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天使の迷宮 9



 こうして長い最初の一日が終わった。


 興梠(こおろぎ)志儀(しぎ)は用意された部屋へ引き上げた。

 片岡邸、二階最左翼のゲストルーム。

 今朝、鎌倉へ行く前に預けた荷物類も執事の手で既に部屋に運ばれていた。

「うわぁ! こりゃ、ホテルなんかよりずっと居心地がいいや! バスルームは大理石! ウィーンのホテル・パリスに似てる! シャボンはフランスマルセイユの老舗マリウスファーブルジューンか……姉様が大好きだったブランドだよ! 凄い、冷蔵庫もある!」

 真っ先にバスルーム、続いてバーコーナーを点検して、志儀が歓声を上げる。

「芝浦製作所の最新型だ! これってアメリカのGE製モータートップ型を完璧に再現してるって評判なんだよね? ほんと、弓部(ゆべ)警部補が言ってた通り、片岡邸は電化製品が充実してるな。ねえ、サイダー飲んでいい? 興梠さんも何か飲む? あれ? どうしたのさ、難しい顔して?」

 冷蔵庫をいったん閉めて志儀は戻って来た。

 探偵はベッドに座って、5通目の手紙の写しを見つめていた。

「違和感がある」

 紙面から目を離さず、興梠は(つぶや)いた。

「僕は、片岡夫妻に調査対象について説明する際〝この種の犯人〟と言ったが――」

「うん、ソレ、専門用語でいうところの〈サイコパス〉ってことだろ? 僕も今回の犯罪はソレだと思う」

 助手は理由(わけ)知り顔で腕を組んだ。

「まぁ、素人の片岡夫妻にその種の異常者のこと説明しても、とうてい理解できないだろうからね。ああいう言い方でOKじゃないの? これ以上不安にさせても仕方がないしさ」

「サイコパスか……」

 助手の言葉を口の中で復唱する。

「それなんだが……今回は、まさにそこに違和感を覚えるんだよ。どこがどうとは言えないのだが、例えば、5通目のこの文……」

 興梠は手紙を振った。

「邪気がない。僕の勝手な思い込みかも知れないが、挑発とか、脅しとか、あるいは、面白がってるような感じを受けない。そこが少し奇妙なんだ」

「そうかな? それこそ、思い込みなんじゃないの?」

 ピシッと斬り返す少年助手。 

「ほら? 珪子(けいこ)ちゃんの居た部屋に絵が飾ってあったから、興梠さん、それでほだされた(・・・・・)のかも」

「え?」

「だって、いつも言っているじゃないか。『絵の好きな人に悪い奴はいない』……」

 唇を舐めると唐突に志儀は訊いた。

「ねぇ? 深淵を覗いたものは深淵に囚われる――みたいな警句を言ったのは誰だっけ?」

「ニーチェ、《善悪の彼岸》」


 汝が深淵を覗き込む時、深淵もまた汝を覗き返している……


「ありがとう。どうもね、今回、興梠さんにはその恐ろしい深淵が〝純白〟に見えてる気がする」

 宙を睨んで志儀は言った。

「でもさ、僕に言わせれば、白くても真っ黒でも深淵は深淵。落ちたらとんでもないことになるんだからね」

「またしても、ご忠告、感謝するよ、フシギ君」

「まあ、今回、〝深淵が白く見える〟のは……弓部警部補のせいかもね」

「どういう意味だい?」

「だって、最初に警部補が言ったんだよ。今は春なのに『お嬢さんは雪のように消えてしまった』って。人間観察に優れた僕から見れば、弓部さんも貴方も、似てるところがある。ロマンチストで純粋だ。だからこそ――」

 真顔で少年は警告した。

「気を付けてよ。文面に邪気がないとかなんとか言って、共鳴して、惑わされて……挙句の果てに、引っ張り込まれないようにね? 興梠さんも、弓部さんも!」

 ボソリと低い声で言い添える。

「……純粋な人間でも罪は犯すからね」

「その通りだ。純粋な人間ほど恐ろしい罪を容易に犯す。思い出させてくれてありがとう、フシギ君! 君は本当に有能な助手だよ」

 少年の指摘は鋭い。この案件、いやに雪のイメージがチラつく。


 ―― 少女は消えてしまった。雪のように

 

 ―― いなくなったのは春なのにね?


 そして、ここへ来て、また〈雪の絵〉か!

 興梠の脳裏に2枚の絵が浮かんだ。連れ去られた少女が電話口で囁いたコトバが重なる。


 ―― とても寒そう!


 では、やはり? 

 飾られている絵はこの事件に何か関係があるのだろうか? 

 犯人の意図……嗜好……象徴……?

