井戸を覗く少女 11
探偵はゆっくりと繰り返した。
「つまり、井戸も古来より特異な場所だと認識されていたんだ」
「実際中国では、井戸を覗いて未来を占う卜占が流行した時代がある。特に宮廷の女官の間で人気があったとか。井戸さえあれば容易に出来る占いだからね」
今回、探偵の話は何処へ行き着くのだろうか? いつもの美術論にも増して難解である。
全くわけがわからず戸惑うばかりの助手は鸚鵡返しに聞き返すのが精一杯だった。
「井戸で……占い?」
「そう。そして、ここからが肝心な点だ。その術を受け継ぐ占い師が我等がK市の中華街、南京町にいたらしい。残念ながら今回、僕は探し出せなかった。その為、占いの詳細はわからないのだが」
ここで興梠は勢いよく椅子から立ち上がった。書棚の前へ行くと一冊引き抜いて戻って来る。
「とはいえ、ある程度の推測は可能だ。例えば――5世紀半ばの范瞱の『後漢書』東夷伝にこんな伝承が載っている」
さっき開いた美術書の上に今度は分厚い書物を置く。
志儀は恐る恐る覗き込んだ。
朝鮮半島・東北方東沃国の東の海の彼方にある女国についての伝承
《 東方の海中に女国あり。その国の神井を覗けば
直ちに孕み子を生む…… 》
「僕は、この記述と宮廷の女官が好んだことを念頭に〈井戸占い〉がどんなものだったか推理してみた」
探偵は人差し指を顎に当てる。
「卜者に何がしかの呪いを施してもらった後で井戸を覗くのさ! するとそこに或るものが映って見える。果たして、禁裏で寵愛を競い合った官女たちが見たがったものとは――」
志儀はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「一体……何?」
「将来自分が生む子供の姿」
「へ?」
すぐには理解できなかった少年の為に、探偵は今一度繰り返した。
「井戸を覗くとそこに自分の子供の顔が見える。これだよ!」
「? ? ?」
皇帝の子供を身篭ることの重大さが少年には理解できないようである。
チンプンカンプンの中学生に探偵は言った。
「話を先に進めるよ?」
「あ、どうぞ」
「さて、ここに一人の少女がいて、彼女は女学校に通っているが実は既に人妻だった。
学業よりも愛する夫の子を妊娠するのを強く望んでいたのだが、医師には子供の出来難い体だと宣告された。少女は諦めきれず様々な神仏や呪いに縋った後で、遂に中華街の南京町に辿り着き中国人の占い師にこの井戸占いを頼んだ……」
「ま、待ってよ、じゃ、その娘が?」
こういう話なら理解できる。志儀は即座に応じた。
「チワワの目撃した〈井戸を覗く少女〉なんだね?」
「名前もわかっている」
「凄い! 流石、興梠さんだ! 何て名? 何処の誰なの? 早く教えてよ!」
「内輪菊乃」
暫しの沈黙。
ややあって志儀が喜びの声を上げた。
「内輪だって? チワワと同じ苗字じゃないか! あ、そうか! ひょっとして親戚筋? なるほど、それなら、近くに住んでいるかも――」
「親戚も何も――」
眉間に皺を刻んで探偵は告げた。
「若葉君のお祖母さんだよ」
―― お教えください!
18歳のその若奥様、菊乃さんは当時セーラー服を着ておられた?
追いかけた探偵の言葉に老人は振り向いた。満面の笑顔で頷く。
―― 勿論じゃ!
第一K高等女学校はハイカラな我が街に似合いの気風で、
早くから洋装……
今で言うセーラー服を着用している女学生が多かった!
中学生の顔に戻ってうっとりと目を細めて老人は言った。
―― ああ、ほんとに可愛かったなあ、菊乃奥様!
よく井戸を覗いてるのを幸いに、
僕も時間が経つのを忘れて見惚れていたものさ!
