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詩の認識――鏡としての森羅万象  作者: 武田 章利(Sai)
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詩作の基礎練習

 何をするにしても、基本となるべき行為があるものです。ギターを弾くのであれば、地道なストローク練習が上達を助けます。剣道であれば素振り、となるでしょうか。これらは基礎練習とも呼ばれます。基本的に基礎練習とは地味なもので、やっていて楽しいものではないかもしれません。しかし全ての基礎となるものをおろそかにしては上達などありえません。何においても、地味で面白みもなく、淡々と継続して行うことに意味がある基礎練習は、結局のところ、上達のための一番の近道でもあります。

 詩を書く上でも、基礎練習は決して軽く見ることのできるものではありません。他のあらゆる技術と同じように、いや、もしかするとそれ以上に、詩の基礎練習は実に様々な成果を行う者に与えてくれるでしょう。ここでは、詩人が行うべき基礎練習のいくつかについて述べようと思います。しかし、あらかじめ言っておきますが、これら基礎練習は、あくまで地道に継続してこそ意味を成すものです。やり方を知るだけでは全く意味がありません。実際に長い期間、強い忍耐力を持って行って初めて、実となります。それは非常に困難な道だと言えるかもしれませんが、逆に、こうも言うことができるでしょう。「この困難な道を本当に忍耐力を持って地道に続けられたとすれば、私は必ず詩人として成長する」数ヶ月続けて効果が出ないからと言って、決して諦めてはいけません。大切なのは、ただ、続けることです。継続こそが、その人の最も身近な先生となるでしょう。

 詩における基礎練習は、ひとつだけではありません。先に、詩の構成要素として「内容」「言葉」「形式」の三つを挙げたように、基礎練習もやはり、三つに分けることができます。「内容」に関する基礎練習、「言葉」に関する基礎練習、「形式」に関する基礎練習です。詩においては、これら三つの要素は互いにばらばらとなって存在しているのではなく、ある部分においては融合しながら存在しています。ですから、練習においても、それぞれ別個に行うものもあれば、三つを繋げるような基礎練習もあります。しかしながら、ここではこれらの基礎練習内容を、ひとつひとつ取り上げて説明するつもりはありません。なぜなら、基礎練習の方法は様々だからです。例えば、私は「内容」をできる限り正確に持続して捕まえられるようにするために、思考の集中という基礎練習をしていますが、大切なのは「思考の集中」力を身に付けることであり、そのための方法が大切であるわけではありません。その方法は、各自が見つければ良いのです。私が行っている方法を例としていくつか挙げるつもりではありますが、あくまでも、私が伝えたいことは、詩を書くのに必要な能力とは何か、というところです。

