに、詩の意味は「形式」に現れますが、詩として言いたい本来のことは、もちろん「内容」なのです。叙事詩では、「形式」として「出来事」が使われますから、戦争のことが書かれていると、戦争のことが言いたいのだと思ってしまいがちですが、決してそうではありません。戦争は「形式」なのです。戦争という意味から、私達はそこに込められた「内容」=霊視ヴィジョンを読み取らなくてはいけません。そこには歴史を超えた意味があります。戦争から「過ち」を学ぶのでしたら、語り部の声に耳を傾けるべきです。ですが叙事詩に書かれた戦争からは、「過ち」ではなく、人間の奥深くに込められた進化の秘密を探るべきです。それは「過去」を見ることで明らかになってくるものです。そしてそうすることで、時間軸の最先端である「現在」を生きる私達は、あらゆるものに対して畏敬と感謝の念を持ち、それをエネルギーに変えて「現在」を生きていくことができるようになるでしょう。これが叙事詩の役割です。言わば私達は、「過去」という「個体」を、「現在」を生きる私たちの「液体」に漬けることで溶かし、そこからエネルギーを得るのです。

 次に「抒情詩」を考えてみましょう。抒情、というくらいですから、ここに人間の「感情」が非常に深く関わっているということはすぐに分かります。では、「抒情詩」を考えるにあたり、まず次のような問いを立ててみようと思います。「抒情詩は、突き詰めることでやはり感情に行き着くのだろうか」しかし、この問いに対してはすぐに「それは違う」と言うことができます。詩の核でもある「内容」はあくまで霊的ヴィジョンですから、そこに感情が入り込む余地はありません。抒情詩と言えども、そこに書かれていることの究極の意味は、決して作者の個人的な感情などではないのです。とは言え、抒情詩というものは、とても情感豊かな詩であり、読み手は間違いなく、そこに描かれた「感情」を汲み取ろうとします。そういう意味において、抒情詩はとても共感を得られやすい詩です。分かりやすくて面白いものなのです。しかし、ここにこそ「抒情詩」を理解する上での落とし穴があると私は考えています。抒情詩が共感を得られやすいのは、決して「感情」が描かれているからだけではありません。むしろそこに描かれる「感情」は詩においては副次的なものにすぎません。と言いますのも、「感情」は、「抒情詩」だけに見られる要素ではないからです。「叙事詩」にも「感情」はあります。「黙示録詩」にだって「感情」があります。「抒情詩」の目的は、作者個人の単なる感情の披露などではありません。「抒情詩」が扱うものは「現在」です。そして「現在」だけしか持ち得ないものは、衝動です。もちろん、過去にも未来にも衝動はありますが、今を生きる私達にとって実際の衝動を持ちえるのは、つまり、私達にとって意味のある衝動があるのは、「現在」ただひとつです。それは言わば、時代衝動です。「抒情詩」が扱うべき詩の核とは、この衝動に他なりません。ですから、「抒情詩」はそこに描かれた感情で共感を呼ぶものではなく、時代に流れる衝動を描くことによって、同時代を生きる全ての人達と共鳴するものなのです。「叙事詩」の役割が、畏敬と感謝の念から「現在」を生きるエネルギーを供給することであるなら、「抒情詩」の役割は、時代の衝動=要求を提示することで、「現在」をどう生きていけばいいのかという悩みそのものからエネルギーを供給することです。ここで詩人が果たさなければならない役割は非常に大きなものだと言えるでしょう。しかしここにこそ、かつてシェリーが述べた「詩人は非公認の立法者だ」という言葉の意味が見出せるかと思います。私は、詩人には時代を作っていくだけの力があると考えています。詩人には時代の衝動を見定める能力があるのです。ですから、いつでも詩人の言葉はその時代を生きる者達の慰めや救いとなるでしょう。

 ここで私は、詩人にとって非常に重要なことを述べようと思います。それは「道徳性」です。詩人が持つべき「道徳」について述べようと思うのです。上述したように、「現在」における詩人の役割はとても大きく、そして途方もないものです。ですが1人ひとりの詩人の力がどんなに弱々しいものだとしても、彼が世界に発する言葉は、少なからず世界に影響を与え、変えていくことでしょう。なぜなら、詩とは「意志」であり、言わば「行為」そのものだからです。仮に、道徳的にあまりよろしくない内容を含む詩がここにあるとします。その詩は読み手のなかで、ひとつの「意志」となるでしょう。すると、読み手は道徳的に見て決して良いとは言えない行為にまで及んでしまう可能性が、ここでひとつ生まれてしまいます。それはとても小さな影響かもしれません。ですが世界のなかで、私は、詩だけはどんな時でも、最も「道徳的」なものであるべきだと思うのです。ここでひとつ注意を述べておきますが、ここに書いた「道徳」とは、決して民族的な規律や法的規則、家訓などに従わなければならないと思うことではありません。それらを越えて、人間が本来、唯一の拠り所とするべき「真理」を実践しようとする態度を指して、私は「道徳」と言っています。言い換えれば、「愛する行為」となるでしょうか。そしてこれが、詩人にとっての基礎練習のひとつとなります。詩人は常に、「愛する行為」からでる衝動に従うよう努力しなければなりません。そして自分のなかで湧き上がるいくつもの感情のひとつひとつに対して、「これは本当に、私自身のなかから生まれてきたものだろうか」と自問しなければなりません。それを続けることで、「道徳性」と本来の「自由」である心に近づくことができるでしょう。そうなれば、そこから生まれる詩の持つ「意志」は、真に道徳的な行為を世界に示すことができるでしょう。