「……馬鹿な! 嘘だ!」
「嘘じゃない。詳細は僕が確認済みだ」
興梠はビューローの引き出しから手帳を出して立ったまま調査結果を読み上げた。
「内輪君のお祖母さん、内輪菊乃さんは明治36年(1903)8月、女学校の3年生の夏休みに当時の内輪家嫡男・雅明氏と結婚。結婚先の内輪家から卒業までの期間、女学校へ通った。これは昔は良くある話だった。そのK高等女学校の創立が1900年。菊乃さんは栄えある第一期生だったんだ! なお第一K高等女学校は大正9年(1920)6月1日を持って完全洋装制服、つまり、生徒は全員セーラー服着用となった」
手帳を閉じると厳かな口調で探偵は言った。
「内輪菊乃さんは15年前に他界している」
「つまり、それって……チワワが見た〈井戸を覗いてる少女〉は……幽霊だってこと?」
「そう考えれば全て辻褄が合うんだよ」
志儀の座るソファの前の椅子へ興梠は戻って来た。深く腰を沈め、真直ぐに助手の瞳を覗き込む。
「当時を知る老人から僕が聞いた話では、その頃、井戸は枯れていなかったそうだ。だから、井戸を覗いて、そこに子供の顔が見えるのを少女――若葉君のお祖母さん――は期待して覗き続けていたんじゃないだろうか? きっと、井戸の水に子供の顔が映って見えたら妊娠できる……みたいな事を占い師に言われたのだろう」
「井戸を覗き続ける……? 昼だけじゃなく……夜も?」
「多分ね。だが、夫――若葉君のお祖父さんだよ――は若妻のそんな憑かれたような行動に不安を覚えた。それで、井戸に蓋をして厳重に封印した……」
「あの、あのさ」
志儀は口をパクパクやった。その様子を窓辺からノアローがじっと見ていた。大好きな金魚みたいだったから。
「じ、実は、僕も見たんだ! 昨夜、真夜中、井戸の底にいる時、天井から覗き込んでる女の人を!」
「僕は驚かないよ」
意外にもあっさりと頷く探偵だった。
「今、君自身が言った〈天井〉というその言葉。天井の〈井〉は井戸の〈井〉だ」
「はあ?」
この期に及んで、また何を言い出すんだ? 帝大で美学を学んだこの探偵は!
「井戸の竪穴は円筒だが、古くは井口はその字の通り井桁に組んだんだよ。
この〈円〉と〈井桁〉=〈方形〉を組み合わせたデザインは古代から〝天と地の境界を象徴する神聖なシンボル〟なんだ。嘘だと思うなら銅鏡を見てご覧」
今度探偵が書棚から引っ張り出したのは古代の遺物に関する書物だ。
発掘された銅鏡の写真を指し示すと、
「正確には方格規矩鏡と言う種類さ。ほらね? 至る所処にこのデザインが刻まれている!」
美学を修めた博識の探偵は満足げに息を吐いた。
「だから、井戸は時間や次元を変換させる霊力が篭る場所なのさ!」
「……」
「結論。 古代の中国人が語り継いだ数多の伝承から推測するに、この世から、あの世、もしくは異次元や異郷に通じる通路が存在するのかも知れない。または、それら隘路がポッカリと出現する瞬間があるのかも。
それに、それだけじゃない。人の強い思いが凝って形になることだって有り得ないわけじゃないと僕は思うんだよ」
「え?」
帝大卒の探偵は大真面目に続けた。
「こんなこと君にしか話せないけどね。幽霊だろうと生霊だろうと、精神だろうと……そんなことは全然構わないから、唯唯会いたいと思う人を人は持っているものだ。僕だって――」
探偵は言い直した。
「誰だって、会いたいと強く願う人がいる」
「興梠さん……」
誰だって会いたい人がいる。
未来の子供、
昔の家族、
失った友人、
去って行った恋人……
「とはいえ、こんなことを調査結果として報告書に記入するわけにはいかない」
探偵の顔に戻って興梠はキッパリと言った。
「こんな曖昧で科学的根拠に欠ける結論を依頼人に告げられるものか! 探偵とは科学的論理に立脚する、事実のみを見据えた現実主義者であるべきだ! 20世紀……現代の探偵の沽券に関わるよ!」
呆然としている少年にサッと手を振って、
「だから、この件からは僕は降りる。後は君に任せるよ」
「そんなぁ……」
井戸を覗く官女たち(南宋時代?)
★方格規矩鏡についてはこちらを。
https://www.google.co.jp/search?q=%E6%96%B9%E6%A0%BC%E8%A6%8F%E7%9F%A9%E9%8F%A1&hl=ja&rlz=1T4RNQN_jaJP492JP493&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=9xq_VMKYForp8AX_xYLAAQ&ved=0CB4QsAQ&biw=1280&bih=836




