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詩の認識――鏡としての森羅万象  作者: 武田 章利(Sai)
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詩とは何か

 久しぶりに「小説家になろう」を覗いてみたら、路瀕存さんが大変興味深い詩論を書かれていて、それに触発される形で、私も書いてみようと思い立ったわけです。私は以前、芸術のあり方を論じた「ファンタジー論」をこのサイトに載せましたが、詩についての論は、今まで何度か挑戦しようとして、全て途中でやめております。自分のなかでまとまらないから、という理由ではありません。それが、一般的に見るととても「詩論」と呼べるものではないからです。なぜなら、論のための認識内容が――おそらく多くの詩人と比べて――異なっているからです。また、よくあるハウツー本のように、「詩はこう書く」という即席的なものを書くつもりもありません。よく、「自由詩はその名の通り自由だから、何を書いてもいい」と言われ、確かにそれはある意味においてその通りであり、つまり、誰でも詩というものを簡単に書けるのです。ですが、それは決して、日本の詩において良いことではないと思うのです。そもそもが、そんな風に言われるからこそ、教育制度のなかで詩というものがなおざりにされ、教師と言えども「詩の書き方」が分からず、教えることもできない、という状況なのです。ここで私は、はじめにはっきりと言っておきたいと思います。「詩の書き方」は存在します。それは、絵の書き方が存在するのと全く同じ意味において、存在します。だから、私は「詩はこう書く」という内容のものを、書くことができます。ですが、前述した通り、それを即席的にできるようになるもの、として書くつもりはないのです。最初から上手な絵が描けないように、そして上達するためには努力と忍耐が必要なように、詩においても、やはり練習が必要であり、たゆまぬ努力と忍耐が必要なのです。しかしそれ以上に私が言いたいのは、以前に「ファンタジー論」でも書いた通り、書き手の道徳的な配慮やエネルギーのことです。詩は、自由詩は、確かに誰でも書くことができます。しかしそれは、「絵は誰でもすぐに描ける」と言うのと同じ意味においてです。同時に「絵を描くのは難しい」と言われるように、やはり、詩を書くこともまた、相当に難しいことなのです。それは技術的な話だけではありません。創り手である以上、その人はひとつの責任と義務を負うことになります。人間によって創造されるものは全て、私達の社会をより良くしていくための原動力にならなければなりません。創作の受け手は、創り手がそこに込めた思いやエネルギーを受け取ります。それはもちろん、目に見えるものではありませんが、確実にその受け渡しは行われるのです。それが、創り手の負う責任と義務です。言わば「使命」のもとに、創り手は作品を創ります。詩人がその創作において、常に忘れてはならないことのひとつが、それだと思うのです。だからこそ私は、そういった視点を含めつつ、ひとつの小さな、詩に対する認識をこれから展開していこうと思います。

 詩の話をするわけですから、まずは「詩とは何か」という根本的命題に触れておこうと思います。とは言っても、私はよくされるような、「詩を定義する」といった作業をするつもりは全くありません。そもそもが、そんなものは定義できないのです。過去から現在にかけて詩と呼ばれるものがいかに変化してきたか、それを少し思うだけで、定義付けが全くの無意味であるということに気付きます。こう言ってしまうのは、少し乱暴かもしれません。定義付けがいかなる場合においても必要ない、というわけではないのです。詩の話をするにあたって、ある時には、しっかりと詩の定義付けをしないといけないこともあるでしょう。誰かと誰かが詩について語り合うのならば、二人の共通言語として、「詩の定義」が必要となるでしょう。しかし私がこれからしていきたいのは、誰かとの詩についての討論ではありません。最終的には、「詩はこうやって書くのだ」ということを示唆したいだけなのです。だから、最初から定義付けをしてしまうと、詩というもののイメージが膨らみにくくなるでしょう。そうすると、それこそ「自由詩」を書くことができなくなります。私はむしろ、詩の書き方を、絵でいうところのスケッチにあたるものから説明していきたいのです。つまり、ここはこう、そこはこう、というような、技術面だけの話ではなく、むしろ時間経過的なやり方で、まずはこれを、次にはこれを、という風に書いていくつもりです。