 早速、本題に入りますが、まず私が取り上げるのは、言葉に対する感情の育成です。これは前述したところと内容が重複しますが、より基礎練習という視点から述べていきたいと思います。詩はもちろん「言葉」によって書かれるわけですから、詩人は何よりも自らの道具である「言葉」を信頼できていなければなりません。この信頼のあるなしでは、詩を書くに当たって働く直感の力がまるで変わってきます。詩は本来、思考を働かせて書くというよりも、直感的な力で書いていくものです。この直感がより良く働くためには、詩人自身がどれだけ「言葉」を信じているかにかかっています。詩人は、通常の生活のなかで使っている言葉のようにではなく、それ単独で生命を持っているような「言葉」を見つけなければなりません。そのためには、「形式」を利用します。「言葉」そのものは生命を持っていて流動的で、捉え所のないものですから、そんなふわふわしたものをいきなり信頼なんてできません。ですから、まずは形を持っていて固定されているものを利用するのです。ここで用いるものは韻律です。韻律こそが「形式」の代表者です。韻律という固定され、形を持っているものにぴたりと嵌っている「言葉」を体験すればするほど、「言葉」の奥深いエネルギーに感動することでしょう。しかし、先にも書きましたが、自由詩が言われているこの時代において、韻律を用いた定型詩は古くさいものです。そして韻律で書かれた詩は、もはや美しさにおいて極められていると言っても過言ではないでしょう。つまり、この時代に敢えて韻律詩を書いて発表することには、ほとんど意味も価値もないでしょう。それでも本当に自由詩が書きたいのならば、まずはそのための「言葉」を信じるという強い感情を獲得するために、韻律詩を書かなければなりません。そして、韻律詩を書けば書くほど、「言葉」に対する畏敬と信頼の気持ちが湧き上がってくると同時に、定型として身に付いた詩のリズムが、やがて詩人各々の個性によって作り替えられていきます。そうすることで、詩人は自由詩を書くための自由なリズムを手に入れることができます。私は主に、ソネットを書くことでこの練習としています。ソネットは14行韻律詩であり、本来ならば細かなルールがいくつかあります。しかし、もともと西洋の言語のための形式ですから、それをそのまま日本語で使うことはできません。ですから、そこは各自で試行錯誤しながら、韻律詩を作ればいいのです。その作業のなかで、きっと自分のリズムというものが見つかることでしょう。ただし、ここで気を付けなければいけないことがあります。それは、「言葉」が「形式」の奴隷になってしまわないようにすることです。最近では、言葉を逆から検索できる辞書もありますので、それを用いれば誰でもすぐに韻詩を書くことができます。ですが、ここは自分の力で言葉を探さなければなりません。この作業は、最初はとても困難で辛いものです。たかだか14行を書くのにも苦労することでしょう。おそらく最初は、「言葉」が「形式」の奴隷となってしまうでしょう。それでも自分の直感力、言葉の神秘を信じて作り続ければ、そんなに苦労しなくても韻を踏むことができるようになります。まずは不完全韻からでもかまいませんので、とりあえず作ってみて下さい。そのうちに、全てを完全韻で作ることができるようになるでしょう。

 この、韻律詩を書くという基礎練習を続けていけば、次第に定型というリズムがなくても、「内容」と「言葉」から、それらを映し出す鏡として最適な「形式」としてのリズムを見つけ出すことができるようになるでしょう。そうすることで、詩人は本来の「自由詩」への可能性を見出します。定型詩と自由詩の違いは、リズムがあるかどうか、つまり、韻律を持っているかどうか、ではありません。どちらも違う形のリズムを持っているのです。両者の違いは、韻律をもっているかどうか、ではなく、どのような韻律を持っているか、です。定型詩の韻律は、言わば与えられた韻律です。それは大いなる自然、大いなる言葉の持つ叡智から取り出された形であり、人間のものではありません。逆に、自由詩の韻律は、それを書く詩人各々が持つ、誰のものでもない、ただ世界で自分だけの固有の韻律です。それは自然や言葉から与えられたものではなく、自らが詩のために提供する「形式」なのです。

 詩を書くための基礎練習は、前述の通り大きくみっつに分けられますが、最終的には、そのほとんどが、自由詩という目的に行き着きます。数千年前の詩人にとって、詩とは与えられるものでした。彼らの魂にとって可能だったのは、言わば啓示としての詩だったと言えるでしょう。ですから、ギリシャ時代の詩人は、自分の詩を書こうとはしませんでした。神的なものの道具として自分を位置付け、天からの声を代弁する者が詩人だったのです。そこには自由がありません。「内容」も「言葉」も与えられたものであり、「形式」も、定型という与えられた形でした。そこから、人間は成長していきました。現代を生きる詩人ならば、かつてのあらゆる束縛から抜け出し、真に自由な詩を書くための可能性があります。まず私は、「形式」において自由となる方法を述べました。同じように、「内容」と「言葉」においても、詩人は自由を求めなくてはいけません。