 ここまで「抒情詩」について書いてきましたが、あるいは、私の書いた「抒情詩」について、違和感を持たれた方もいることでしょう。「それは本当に抒情詩のことを言っているのか」そう言われるかもしれません。それに対して私は、実のところ、「その通りだ。私は「抒情詩」という言葉を使ってこれまで説明を述べてきたが、本当は、私が書いてきたことは「抒情詩」のことを述べているのではない」と答えるしかありません。そうなのです。私は「抒情詩」という言葉を使ってきましたが、これまで私が「抒情詩」の項で述べてきたことは、本当は「抒情詩」のことではないのです。しかしもちろん、全く「抒情詩」と関係がないわけではありません。そうではなく、「現在」に置くべき詩のことを述べるのには、まず「抒情詩」から入るのが適切だと考えたからこそ、この言葉を使ったのです。しかし私はここで、改めて「抒情詩」という名前を、本来のものに変えたいと思います。私が「現在」という場所に置きたい詩は、「悲歌」なのです。どうかお手数ですが、もう一度、「抒情詩」という言葉を「悲歌」に変えて読むならば、さらに「悲歌」のことを理解して頂けるかと思います。

 ではここで改めて、本来の抒情詩について簡単に述べておこうと思います。それは「詩人にとっての基礎的な詩」となります。通常、どんな詩も抒情詩なのです。私はここから、抒情詩という言葉を、「感情表現を用いて書く詩」という程度の意味合いで使うことにします。しかし、述べたように、詩人にとって抒情詩を書くという行為は、非常に有用だと私は考えます。その時に重要なのは、時代を考慮しながら書くということです。世界を単なる空間的な広がりだと捉えてしまうと、書かれる抒情詩は極めて自己完結的なものになってしまうでしょう。そうではなく、空間的広がりと同時に、時間的な広がりもある世界、という捉え方をするならば、抒情詩に含まれる感情が、時代衝動を担うようになってきます。感情は、時代衝動のひとつの現れです。抒情詩における感情を自分固有のものとしか見なさない限り、その詩は自己完結的です。ですから、詩を書く基礎訓練のひとつとして、自分の感情ではなく、時代の感情を抒情詩に込める、という練習も、非常に効果的です。

 上記した、抒情詩を書くという基礎訓練が最も大きな意味を持つのは、「悲歌」という分野においてでしょう。「叙事詩」にも「黙示録詩」にも感情が関わっていますが、「悲歌」ほどではないからです。「悲歌」はまさしく時代の衝動であり、嘆きなのです。抒情詩と「悲歌」はこういう繋がりにあります。つまり、抒情詩のなかで最も時代衝動を反映しているものが「悲歌」なのです。いつの時代でも、楽をして過ごせるようなそんな時代はありません。なぜなら、どの時代にもそれぞれの要求があるからです。私達はそれに応えなければならないわけですが、その過程はいつでも「嘆き」であることでしょう。しかしここで言う「嘆き」を、悲観的に捉えてはいけません。「嘆き」こそが人間に自由を与えてくれます。真の嘆きとは、選択できないことだからです。人間は選択した瞬間に自由でなくなります。ただ、自分自身の衝動に従う時、つまり、何の選択もない行為こそが自由なのです。時代における「嘆き」は、私達に重くのしかかる荷物とも言えますが、それは人間を、確実に成長へと導いてくれるでしょう。だからこそ、詩人は「現在」において「悲歌」を書くべきだと私は思うのです。いいえ、逆に、「現在」の衝動を正確に捉えて詩を書くならば、それは必ず「悲歌」になります。この「悲歌」は、決して悲しいだけの暗いものではありません。人間を真の自由へ導くための試練、それが「悲歌」なのです。