 ですが、詩を構成しているいくつかの要素については、ここである程度はっきりさせておく必要があるでしょう。定義付けというよりは、概念構成、といった具合でしょうか。言わばここから先のための、共通言語を作っておきたいのです。

 共通言語として私が選ぶものは、「内容」「言葉」「形式」のみっつです。違うものを選んでも良かったのですが、これを書くに至った動機が路瀕存さんの書かれた詩論であり、その内容が「内容と形式」についてのものでしたので、私もそれに倣うこととしたいのです。

 まず「内容」ですが――不親切だというのはよく分かっていますが、この最初の部分から、私は遠慮なく超感覚的な態度を取るつもりです――、詩における内容とは、霊視のヴィジョンです。それ以外にはありません。と言いますのも、ある人物が何かを表現したいと思った時、それを敢えて詩の形にするのだとすれば、その「何か」とは、霊視内容が最も適切なものだからです。もしもある特定の感情を表現したいと思うのならば、その方法として詩よりも音楽を選んだほうが遥かに効果的です。帰納法的なやり方ですが、詩という表現方法に最も適した「表現したい何か」とは、霊視内容です。抒情詩、というものがありますが、本来の抒情詩とは、自分の気持ちを言葉で表現するものではなく、ある特定の気分(=抒情)を喚起させるようなヴィジョンを描いているものを指すのではないでしょうか。その意味において、全ての詩は抒情詩と言えるでしょう。ここで少しフライングして、詩の書き方に触れますが、ある意味において全ての詩は抒情詩だと言えるからこそ、抒情詩は詩人にとって、最も適した基礎練習となります。私は抒情詩を、習作と位置付けています。これは決して、抒情詩を低く見ているわけではありません。むしろ全ての基礎となる、最も大切な部分のひとつとして、私は抒情詩を位置付けているのです。

 もう少し、霊視内容について見てみましょう。もちろん、欲を言えば詩人であるなら、本来の純粋な超感覚を身に付け、歪みのない霊視内容に触れるべきですが、そこまでしなくても詩を書くことはできます。霊視の下位の能力として、ここでは「幻視」という言葉を使います。霊視とは超感覚的な能力によって認識することのできるヴィジョンですが、幻視はそれとは違い、その内容の全てが超感覚的能力によるものではありません。あるいは妄想的なもの、単なる空想的なものも含まれるでしょう。ですが、最初はこれでいいのです。完全な霊視能力を身に付けなければ詩は書けない、というわけではありません。そもそもが、詩の内容は確かに霊視ヴィジョンですが、表現の形として最終的に現れる言葉は、詩人の直感によるものであるべきです。これだけ言うと誤解を受けるでしょうが、「詩とは直感で書かれたものである」と言うことは十分できるでしょう。しかし、いつまでも幻視に留まっていてはいけません。詩人として全うに成長するためには、やはり幻視から霊視へと段階を上がらなくてはいけません。その努力はおそらく多くの人にとって途方もないものです。ですが詩人を目指すのならば、その道を決して諦めないことです。仮に、幻視で満足してしまい、いつまでも幻視で書き続ける道を意識的に選んだならば、その人はいつか詩が書けなくなるでしょう。下手をすると、精神的な病にかかってしまうでしょう。逆に言えば、精神的な病をもともと抱えている人が詩を書く場合、その内容は幻視です。そこから霊視への道を辿ろうとするならば、その人は精神的な病からいつか脱することができるでしょう。