 上述した、言葉に対する深い感情の獲得、という基礎練習は、「形式」における自由へ繋がるだけではありません。もちろん、「言葉」における自由へも誘ってくれます。ただし、「形式」を用いる練習においては、あくまで「形式」の自由が獲得できるだけに留まります。「言葉」における自由を得るためには、また別の基礎練習によって、言葉に対する深い感情を持てなければなりません。そのためには、「言葉」を単なる記号として捉えるあり方から脱却する必要があります。詩はパズルではありません。ひとつひとつの言葉を、ピースのように組み合わせて全体を創るというやり方は適切だと言えないでしょう。詩における言葉は、どのひとつを取っても独立しているものではなく、どこかとあらかじめ結びついています。私達の体が、全体から切り離された部分としては生きていくことができないように、詩のなかの言葉も、全く同じ意味合いにおいてそうなのです。詩人としての基礎練習のひとつとして、言葉を有機的イメージとしての連なりとして捉える、というものがあります。「りんご」という言葉は、日常生活のなかでは立派な意味を持ちます。ですが詩において「りんご」という言葉は、それ単独では真の意味を持つことができません。いったい、自分にとっていかなる「りんご」が重要なのか、そういった視点で世界を見ていくと、「りんご」という言葉は単なる言葉であることをやめて、実際の「りんご」と結びつきます。しかし、このようなやり方を世界の全てに対して、あらゆる場合、場面について行うのは、限りなく不可能です。なので、ここは人類が積み重ねてきたもの、そしてかつてまだ超感覚的知覚が今の人間よりも残存していたころの名残りを学ぶという手段があります。象徴を使うのです。辞典を使って構いません。「りんご」がどういうものと結びつけられ、意味を蓄えてきたのかイメージして下さい。しかし、シンボル辞典をただ読むだけでは何の役にも立ちません。むしろ、そこに書かれているひとつひとつを覚える必要はまったくありません。そこに書かれていることを、ひとつひとつ丁寧にイメージしていけばいいのです。そしてそのイメージに対して適切な感情を湧き上がらせるのです。それを続けるうちに、言葉がイメージになってきます。また逆に、イメージが言葉になってもくるでしょう。そうすることで、「内容」=ヴィジョンを、生き生きとした「言葉」のイメージで思い描くことができるようになります。詩人が「言葉」の自由を手に入れる可能性は、日常会話で用いる言葉から抜け出す時に得られるのです。ですから、詩というものは日常会話の言葉を理解するように読んでも、理解できないのです。

 もう少し、詩における「言葉」が自由を獲得するということを掘り下げてみましょう。いったい、「言葉」において自由を得た時、詩人は詩をどう変化させることができるのでしょうか。これにはまず、「言葉」における自由を持たない状況を考えてみるのが良いと思います。前述したように、ギリシャ時代の詩人にとって、「言葉」は自らの内から出てくるものではありませんでした。その意味で、当時の詩人は「言葉」における自由という問題以前のところにいたのです。天からの啓示が自らを通り、そして言葉として表出してきたものを記す、というのがより的確な表現となるでしょうか。言ってしまえば、彼らにはまだ、自由という可能生が与えられていなかったのです。ですが時代を下って現代まできますと、私達ひとりひとりのなかに、自由へと辿り着くための可能生が眠っています。詩人はこの眠れる可能生を呼び覚まさなければいけません。24時間常に起きている必要はなくとも、少なくとも詩を書く間だけは、自分の内に自由が完全に目覚めている状態を保てなければなりません。そうすることで、詩人の用いる「言葉」は、借り物としての言葉から、言わば個性そのものへと変化するでしょう。「言葉」における自由が目覚めていない状態で詩を書きますと、「内容」と「形式」をうまく繋ぎ合わせることができません。「内容」は生命を持っています。そして「形式」は生命を持っていませんので、言わば死せるものです。その間を取り持つものは、自らの生命を奉仕できるものだけです。自由でない「言葉」は、まず「内容」を把握することができません。「形式」に対しては合わせることができるでしょう。ですからその場合の詩は、「言葉」と「形式」だけでできた、言葉遊び的なものにしかなりません。そこには「内容」としての意味が含まれませんから、言ってしまえば無意味な数式と同じです。生産性のない記号遊びと言ってもいいでしょう。しかしなかには、「言葉」と「形式」だけでできた詩のことをナンセンス詩と呼んで擁護する方々もいます。ですが、ナンセンス詩に「内容」がないわけではありません。そこにもしっかりとした「内容」があります。ナンセンス詩と呼ばれるものの場合、「形式」の取り方が特殊であるだけです。