 最後に、「黙示録詩」について述べようと思います。しかし、これを述べることは本当に骨の折れることです。誰にも「未来」のことが分からないように、「黙示録詩」もまた、極めて捉え所がなく、意味も難解であるからです。人間が実際に体験できるのは、通常、「過去」から「現在」までです。「未来」のことなど知るよしもないのです。体験や経験のないことを人間が理解することはできません。ですから、「未来」に当たる「黙示録詩」を人間が理解するというのは本来、無理難題なのです。なので、「人間にとって意味も分からないような詩を書くという必要性があるのか」という疑問が生まれたとしても当然です。ですが私はここではっきりと、「黙示録詩には意味がある」と言い切ります。その必要性を、ほとんどの人間が感じられないとしても、確実に意味があります。そしてそれは、時代が進むにつれてますます必要性を増していくでしょう。「叙事詩」と「悲歌」が、人間が生きていくためのエネルギーを供給するように、「黙示録詩」もまた、人間にある種のエネルギーを提供します。しかしこのエネルギーは、「叙事詩」や「悲歌」によるものよりも捉え所がなく、その受け手もなかなか気付けないような、そんなものです。私達の物質的肉体にエネルギーを与えるのは、主に食べ物です。私達の気持ち=心=魂にエネルギーを与えるものはたくさんありますが、「叙事詩」や「悲歌」によるものもそのひとつです。では「黙示録詩」が与えるエネルギーは、人間の何を満たしてくれるのでしょう。これを述べるのは、私には不可能です。言葉として書いた瞬間に、それは感覚的な形を持ってしまいます。しかし、「黙示録詩」に含まれるエネルギーとは、本来どんな感覚的な形姿も持たず、それゆえ感覚的に知覚することもできません。ですから、通常、受け手は自分がエネルギーをもらったということに気付けないのです。それでも、真に「黙示録詩」と向かい合うならば、その人は確かに、人間存在にとって非常に重要なものを得ることができるでしょう。その「非常に重要なもの」を敢えて述べるとすれば、それは「希望」と言えるかもしれません。「叙事詩」が畏敬や感謝の気持ちと、「悲歌」が衝動と関連づけられるとすれば、「黙示録詩」は希望と関連づけられるでしょう。「黙示録詩」が扱うのは、人間の未来そのものです。それも、「現在」から予測されるような悲観的で絶望的な未来ではありません。人間が過去より連綿と続けてきた真なる意味での進化や成長の、さらなる到達地点としての、輝かしい未来です。ですから、「黙示録詩」から私達が受け取るものは、限りなく優しい希望なのです。それはあるいは、人間にとって今を生きるためのエネルギーにならないかもしれません。少なくとも、表面上はそう感じるでしょう。ですがこれから先、「黙示録詩」の持つエネルギーを意識的に受け取れる人は確実に増えていくことでしょう。物質的肉体でも心=魂でもない、人間にとって最も崇高な部分に、「黙示録詩」は浸透します。そうすることで、人間は宇宙全体のなかにおける自分の立ち位置を把握するでしょう。

 では、「黙示録詩」がどういうやり方で作られるのかを考えてみます。ここでもやはり「内容」「言葉」「形式」という道具を使うことにします。まず「内容」ですが、再三言っているように、これはもちろん霊視ヴィジョンです。しかし、どんな霊視ヴィジョンでも良いというわけではありません。「叙事詩」や「悲歌」を書く場合は、直接自分に関係する霊視ヴィジョンでよいのですが、「黙示録詩」の場合は異なります。未来のための詩を書くのならば、もちろん霊視のヴィジョンも未来でなければなりません。そしてそこには、少なくとも今の自分は存在していません。自分が生きている100年弱の間の未来では、「黙示録詩」になり得ないのです。もっともっと先の、かすかに予感できるような、そんな未来の霊視ヴィジョンが必要となります。こう書くと、まるで未来が確定しているような、人間の運命は既に全てが決まっていて、どうすることもできない、というように思われるかもしれません。ですが決してそうではありません。物体を物理法則で見てみると、その動きが予測されるように、人間もまた、宇宙に流れる特定の法則で見てみると、その未来が見えます。ですが、その予め決められたもののなかから全く抜け出せないわけではありません。むしろ、その決定を越えて自らの自由を行使できるのが人間なのです。

