最高の絵8
「探偵社の方ですって?」
女中に来訪者を告げられて薫子は読んでいた本から顔を上げた。
「さっきお帰りになられたばかりなのに……忘れ物かしら?」
言葉とは裏腹に頬が上気する。
まさにその頬が、支えてくれた探偵の硬い胸の形を憶えている。
勿論、ただそれだけ。
それ以上のことは何もなかった。
探偵はあくまでも紳士的に我儘を言う令嬢にその胸を貸しただけ。
それでも、少女は天にも昇る心地だった。
これは始めの1歩。
ゆっくりと歩き出せばいい。
探偵自身が言ったように、私には、ううん、私たちにはこれからたくさんの時間があるのだから!
ガウンを羽織り、髪を撫で付けながら、弾む声で令嬢は女中に命じた。
「いいわ! すぐにお通しして!」
だが、期待に反して――
入って来た〈探偵社の人間〉とは、興梠響ではなく助手の方、海府志儀だった。
「?」
令嬢は露骨に顔を顰めた。
「あら? あなた、フシギ君? 今日はお忙しいんじゃなかったの? 興梠さんはそうおっしゃっててよ?」
「うん。忙しかったさ! それはウソじゃない」
助手は大きな包みを抱えていた。
「ご要望の品を探し回っていたからね!」
「まあ! あなたにそんなことできるかしら、フシギ君? 助手のくせして。しかも子供なのに?」
「僕を見下すのも大概にしろよ!」
これだ! いちいち癪に障るこの言い様。大体、僕をその名で呼んでいいのは興梠さんだけだぞ。
カッとして少年は叫んだ。
「僕が知らないとでも思っているのか?」
抱えていた包みをしっかりと両手で持ち直す。
「〈最高の絵〉が欲しい? どんな絵を持ち込んだところで君は満足なんてしない。いや、満足するつもりなどないくせに」
志儀はゆっくりと言った。
「何故なら、これは君の嫌がらせだから。君の――お父上に対する、ね」
自分の言葉が浸透するのを待つようにいったん口を閉ざす。
眼前の少女は身じろぎもしなかった。
「今回の件では腑抜けになった興梠さんに代わって、僕がきっちりと調べあげたんだよ。
薫子さん、君のお母様は12年前に亡くなられている。それはいい。もっと新しい話――
去年、君のお父上、鷲司篤胤子爵は再婚したね? そして、もうじき君には健康な弟か妹が生まれる。
現在、お父上はお産を控えた若い奥方と一緒にジェームズ山の別荘で過ごされている。
毎日のように通って来る、依頼を受けた僕達探偵社の人間に、子爵が直接挨拶できないのも……そもそも、この大きなお邸――本宅――に君が一人ぼっちなのはそのためさ!」
雪崩れ打つように一気に志儀は言い切った。
「つまり、君は捨てられたんだ! 新しい奥さんや生まれてくる赤ん坊に父上の愛情は完全に移ってしまった!」
―― 死だけが喪失ではないわ。 愛を失った時、人は全てを失うのよ……
「〈最高の絵〉を欲しがったのは、もともと父上への意趣返し、嫌がらせに始めたことだった!
だから、君は未来永劫、永遠に、絵なんて、決めるつもりはないんだ!
その上――」
「その上?」
「うん。ここで終わりじゃない。僕の調査報告書はもっと続いている。更に肝心の〈真実〉が……確信の〈謎の答え〉が記してある」
得意そうに助手は微笑んだ。
「僕は有能な探偵助手だからね? この先を聞きたいかい?」
「何かしら?」
流石は子爵令嬢。毅然と顎を上げ見つめ返した。
「勿体ぶらずに言ってみなさいよ?」
「君は益々最高の1枚を決めるつもりはなくなった。何故なら、興梠さんに恋をしたから!」
「――」
大きく見開かれた瞳。
だが、志儀の予想に反して薫子は何も言わなかった。
どんな言葉も返ってこなかった。
森の奥の泉のように透明な沈黙。星影のように煌めく静寂。
今まで以上に辛らつに、徹底的に言い返すと思っていたのに?
「図星だな? 君は興梠さんに恋をしたんだ。だから、この先も、絶対、〈最高の絵〉を決めるつもりはない。決めたら、もう興梠さんと会えなくなるから」
少女が黙っているので志儀は独りで喋り続けた。
「探偵を独占する二人きりの楽しいひと時が失われてしまうから」
何故、何も言わないんだろう?
言い返さないんだ?
そして、もっと困ったことに、志儀を動揺させたのは少女の顔に浮かんだ微笑の意味だ。
子爵令嬢鷲司薫子は微笑んでいる。
今まで見た中で一番美しい笑顔だった。
こんな不可解な暗号を少年は未だかつて解いたことがない――
内心、激しく戸惑う探偵助手。
だが、こうなったら、とっととケリをつけて立ち去るまでだ。こんな場所に長居は無用だ。
「でも、興梠さんは忙しいんだ。いつまでも君だけのために時間を潰すわけには行かない。君は知らないだろうけど、興梠探偵社は人気があって依頼が殺到してるからね!」
これは明らかに嘘である。
「それで――」
志儀は大きく息を吸って、吐いた。
「僕が今日一日かけて探し出して来たのさ! 君にぴったりの、君の求めている〈最高の絵〉を!」
志儀は薫子の真横、ベッドの上に包みを置いた。
「君は、これを飾ったらいい!」
それだけ言うと身を翻して部屋を飛び出した。
終に最後まで、令嬢の口から言葉は返ってこなかった。
ザマア見ろ!
これですっきりした……
「本当か? 変だな?」
大邸宅を駆け抜け、玄関を飛び出してから志儀は呟いた。
いつの間にか降り出していた雨の中で足を止める。
「いや、絶対スッキリするはずなんだ」
それを――
何だよ? このモヤモヤ。この痛み。
探偵助手の胸の中で赤錆のような染みは一層濃くなっていた。
あの娘はずっと僕を傷つけてきた。言いたいだけ言って。
だから、お返しに、僕が多少傷つけたところでかまわないじゃないか!
振り返ると豪壮な邸の端、少女の部屋の窓の明かりが揺れた。
ベッドから降り、窓辺に寄ってカーテンを開けてこちらを見ている令嬢の影。
包みを解いて、志儀の持ち込んだ〈最高の絵〉を、もう見たであろう薫子が、今こっちを見下ろしている……
「フン」
ポケットに両手を捩じ込んで、森を貫く舗装道路を志儀はゆっくりと歩き出した。
初夏の雨がこんなに冷たくて重いなんて知らなかった。
一粒一粒が鉛のように少年の体に突き刺さった。
心がバラバラだ。
興梠さんの見せてくれたルノアールの雨の絵みたいに。
ユラユラと誰一人として統一されていない影。
自分は誰で、何処にいるんだろう?
一体、何処に行こうとしているんだ……?