 霊視とは、言わばヴィジョンですから、あるいはこういう言い方も許されるかと思います。「超感覚的な世界内容を言葉で模写すれば、それは詩になる」 画家は、風景を絵具と筆によって描きます。それと同じような具合に、詩人は霊視内容(=ヴィジョン)を「言葉」と「形式」で書く、と言うことができるでしょう。そして、これは私が感じていることですが、ここでいう霊視内容とは、ヨハネ福音書の冒頭に書かれている「はじめに言葉ありき」の「言葉」のことでもあります。もちろん、ここで取り上げた「言葉」と、詩の構成要素のひとつである「言葉」を混同してはいけません。このふたつはある意味共通したものでありながら、全く別のものでもあるのです。便宜的に、前者の「言葉」を「ロゴス」と呼ぶことにします。聖書にあるように、全てのものは「ロゴス」から創られています。そして「ロゴス」は、今もまだ継続して世界を創り続けています。どうか、宇宙の全てが、その始まりにあった「ロゴス」によって創られ、今もなお創られ続けているということをイメージしてみて下さい。そのような根源的なものを、同じく「ロゴス」によって創られた私達の「言葉」で描くことができる、という能力が、人間には与えられているのです。だからこそ、私達は詩を書くことができます。詩人であるための最も大切な資質は、この「言葉」を信じることだと思います。「私はロゴスを描きたい。そのための道具として言葉を使うが、この言葉もまた、偉大なロゴスによって巧みに創られたものなのだ。だから、感覚的なものを超越した、本来であれば説明不可能なロゴスであっても、私は言葉によってそれを表現することができる」このような感情を強く持てるということ、それが詩人であるための第一歩ではないでしょうか。そのための方法は、後述するつもりです。

 さて、「言葉」が出てきましたので、焦点を「内容」から「言葉」へ移したいと思います。「語」を選択するという行為については、それを「形式」だと位置付ける場合と、「内容」に含まれる、とする見解とがあるようです。まずは後者のほうを考察してみましょう。これまで見てきたように、「内容」とは霊視のヴィジョンですから、「語」を選択する行為を「内容」に含めてしまうと、ある意味においてそれは正しいように見えるかもしれませんが、明らかに異質なものを混同してしまうことにもなるでしょう。「語」を選択する行為とは、純粋に人間の精神活動のひとつです。日常会話でこの行為を行う場合だと、「思考」という精神活動を行うことになります。しかし詩においては、同じ精神活動でもその中身は異なります。前述したように、詩における「言葉」は直感から生まれたものであるべきだとすると、詩において「語」を選択する行為とは、「直感」という精神活動になります。注意しないといけないのは、霊視のヴィジョンと、ここで言う「直感」とは、別ものであるということです。霊視は、超感覚的器官によって認識された光景(もちろん、この「光景」という言葉は比喩です)のことですから、そこまで高次の感覚を用いなくても得られる「直感」とは、本質的に全く違うものなのです。仮にこれを混同してしまうと、その人はいつまで経っても幻視を純粋な霊視のヴィジョンだと勘違いし続けることになるでしょう。逆に言うと、まだ詩の「内容」が幻視であるうちは、「語」を選択する行為が「内容」に含まれると言っても間違いにはなりません。

「直感」とは、思考作業という過程を踏まずに現れる概念形成です。概念とは、ひとつのものではなく、あらゆるイメージが総合的に組合わさった上で理解されるものですから、「直感」で得られる語は、単なる単語や記号として現れるのではなく、その詩を詩たる形式とする一連の関連性として存在するはずです。このことは「言葉」という要素を考える上で非常に大切なことです。これだけの考察だと、「「語」を選択する行為は「形式」に含まれると考えてよい」と捉えられてしまいますが、私は、それとも違う見解を示したいのです。そしてそのことによって、詩を構成する第二の要素である「言葉」に対してのイメージを形作っていこうと思います。

