会おうな 18
「〈海府レース〉のご子息? お父様は存じ上げているけど……」
溝口邸の女主人は興味なさそうに執事に名刺を返した。
「まあ、いいわ。重要な用事ならまた連絡して来るでしょうから。もう下がって結構よ、横山」
「お休みなさいませ、奥様」
「お休み」
入浴も終えてネグリジェにガウン姿の未亡人はテンの毛皮のスリッパで天女のように廊下を渡って行く。
東端のあの場所……最愛の息子の部屋へ。
当溝口家では掃除の際、主人たちが出してある物品には一切手を触れないよう厳しく躾けられている。 この部屋もまた例外ではない。
整然と片付き磨きあげられた部屋の中、ベッドの上にばら撒かれたアルバム。
幾つもの笑顔が今夜も母を出迎える。
「ああ、本当に可愛らしいこと!」
私はこの全ての朔チャンを知っている。全ての年齢の朔チャンを。
私だけの可愛いぼうや。
あの子は何処へ行ってしまったの? あの可愛らしくていい子だった私だけのぼうやは?
いいえ、あの子は何処へも行っていない……
「?」
電気も点けずに暗闇の中でアルバムを見下ろしていた夫人はビクリとした。
風の音だろうか?
カーテンを開けたまま夜空を映している窓を振り返る。胸騒ぎがして、窓枠へ駆け寄った。
「嘘!」
夫人は息を呑んだ。
見下ろした庭の隅、西側の一番奥に灯りが2つ蠢いている。宛ら、悪魔の目のようだ。
「こんな時間に? 一体誰……?」
しかも、あの場所で……?
「そこで何をしているの!?」
寝巻き姿のままで飛び出して来た溝口陶子は灯りに向かって叫んだ。
「あ! 貴方は……?」
カンテラを足元に置いて噴水の横に立っていたのは――
「興梠探偵社の探偵、興梠響と助手の――」
「海府志儀です!」 ※カンテラ=携帯用石油ランプ
即座に婦人は悪罵した。
「こ、こんな処で……しかもこんな時間に人の邸の庭で一体何をなさっているの!?」
静かな声で探偵は答えた。
「ご依頼の仕事を遂行しています」
「妙なことをおっしゃるのね?」
未亡人はけたたましい笑い声を上げる。
「私が依頼したのは息子、朔耶の捜索です。他人の庭を荒らすことではなくってよ!」
「――……」
微動だにしない探偵と助手。
「さあ、早くっ!」
指輪の煌く指を振って夫人は怒鳴った。
「そこから離れて――とっとと出てって!」
喉を震わせて絶叫する。
「でないと、いくら私が雇った探偵とはいえ、不法侵入で警察を呼ぶわよっ!」
「警察?」
探偵は悲しそうに微笑んだ。
「そうですね。僕も、心からそれをお勧めします」
「え? ちょっと、興梠さん、警察はマズイんじゃないの?」
カンテラを下げたもう一人、助手の志儀が慌てて耳打ちする。少年は上下ともにスキーウェアで身を固めていた。これならもうどんなに水に浸かろうと大丈夫だ。
「ねえ? 僕たち、まだ何かしたわけじゃないもの。噴水を覗きに行こうって言うから付いて来たけど、そのとおり、こうして噴水を覗いてるだけなんだから、今ならまだ警官にだってお咎めなしに探偵社へ帰れるよ?」
「君は黙っていたまえ」
興梠は夫人に向き直ると静かな口調、あの澄み渡るコントラバスで繰り返した。
「警察をお呼びください、溝口夫人。そうして頂きたくて――そのために僕はやって来たのです」
「な、なんのこと? 何をおっしゃっているの、あなた?」
両足――こちらもまた革靴ではなくしっかりと長靴を履いている。但し、スキー用ではなく狩猟用のブーツだ――を揃えるとピンと背筋を伸ばして興梠響は言った。
「では、ご報告いたします。ご依頼の息子さん、溝口朔耶さんの居場所を発見しました」
探偵は高々とカンテラを掲げた。
「こちらです」
「――」
指し示したそこは……
噴水。
ベッグマンのハンティングブーツで周囲に溜まった水を弾きながら、更に身を乗り出して優雅な意匠の池を照らす。
「朔耶さんはこの中におられます」
「なに、なにを、馬鹿なことを――」
「縁から水が溢れるような設計の噴水などありえませんよ。しかもこのアンリ・ラパンの意匠は僕の記憶では1932年発表のはず。つまり、この噴水は最近売り出された最新型です。故障とは思えません」
助手がハッと息を呑む。
「興梠さん?」
「そして、池の意匠は緩やかな円錐型……底へ行くに従って窄まって行く形だ。水の上から目視した計算ですが……底の直径は1,5mくらいでしょうか?」
灯りは暗い水を照らしていたのでそれを持つ探偵の顔は闇に沈んで見えなかった。
「その部分、一番深くて狭い部分に息子さんを埋めましたね?」
「!」
ビクリ、少年が体を硬直させる気配が伝わって来た。
「池全体を埋め尽くすのは難しいが、そのくらいなら……貴女でも可能だった。一旦、水を止めて、セメントを流し込んで固めたんでしょう?」
無返答。
「でも、そのまま空の池だとすぐばれてしまう。セーブルの美しい磁器タイルがいきなり途切れて無粋なセメントでは誰だって違和感を抱くというものです。だから、貴女は再び水を流すしかなかった。噴水を止めるわけにはいかなかった。せめて、水で遮蔽したかった。だが、そうすることで別の問題が生じた」
「そうか!」
興奮した声で助手が叫ぶ。
「埋めた分、池の容量が狭くなって――それで水か溢れたんだね? 池の周囲がこんなに水浸しなわけだ!」
「お……奥様……?」
いつの間にそこにいたのか、執事の横山が立っていた。
忠実な従僕らしくその手には主人のコートを抱えている。
立ち竦む執事に目をやってから、興梠は再び夫人に向き直った。
「溝口さん」
探偵は優しく呼びかけた。
「事故だったのでしょう? 僕はそのように理解しております。ですから、一刻も早く警察にご連絡なさい。それが一番いい」
「違う! 事故じゃないわ! 私が殺しましたっ!」
「奥様――」
「だって、あの子、どうしても出て行くってきかないんですもの! 朔チャンたら!」