 さて、そうして手に入れた未来の霊視ヴィジョンを、果たしてどのように使えば良いのでしょう。これはおそらく、詩人最大の問題のひとつです。というのも、人間が言葉を手に入れる前の出来事を述べるのが困難であるように、はるか先の出来事を今の言葉で述べるのもまた、はっきり言って不可能に近いことだからです。霊視ヴィジョンを「言葉」で描くことがまず難しいのですが、それに加えてはるか未来のこととなると、状況はさらに困難なものになります。「叙事詩」であれば、言わば出来事を「形式」にすることができました。「悲歌」であれば感情を「形式」にすることができます。では「黙示録詩」は、いったい何を「形式」にすれば良いのでしょう。正直なところ、私にもよく分かりません。おそらく「黙示録詩」の範囲は相当に広く、「形式」として選べるものもまた、相当な数になるのでしょう。あるいは秘教的キリスト教の教えを「形式」にすることもあるでしょう。仏教の叡智でもかまいません。そしてもはや比喩というレベルではないような、度を超えたような比喩も「形式」となるでしょう。もちろん、詩人固有の自由なリズムも必要となるでしょう。詩人は「黙示録詩」を書くために、ありとあらゆるものを使い、自分の持つ力の全てを惜しみなく発揮しなければなりません。時には人間の言葉の限界を越える必要もあるでしょう。このように作られる「黙示録詩」ですから、はっきり言って、その作品は一見、全く意味が分かりません。通常、どんなに難解だと言われている詩も、「意志」で読むというやり方をすれば、難なく理解することができます。ですが「黙示録詩」だけは別です。これは本当に意味が分かりません。20年後の未来をはっきりと述べられる人がいないように、「黙示録詩」で描かれた未来を理解できる人間など、通常いないのです。ですが、未来には必ず、それを理解できる人間が現れます。ですから、「黙示録詩」については、「黙示録詩は未来における悲歌である」と言うこともできるでしょう。

 それでは、「黙示録詩」は未来のために書かれる詩なのでしょうか。「現在」を生きる私達にはあまり意味がなく、その真価はただ「未来」において発揮されるのでしょうか。この問いに対する答えとして、「あるいはそうとも言える。だが、黙示録詩の真価はあくまで現在において発揮される」と私は言いたいと思います。「黙示録詩」の意味については、確かに未来の人間にしか分からないかもしれません。その意味という面においては、未来にしか理解されないかもしれません。しかし、「現在」を生きる私達のエネルギーになる、という目的を考えると、「黙示録詩」はやはり、「現在」においてその真価を発揮するのです。意味など分からなくてもいいと私は思っています。それでも、「黙示録詩」を読む人間が本当に能動的に詩と接するならば、少なからず予感があるはずです。ざわざわとした予感が全身を突き抜けることでしょう。そうすると、その人は「黙示録詩」からエネルギーを得たことになります。それは肉体にも心にも直接作用はしませんから、あるいはその人の意識的な人生には何の影響も与えないかもしれません。ですがその人の、人間存在全体としての生にとっては、大きな意味となるでしょう。このような「黙示録詩」を書くために、私達詩人が持たなければならない心構えのひとつは、「未来に対する信頼」です。どんな時でも、詩人は世界に絶望してはいけません。確かに、世界にはあらゆる不平等や不条理があります。ですが決して、それらに絶望してはいけません。むしろ、それらを超越しなければならないでしょう。どんな「現在」であっても、私達の「未来」は常に明るく輝いている、そう思えなくてはいけません。そうでなければ、とても「立法者」になることはできないでしょう。

 最後にもうひとつだけ、詩人としての心構えを述べておこうと思います。これは非常に大切なことですし、ここまでに述べたどの形の詩にも当てはまることです。それは、生活者として自立することです。過去の詩人を見てみると、素晴らしい詩を残しているのに、その生活ぶりは退廃していた、ということが少なくありません。これに関して、何かひとつのことを極めるために、その他のことを犠牲にした結果だ、と美談のように語られる場合があります。ですがそれはどうなのだろうか、と私はいつも疑問に思います。先にも述べたように、詩人はどこまでも道徳的でなければなりませんし、詩人もまた、1人の生活者として生きているからこそ、「悲歌」のような時代衝動を描くことができるのです。何より、詩の「内容」は霊的ヴィジョンであり、「言葉」は直感的に生まれてくるものだとしても、その前提、つまり詩人が詩を書くための動機は、生活にこそあるはずです。また、私はこれまでのいたる所で超感覚的なものを出してきましたが、そういったものが実生活からは遠く離れたところにあると考えるのも間違っています。少なくとも、人間の心=魂は、常に私達自身とともにあります。本当はすぐ近くにあるのに、超感覚的だという理由だけで、通常の意識からは無視されているものがたくさんあります。詩人は、そういったもののひとつひとつを、私達の感覚的生活のなかに組み込んでいかなければなりません。例えば、私達人間は誰しもが、24時間ずっと絶え間なく呼吸をしていますし、心臓を動かしています。普段はこんなことを気にすることなどないかもしれませんが、少しだけでもこの事実を深く受け止め、社会という大枠のなかで見てみて下さい。そうすると、社会というものが決して無機質で概念的なものだけからできているのではないということに気が付くはずです。社会は人間の生命の躍動からできているのです。このようなイメージを持てたならば、それによってすでに霊的なものを実生活に活かせていると言えるのではないでしょうか。そのための手助けが、詩人にならできると思うのです。そして世界中の詩人達の健全な意志が、この宇宙のなかで美しく輝いて、全ての人間達の道しるべになっていくことを、私は願っています。

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