 詩における「言葉」は、常に集合体として存在しています。つまり、あるひとつの詩に書かれている特定のひとつの単語を取り出してきたとして、その単語がもともと持っている意味そのものは、詩のなかにおけるその単語の意味とならない、ということです。絵具と絵画全体との関係性と比べることができるでしょう。赤色はそれ単色では赤色という意味合いを持っていますが、絵画全体のなかにおいては、単なる赤色ではありません。その周りの色との対比において、様々な意味を持つことになります。詩の場合も同じで、あるひとつの単語の意味は、その他の言葉と有機的に連なるなかで生まれてきます。

 しかしながら、詩の意味というのは、書かれた言葉が持っているのではありません。おそらく、これが詩を難解なものにしている原因のひとつでしょう。詩の意味は、それを構成している言葉そのものにあるのではなく、その言葉同士を繋げている特有のリズムのなかにあるのです。言い換えると、詩の「内容」は「言葉」によって規定されるのではなく、「形式」によって規定される、となります。ですから、簡単な図を書きますと、詩において、「内容」の言わば対極に「形式」があります。そしてその真ん中で、両者を繋いでいるものが「言葉」となります。「内容」は霊視のヴィジョンですが、詩における「形式」とはそれとは全く逆で、完全に感覚的なもの、地上的なもの、現象的なものであり、実際の形そのものです。つまり、超感覚的なヴィジョンを感覚的なイメージに置き換えよう、もしくは入れ込もうとする作業が詩作であり、その両者を繋ぐ橋が「言葉」です。ですから、「語」を選択する行為は、基本的には「形式」にも「内容」にも含まれてはいません。その行為こそが詩作の中心的作業となり、「内容」を「形式」に変えていくのです。そして、「言葉」がこの役目を果たせるように、詩人は「言葉」の持つ可能性を探り続けてきました。その最も大きな遺産が、象徴という技法だと私は考えています。これにより、「言葉」はそれまでになく自由な存在となりました。言葉が持つ単純な意味を越えて、まるでひとつの生命であるかのように、詩のなかで象徴としての言葉が、他の言葉と関係性を作っていくのです。まるで人間とそれを形作っているひとつひとつの細胞との関係性のようです。

 ここにおいても、私達は「言葉」の持つ本当に大きな力を感じることになるでしょう。そのひとつを体験できるのが、韻です。西洋の詩は昔からずっと韻が踏まれてきました。日本の詩においては韻がほとんど考慮されないというのは、非常に残念なことです。なぜ韻を踏まないといけないのか、という問いが当然のように起こるでしょう。それに対する答えは様々かと思います。例えば、「韻を踏むことで、創り手が想像もしなかったような言葉の飛躍、意味の飛躍を起こすことができる」というものもあります。しかしこれでは、「言葉」が「形式」に使われているような形です。「言葉」の真の力を感じるのは、むしろこの逆のことが起こりうる時なのです。つまり、「韻という「形式」、つまりは規則を予め用意していたとしても、言葉はまるで、最初からその規則に合わせて用意されていたかのように、言葉自身の自由度を保ちながら、「形式」にぴったりとはまりこんでいく」という驚くべき体験です。「言葉」と「形式」は、主従関係にあるのではありません。これらはあくまでも同格です。「言葉」は「形式」から独立しており、それによって、「形式」という意味を持った光景を描くことができるのです。だからこそ私は、韻律詩を書くことを強く勧めます。もちろん現代において、韻律詩はもはや古くさい、と言う者もいるでしょう。それは私も正しいと思います。自由詩というものがある現代において、韻律詩は事実、古くさいのです。ですが、デッサンのできない者が上手く絵を書けないように、韻律詩が書けない者もまた、上手く自由詩を書くことができないでしょう。韻律詩を書くことで、「言葉」を信じるという強い感情を得ることができます。そして韻律という「形式」のルールを学ぶことで、結果的に自由詩のための内なる「形式」を手に入れることができるのです。

