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井戸を覗く少女 10

 



 探偵の愛車、空色のフォルクスワーゲン・ビートルで志儀(しぎ)は探偵社へ戻った。


「大冒険もほどほどにしてくれよ? 君がワトソン並に勇敢な助手だということは充分に承知しているがね」

 探偵の皮肉にグウの音も出ない志儀だった。

「それにしても――実家でなくてこっちでいいのかい?」

「こっちの方がいいんだ。どうせ、家にはキヨしかいないし」

 キヨは志儀の実家、〈海府レース会社〉社長宅内輪家の乳母兼女中頭だ。最愛の姉は嫁いで外国に住んでいる。

「それに、仕事で忙しい父様に心配をかけたくない」

「僕なら心配をかけてもいいのか?」

 探偵は微笑んで言ったのだ。

「うん! 貴方なら全然平気さ!」

 志儀もパッと弾けたように微笑み返した。

「だって、探偵と助手は一心同体だからね! その分、僕だって、いつも興梠(こおろぎ)さんのこと心配してるんだから」

「へえ! ソレは初めて聞いた」

「……僕も初めて口に出したのさ」

 助手の癖毛を1回だけ撫でてやる探偵だった。流石に今日、今だけは、志儀はおとなしく撫でられていた。

 あんたたち馬鹿みたい!

 と、黒猫が言った。

 


 昨夜の奮闘の疲れと痛み止めの薬が効いたせいで、志儀は事務所の黒革のソファでぐっすりと眠った。

 

 目を醒ますと夕方だった。

 探偵はビューローに覆い被さるようにして美術書に見入っていた。

 いつものことだが。


「……興梠さん」


「目が覚めたかい、フシギ君? じゃ、夕食にするか。おなかがすいたろう?」

 言ったろうか? この探偵はお洒落同様、料理もなかなかの腕前なのだ。

「そんなの威張ることじゃない。料理を作ってくれる人がいないってことだもの! まあ、独り暮らしが長いもんね?」

 と、これは日頃の志儀の言い草だったが。

 へまをやって負い目のある今日ばかりは、探偵の作った卵雑炊を左手で持った蓮華で器用に掬いながら、ありがたくいただいた。

「悪くない。及第点だな。ごちそうさまでした!」

 探偵が熱いほうじ茶を淹れてくれた時、気にかかっていたことを訊いた。

「ねえ、どうやって僕らのこと知ったの? つまり、僕とチワワがあんな状態に陥ってるって?」

「ああ、それなら、千羽子(ちわこ)さんのお手柄さ! ほんとに彼女は素晴らしい女性だね!」

 興梠が言うには、ドアの前に置いた夜食が全く手を付けられていないのを見て異変を感じ取った千羽子、躊躇せず息子の部屋に飛び込んで少年たちの不在を確認した。のみならず、最近の会話から井戸が怪しいと即座に悟り、夫をその場所に急行させる一方、探偵にも電話をかける手際の良さだった――

「ああ、そういうことか」

 じゃ、やはり、僕らのことを知らせたのは、真夜中に井戸を覗いたあの娘じゃないんだ。

 あれはやはり、幻、一刻も早く助けてもらいたかった僕が見た幻覚だったのか。

「じゃさ、あっちの方はどうなったの?」

「え?」

「チワワが依頼した、謎の女学生――井戸を覗いてた少女の身元の件だよ」

「ああ、それか」

 珍しくため息を吐く。

「僕はね、今度の件は降りようと思っている」

 志儀は耳を疑った。

「何故? 〈引き受けた依頼は最後まで遣り通す〉が興梠探偵社のモットーだろ?」

「普通の案件は、だ」

「え? 今度のはフツーじゃないの?」

 髪を掻き揚げて、探偵は助手を見つめた。

「聞きたまえ。君は僕の助手だから君にだけは真実を教えよう。これを聞いた後で、内輪君にありのままを伝えるかどうかは君に委ねるよ」

 静かな声、美しいコントラバスで興梠は言い足した。

「君は〝友人〟として判断したまえ。勿論、途中で降りたのだから、調査料は要らない」

「?」

 興梠は喋り難そうだった。暫く虚空を見つめていたが、おもむろにテーブルから腰を上げると

「事務所に戻ろう。見せたいものがある」



 


 明治の息吹を伝える風雅なステンドガラスに真冬の夕陽が煌いている。

 探偵社の事務所で探偵・興梠響(こおろぎひびき)が見せたのは、意外にも美術書 だった。

「見たまえ。これは日本画家、橋本関雪(はしもとかんせつ)の〈邯鄲(かんたん)炊夢図〉。題材は中国の故事から採っている」

「?」

「〈邯鄲〉とは、中国の戦国時代、趙の国にあった都だ。そこで盧生という若者が呂翁という道士から枕を授かる。その後、盧生は紆余曲折・艱難辛苦(かんなんしんく)の一生を生きるのだが、ふと目を開けると昼寝をしていたわずかな時間しかたっていなかった。枕が見せた一瞬の夢だったというわけだ」

「――」

「そして、こちら、桃源郷を描いた一枚。李朝初期の安堅(あんけん)の『夢遊桃源図巻』。

 〈桃源郷〉という言葉は知っているよね? 魏晋南北朝時代の詩人・陶淵明(とうえんめい)の作品『桃花源記』が出処になっている。道に迷った旅人が偶然迷い込んだ異郷、そこは理想郷(ユートピア)だった。とはいえ一旦そこを去ると、どんなに捜しても二度と再び行き着くことができない……」

「あの、興梠さん――」

「この桃源郷にインスパイアされた名品は多いよ! 東晋の画家 顧愷之(こがいし)の画〈雲台山記〉などは現存していないが見てみたかったものだ。それから、こつちは君たち中学生にも人気だろう? そう、中国の四大奇書小説『西遊記』の挿絵だ。ここ、孫悟空が紅瓢箪(あかひょうたん)にを吸い込まれる下りは格別面白いよね?」

「興梠さんってば!」

 堪らず志儀が叫んだ。

「ねえ、何が言いたいのさ? 僕が訊いたのはチワワの依頼した〈謎の少女の身元〉についてだよ? 中国の故事を講釈されたいわけじゃない」

「いいから、これらを頭に入れたままで、聞きたまえ」

 探偵はコーデュロイのジャケットの裾を払って、独り掛けの椅子に座った。

 助手と真向かう。

「何故こんな絵を見せたかというとだな、中国では古くから異世界に通じる〈装置〉……別の言い方をすれば〈条件〉があるんだ。邯鄲の夢や桃源郷の故事。それから孫悟空の瓢箪の話……

 これらに共通するもの(・・)は何だと思う?」

「え?」

 あまりに突拍子もない問いかけに志儀はポカンと口を開けた。

「もう少しヒントをあげよう。異界へ通じる条件/装置――刹那に空間を歪め、異世界へ通じるもの(・・)は何か?

 邯鄲の夢の〈枕〉、桃源郷は〈洞窟〉の果てにあり、形状は壷のようだと言われている。そして、西遊記の〈瓢箪〉。そう、瓢箪も桃源郷への洞窟同様、壷や、フラスコによく似た形だ」


 枕の中の空洞、洞窟、瓢箪の口……


「長くて……暗い……(ほら)……通路?」

「大当たり!」

「そして、それは、井戸にも(・・・・)当て嵌まる(・・・・・)

「? ? ? 」


 

 



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