 手紙だけではなくこちらを読み解くのも重要かも知れないな。


  コンコン……


 ここでドアがノックされた。

「はい?」

 志儀が飛んで行って開けた扉の前に立っていたのは意外な人物だった。


「片岡夫人……?」


 当邸の女主人片岡瑠璃子(かたおかるりこ)が、例によって家庭教師兼話し相手(コンパニオン)なる笹井敦子(ささいあつこ)嬢を伴って佇んでいた。

「夜分遅く申し訳ないと承知しております。ですが、どうしても聞いていただきたいことがあって……」

「かまいませんよ。さあ、どうぞお入りください」



 客室に備えてあるソファに瑠璃子と笹井嬢、向かい合う肘掛け椅子に興梠、志儀はやや離れたベッドに座った。

 ハンカチを握りしめて夫人が話し始める。

「興梠様、どうかどうか、青生(しょうき)のことを誤解なさらないでほしいんです。

  先程もあの子、皆様の前で大変無作法な言動をしてしまいました。さぞかし、我儘で高慢、躾のなっていない放埓な息子とお思いのことでしょう。変な子だとお感じになって当然ですわ」

「いえ! 僕、ヘンナヤツなんて、これっぽっちも思ってませんっ!」

「フシギ君。君は黙っていたまえ」

「主人は、あの子の奇矯な振る舞いは、先の事件に何の手も打てなかった大人を――私たちを責めているせいだと申しました。でも、違うんです。あの子、青生が一番責めているのは、誰でもない、あの子自身なんです」

「ああ、奥様……」

 笹井嬢がギュッと手を握る。その手に自分の手を重ねて夫人は首を振った。

「いいの、私は大丈夫よ、敦子さん」

 再び夫人は話し始めた。

「お聞きくださいませ。青生はとても繊細で心の優しい子なんです。親の私が言うのもなんですが、小さい時は姉の晶子(しょうこ)と二人、見分けがつかないくらい可愛らしくて、それこそ、双子の天使のようでした。皆さんそうおっしゃってくださいましたわ」

 長い睫毛を伏せる。

「いつも二人一緒だったんです。そう、あの日までは」

「10年前の4月11日ですね?」

 興梠の言葉に強く頷いて、

「そうです。それがあんな風に突然、残酷に引き裂かれてひとりぼっちになってしまった……

 私たち夫婦の、親としての絶望や悲嘆は言うまでもないのですが、青生の、(きょうだい)を無くした衝撃はいかばかりだったことか……!」

 暫し口を閉じ、息を整える。話を再開した夫人の声は穏やかで優しいそよ風のようだった。

「あの子は連れ去られたのが自分でなかったことを何よりも悔いているんです。まるで、それが自分の罪のように自分を責めて、許そうとしない。その考えは間違っている、貴方には何の罪もないといくら言っても聞き入れません。青生が姉の話題になると過剰に反応してしまうのはこういう理由があるからです。ですから、興梠様!」

 ここで声は突風になる。すがるように身を乗り出した。

何卒(なにとぞ)、寛大な御目で見てやってくださいませ。私、母としてどうしてもこのことだけはお伝えしたくて――勇気を奮ってこうしてお部屋までやって来た次第です!」

「奥様、大丈夫ですよ! 奥様のお気持ち、探偵様たちは理解してくださいますとも!」

 笹井嬢が庇うように肩を抱いた。

 興梠も顎を引いて力強く頷いた。

「そのとおりです。御子息が受けられた心の傷、お察しいたします。ですから、どうぞご安心なさってください。僕たちが青生君を誤解するなどというご心配は無用です」

「ほんとうですか? ああ! 良かった!」

 瑠璃子は椅子に背を預けて安堵の息を吐いた。

「あの子、髪型はあんなだし、本来は陽気な質なのに心を閉ざしてしまって。学校では成績も良くてスポーツ万能、皆さんに人気があるのに、あえて孤独を好んで友達をつくろうとしないんですのよ」

 探偵の口の端が優しく持ち上がったのに気づいて、慌てて言い添える。

「親馬鹿と笑われてもかまいませんわ。私が何を申し上げたいかといいますと……」

 蝶々を探すように言葉を求めて夫人は室内を見まわした。

「私、あの子のことが心配なんです。あの子はひょっとしてあの日、一緒にさらわれたのかも知れない……」

「!」

「ああ、上手く言えないわ」

 夫人は胸の上に手を置いた。疋田模様の友禅、シックな鳥の子色が色白の肌によく似合う。

「でも、そんな風に思えてならないんです。姉、晶子ちゃんと一緒にあの子の一部分も連れ去られた……勿論、体は残っているんですけれども。あの、この言い方、可笑しいでしょうか?」

「わかりますよ。ちっとも可笑しくなんかない」

 ヒトは心ごと持って行かれることがあるのだ。

 地上に残るのは抜け殻の身体だけ――

「そしてまた……今度は珪子まで……」

「奥様――」

 悲しみは共鳴する。

 夫人の嘆きに探偵もまた失われたものを見つめていた。志儀の言葉を借りれば、傍らに〈過去の天使〉が舞い降りているのかも知れない。

 とはいえ、それは長い時間ではなかった。夫人はすばやく涙を拭って微笑んだ。

「泣いたりしてごめんなさい、興梠様。でも、大丈夫です。私、本当に貴方がいらっしゃって希望を取り戻したんです。珪子が無事、私たちの元へ戻って来るまで気をしっかり持って、がんばります」

 きびきびと腰を上げる。

「お時間を取らせて申し訳ありませんでした。では、私たちはこれで」

「お待ちを」

 引きとめたのは探偵だった。

「ちょうどよかった。僕もいくつかお尋ねしたいことがあったんです。よろしければ、このままもう暫くお付き合い願えますか?」



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