 それでは最後に、「形式」に焦点を当てましょう。私は先に、詩の「内容」は「形式」に規定されると書きました。そして、超感覚的な「内容」を感覚的な段階にまで降ろしてきたものが「形式」だとも書きました。これだけを見ると、「内容」=「形式」であるかのように思われるかもしれません。それはある側面からすると全く正しいことですが、しかし、現代詩においては、まさにこの点にこそ、最も注意しなければならない落とし穴があるように思います。確かに、詩の「内容」はそれぞれの「形式」によって規定されるでしょう。ですが、これは「内容」が「形式」そのものであると言っているわけではありません。なぜなら、詩における「内容」と「形式」は、全く別次元のものだからです。それらは互いに比較することはできても、本来、全く異なる姿をしています。「内容」は前述した通り、超感覚的な認識であり、通常、この認識を、人間の言葉で直接的に表現することは決してできません。人間の言葉の全ては、あくまで感覚的認識のために用意されたものだからです。本来、言葉とは感覚的に把握できるものしか表現できないのです。一方は言葉で直接的に表現できるもの、一方はできないもの、と考えると、両者を一致させることは全くもってナンセンスだと思わざるを得ないでしょう。

 しかし、実際には、現代詩において「内容」と「形式」がイコールで結ばれている場合は多々あるのです。ですがこれは、あまり良いことだとは言えません。この両者を混同してしまうと、作者は詩におけるもうひとつの重要な要素である「言葉」を無視してしまうことになります。もちろん、詩はあくまで言葉によって書かれるものなので、「内容」と「形式」がどんな関係を持とうが、詩から言葉がなくなるということはないでしょう。しかし、「内容」と「形式」が直接結ばれることで、本来であればそのちょうど間に入るべき「言葉」は、居場所を失ってしまいます。すると、詩における「言葉」は生命力を失い、ただの意味、もしくは記号になってしまいます。そして詩そのものも生命力を失い、ただの言葉の羅列となってしまうでしょう。それは人間の思考には働きかけるかもしれませんが、それ以外の何ものにもエネルギーを与えることができず、まるで抜け殻のように立ち尽くしていることでしょう。そもそも、詩における根底的な生命とは、「内容」にしか存在しません。「言葉」も生命を持っていますが、詩に組み込まれた瞬間から、「言葉」は自らの生命を主張することを放棄し、ただ「内容」が持つ生命のために奉仕し始めます。それが「言葉」の使命なのです。「形式」のみが、それ単独では生命を持っていません。これは言わば、良くできた土人形なのです。それは感覚的に、とても見事な仕組みや美しさを持っていることでしょう。しかし、生命だけは持っていません。それが生命を持てるのは、「内容」という生命が、「言葉」自身の奉仕活動によって「形式」に反映される時のみです。鏡を想像して下さい。「形式」は鏡です。「内容」が原像であり、「言葉」が光です。そのどれが欠けても、私達は鏡像を見ることができません。詩は、言わば鏡像です。

「内容」と「形式」を混同してしまうと、あたかも死体が生きているかのような錯覚に陥ってしまいます。もちろんそれは幻想に過ぎません。人間は通常、感覚的世界しか知覚できませんから、「内容」と「形式」を一緒にしてしまうと、「形式」の部分しか見えないのです。ですから、見た目には「内容」と「形式」が一致しているように思えます。例えば、前歯が出ている人間のことを、げっ歯類の動物に似ている、という意味で「彼はねずみだ」と言うとします。しかし、「彼」と「ねずみ」とは、決してイコールではありません。詩における「内容」と「形式」の関係も、これに似ています。「彼」が「内容」であり、それを説明するために、話者は「ねずみ」という「言葉」を使いますが、ここに含まれているものが「形式」です。つまり、比喩という「形式」を用いたことになるわけです。