 詩に限らず、あらゆる創作物は受け手に対して生きるためのエネルギーを流入します。エネルギーの種類はたくさんありますが、私達はあくまで、生きたエネルギーを受け取らなければなりません。ですから、創作者は常に、自らの作品に生きたエネルギーを込めなければならないのです。それは食事とサプリメントの関係に似ています。どちらにも、体を動かすために必要なものが含まれています。しかし、食事が生きたエネルギーであるのに対して、サプリメントは死んだエネルギーです。サプリメントだけで生きていくことは人間にはできません。同じように、創作物に関しても、生きたエネルギーが重要となるのです。そのためには、できるかぎり正確な「内容」を取り出してこなければなりません。詩が本来的な働きを成すためには、絶対的に「内容」が必要となります。それを「形式」のなかで表現できるのは、自由を得た「言葉」だけです。

 いかなる場合にも、「内容」は自由であり続けます。もちろん、ここでいう「内容」とは、正確な霊視ヴィジョンを指します。それはつまり、詩人が「内容」を捉える時、その中身は完全に詩人の個性であり得るということです。世界のなかに、真理というものはたったのひとつしかありません。そしてその真理は、全ての人間が共有しています。人間はこの真理のなかから、自らの環境や個性に合ったものを取り出しますが、その時に、違いが生まれるのです。仮に、取り出されたものだけを比較して、「あなたのものよりも私の取り出した答えのほうが優れている」と言ってしまうと、そこで争いが生じます。ですが、本来的に私達が属している根源の部分は、全ての人間において共通しているのです。自由はその先から生まれます。真理に操られている状態が、ギリシャ時代の詩人達です。ですが今は、真理から一歩を踏み出し、自分でそこから何かを生み出すという可能生が全ての人間に与えられています。この、生み出すという行為を、真理以外の何ものか(文化、家訓、規則、環境など)によって規定していまうと、自由の可能生は消えてしまいます。真理に対する最高に能動的で積極的な態度が自由です。そうすることで詩人は、真理から自分だけの霊視ヴィジョンを取り出すことができます。ですから、霊視ヴィジョン=「内容」は、常に自由なのです。しかし、ここでいくら自由な「内容」を取り出したとしても、それを最後まで自由詩という形で表現するためには、「言葉」もやはり自由である必要があります。自由な「言葉」が「内容」の自由を損なうことなく、自由な「形式」に結びつけることができた時、初めて自由詩が完成します。そのためには、詩人が用いる「言葉」は、どんなものにも規定されていてはいけません。言葉を国語辞典に載っている意味でしか使えないのであれば、詩から自由は消えてしまいます。ここでもまた、詩人が使う「言葉」は、あらゆる文化、規則、環境に縛られることなく、「言葉」が持つ本来の生命力だけを頼りに用いられなければなりません。ですから、「りんご」が果物のりんごである必要はどこにもないのです。詩のなかで「りんご」と書かれたそれは、意味としては人の頭部であってもいいのです。そして、「りんご」を「人の頭部」にするものもまた、「言葉」自身です。そうして変化する生命力そのものとなった「言葉」は、「形式」という意味のなかに、自由な「内容」を映し出すのです。

 ここまで、自由詩において「内容」「言葉」「形式」の全てが自由を獲得しなければならない理由も含めつつ、「言葉」と「形式」の自由の獲得方法を述べてきました。そのなかで「内容」における自由についても触れましたが、詩人が幻視から霊視ヴィジョンへと成長するための基礎練習も、簡単に記そうと思います。しかし、これに関する詳細は、私には残念ながら述べることができません。ただ言うことができるのは、瞑想をすることです。思考内容に対して豊な感情を喚起させるような、そんな瞑想です。ルドルフ・シュタイナーに倣い、私はここで薔薇十字の瞑想法を推奨したいと思います。詳しい行法については、シュタイナーの書籍(神秘学概論:ちくま学芸文庫 高橋巌訳)を参考にして頂ければと思います。加えて、霊視ヴィジョンをより正確にするための基本的な5つの行についてもごく簡素にではありますが触れておきます。それを箇条書きすると、「思考の修行」「感情の修行」「意志の修行」「積極性の修行」「公平性の修行」です。この5つの行は、続けることで詩人としてのみならず、人間としての豊かな成長にも繋がるでしょう。こちらも、詳細についてはシュタイナーの書籍をご参考下さい。

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