井戸を覗く少女 6
サクサクサク……
背後の、草を踏む音に娘は振り返った。
「また、こんな所にいたのか? 帰りが遅いから心配で迎えに来たんだ」
「雅明さん……」
足音の主は自分の夫だった!
夫は優しい笑みを浮かべて妻を叱った。
「あまり心配させないでくれよ? さあ、帰ろう、菊乃」
「お願いがあります。離縁してください」
余りに唐突な言葉に夫は目を瞠る。
「いきなり……何を言い出すんだ……」
「『3年子無きは去れ』と申します。私も雅明さんの妻になってもう3年。でも未だに赤ちゃんを生むことができない」
娘は両手を揃えて深々とお辞儀をした。
「覚悟は出来ています。雅明さんは地主の総領息子です。跡継ぎを産めない私みたいな嫁は必要ありません。どうぞ、遠慮なさらずに離縁なさってください」
「馬鹿なことを言うな!」
夫の顔から微笑みが消える。林中に響き渡る大声で叱咤した。
「おまえは俺が惚れ抜いて一緒になった大切な妻だぞ! まだ女学生なのに、他の誰かに取られるのが嫌で、無理を言って祝言を挙げたんじゃないか。そのせいで、おまえは俺の家から女学校に通う破目になったんだが――そんなにしてまで一緒になったおまえと離縁だと? 一生涯、別れるものか!」
「雅明さん……」
「それに、何度も言ったろう? 俺はおまえさえいればいいよ。子供など、いなくてもいい」
幾分声を和らげて、諭すように若い夫は若い妻に言った。
「というか、早計だぞ、菊乃。そら?」
悪戯っぽく目配せして制服姿の妻を指差す。
「おまえはまだ女学生の身じゃないか。今、子供ができたら困るのはおまえだろ? 俺もだ。女学校はきちんと卒業させると、おまえを貰う際、おまえの親御さんに約束したんだからな!」
「私、女学校なんてどうでもいい。いつやめてもいいんです。それより――雅明さんの赤ちゃんが欲しい!」
瞳に涙を溜めて娘は言い張った。
「私も、誰よりも雅明さんを愛しているから! いつまでも雅明さんのお傍にいたいから! そのためには――ちゃんと跡継ぎを産まなくては嫁失格だわ!」
「やれやれ。新時代の教育を受ける女学生が古臭いことを言うなよ。それとも、お袋に何か言われたのか?」
「――」
「周囲の言葉など気にするなと言ってるだろ?」
外套を広げて若妻をすっぽりとその中に包み込む。
「なあ、菊乃? 俺もおまえもまだ若い。ゆっくり待てばいいのさ。こればかりは天の配剤だ。赤ん坊なんて生まれる時は生まれる。だから、下らんことを考えるな、いいな?」
夫は優しく口づけをした。
妻の頬に自分の頬を寄せると、
「さあ、戻ろう! ほら、こんなに冷たくなって……しょうがないなあ、菊乃は!」
声を立てて笑った後で青年は1度だけ井戸を振り返った。
「危険だな」
ゾッと身震いして口の中で呟いた。
この井戸は、家の男衆に命じてすぐにでも蓋をしなくては。
ちょっとやそっとでは開けられないよう、覗けないように頑丈に封印すべきだ。何か良からぬことが起きる前に……
若い夫にとって、井戸は魔物の口のように見えた。
「残念! 今日はいないや。この時間、ここで覗いていることが多いのに――」
心底無念そうに若葉は呟いた。
「行き違いになったかな?」
「多分そうだよ。井戸の周りの草が踏み荒らされている。ついさっきまで誰かがここにいたのは間違いない。むむ?」
現役の探偵社の助手らしく地面をつぶさに観察しながら志儀は首を捻った。
「しかも、一人じゃない。どうも複数の人がいたみたいだな……」
「へえ? 僕が見る時は、いつも、その娘一人きりなのにな? 何かあったんだろうか?」
「まあ、いずれにせよ、今夜、全てが明白になるさ!」
志儀は肩掛け鞄を叩いて片目を瞑ってみせる。
「準備は万端だし」
膨らんだそれには教科書ではなく井戸を探るために用意した諸々の品が詰め込んである。
登山用の丈夫なロープ、軍手、ローソクにマッチ。一方、若葉に持たせた風呂敷包みには探偵社から持ち出したカンテラが入っている。
「予め井戸を見ておいて正解だったな! この壊れかけた覆いを取り払うためには工具が必要だ。君んちのを借りられるかい?」
「それは大丈夫だけど……ホントにやるの、志儀君?」
「当たり前だろ! 計画は完璧だ」
志儀の考えた計画はこうだ。
今日は土曜日、泊りがけで若葉の家に遊びに来た振りをする。若葉の母、千羽子さんの作った美味しい夕食を食べる。勿論、これも重要な計画のひとつ。風呂にも入って、安心させ、若葉の自室に引き上げた後、窓から抜け出して、深夜、井戸を探索するのだ。
「幸い今夜は満月だってさ! あー、ワクワクする! なあ、チワワ?」
志儀は力一杯若葉の背中を叩いた。
「う、うん……」
「じゃ、事前の偵察はこのくらいにして――早く君の家へ行こう! 今なら、おやつも食べられる時間だ。千羽子サン、またホットケーキを焼いてくれないかな? あれ、ホント最高だよな!」
「大丈夫さ、志儀君が食べたいって言えば喜んで作ってくれるよ。ママ、志儀君のファンだから」
実際、最近は頻繁に泊まりがけで内輪家へ遊びに行っている志儀だった。
その、上機嫌に歩き出した志儀が思い出したように足を止めた。
「いけない! うっかりして、タオルを忘れた。タオルも、君の家のを貸してもらえるかな?」
「いいけど。何に使うの? 汗拭き?」
「馬鹿だな、マスク代わりだよ」
「?」
「死骸の匂いは強烈だからな!」
「――」
ああ、志儀君、僕、ヤッパリ……やめたい。
とてつもなく、悪い予感がする……