 実際の詩においては、前述した通り、「内容」が霊視ヴィジョンそのままの姿で現れることはありません。となると、「いったい詩とは何を書いているものなのか」という疑問が当然のように浮かび上がってくるかと思います。私達が詩を読む時、そこに表れているのは「言葉」と「形式」だけです。作者は、「言葉」を用いて「形式」のなかに「内容」の言わば残照を示すわけですが、これでは、読者が詩を通して「内容」に至れる可能性は全くないように思われます。すると、結局のところ詩とは、作者が伝えたいところの「内容」に関しては詩人自身にしか分からないもので、読者は「形式」とそこに押し込められた「言葉」を楽しむことしかできない、となってしまいます。これは全く正しいことです。詩とは本来、その性質上、どうしてもそうならざるを得ないのです。そして多くの詩が「形式」と「言葉」だけ捉えられ、様式美や言葉の使い回しばかり批評されてきました。しかし、本来詩とは、読者によって批評されるようなものではありません。詩はあらゆる批評から遠ざからなければならないのです。なぜなら、詩は思考的に読むものではないからです。感情的に読むものでもありません。詩は、人間が全身全霊をかけた意志で読むものなのです。繰り返しますが、詩には表面上、「言葉」と「形式」しかありません。そして、思考や感情のみで読もうとする限り、そこから飛躍して「内容」を体験することはできません。ですから、「言葉」と「形式」だけが取り上げられ、「形式」のこの部分はもっとこうしたほうが美しいだとか、「言葉」のこの部分はもっと違う言い回しのほうが良いというような、不毛な議論が始まってしまうのです。ただ、意志的に読もうとする時、詩の表面的な形から抜け出して、詩人が伝えようとした「内容」に至る可能性が現れます。私達は霊視ヴィジョンを、「言葉」と「形式」によって示されたものを行為することで、体験することができます。ここに詩の最大の特徴があります。仮に「言葉」だけしかなかったとすれば(つまり小説やエッセイのような形)、読者はその「言葉」を理解することはできても、霊視ヴィジョンを体験するためにその「言葉」をどう行為すればよいかまでは分からないでしょう。音楽で例えるならば、「言葉」はひとつひとつの音符であり、「形式」はそれら音符の楽譜上の並び方です。音符だけしかなければ、奏者はその音をイメージすることはできても、全体の音楽までは理解できないでしょう。それと同じように、詩における「形式」とは、行為の仕方なのです。これが最もよく現れるのがリズムです。読者は、詩が持つ特有のリズムによって、書かれている「言葉」をどう行為すればよいのかを理解するのです。しかし、ここでいうリズムとは、決して音楽的なリズムではありません。もちろん、古来からある定型詩の場合、そこに見られるリズムは非常に音楽的だと言えます。しかし自由詩の場合には、この音楽的リズムを捨て去り、本当に詩独特のリズムを用いなくてはいけません。これに関しては、萩原朔太郎も少し触れています。しかし彼は、このリズムを説明することはできない、と述べています。詩におけるリズムとは言わば以心伝心であって、言葉で伝えられるものではない、と言っているのです。同じく私も、自由詩におけるリズムを説明することはできません。実際に詩を読んで体験するしかないのです。

 ともかく、リズムを代表とする詩の「形式」によって「言葉」を行為する時、読者は、作者が認識した「内容」=霊視ヴィジョンを体験することができます。これが、本来の詩の読み方です。もちろん、詩を読むのに思考や感情は全く必要ない、と言う気はありません。むしろ逆に、意志で行為するべき詩は、思考によって豊かにイメージされ、感情によって内的に深く沈ませる必要があります。思考も感情も必要なのです。ただ、中心となるのが意志であり、それはどんな場合においても、詩を読むのならば必要不可欠だということなのです。

 これで、詩の重要な構成要素である「内容」「言葉」「形式」について、一通り述べられたかと思います。上述の内容を受け入れて下さるならば、いったい詩とは何によって構成され、動いているのか、それを少しばかりでも共有できることと思います。まだまだ説明不足の点もあるかとは思いますが、その補足も加えつつ、視点を詩人側に、つまりは詩を創る側に移して、「ではいったい、詩はどうやって書けばいいのか。まずは何をすればいいのか。そしてどうすれば上達していけるのか」に触れていこうと思います。

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