天使の迷宮 4
先の4通は水彩の彩色画で文字はなかったのに。
今回は線画で、黒塗りの部分は墨を使用しているようだ。
何より、文言が記されている――
《 二人の天使の住む所
指を組んで祈る小さき手
曲がらず伸びる葉
地獄より戻りし
黒き像の
左肩 遥か
風に揺れる文字を読め 》
手紙を凝視したまま誰一人声を上げるものはいなかった。
その凍った静寂を破ったのは少年助手だ。
「ひゃあ、何のこと? てんでわかんないや!」
続いて口を開いた探偵の反応は少し違った。目を細めて頷く。
「二人の天使、か……」
弓部警部補が急き込んで、
「興梠さん? 何か思い当たることでも?」
「なくはないです。ウアッ?」
次の瞬間、興梠の体が吹っ飛んだ。夫人がいきなり跳びついて来たのだ。
二人してそのまま、床に倒れる。
「なにか、こぞんじなんですね? 探偵様っ! ああ、どうか、どうか――」
「瑠璃子!」
「お願い! あの子を……私の珪子を取り戻してっ!」
立つのもおぼつかなかったのに。
この力は何処から来るのだろう? 腕に食い込む指。我が子を求める指だ。必死に引き寄せようとする指――
床にのけぞったまま興梠は言った。
「――全力を尽くさせていただきます」
「申し訳ない、興梠さん。さあ、瑠璃子……」
「奥様――」
夫に引き起こされ、家庭教師に抱きとめられて、瑠璃子夫人は再び椅子に戻った。
「とんだ不作法をお許しください。その、家内は精神的にかなりまいっていて……」
「お気になさらずに。ご心痛お察しいたします」
衣服を整えながら立ち上がった興梠。この時、青生と目が合った。
「?」
少年はうっすらと笑った気がした。いや、一瞬、陰った陽のせいだろうか?
勿論、そうに違いない。
「弓部警部補にも話しましたが、今回の事件に関して、僕は、僕の持つ力の限りを尽くしてご協力するつもりです」
片岡家の面々を前に、改めて興梠は宣言した。
「現段階では未確認の為、まだ詳しくはお伝えできませんが、この新しい手紙の文面で、少々気にかかることがあります。さっそく、調べてみたいと思います」
「大丈夫ですか? お怪我はないですか?」
退出した片岡邸。その玄関前の車寄せで弓部が訊いてきた。
「大丈夫だよ、弓部警部補」
探偵本人より早く、助手が応える。
「いくら興梠さんが非力でも、たかが女の人――しかもあんな華奢な深窓の令夫人にタックル食らったくらいで骨が折れたりはしないさ! そこまでポンコツじゃない。それに爪を立てられるのは飼い猫で慣れているしね」
「安心しました。それで、これからどうします? 僕はいったん署に戻って、新たに届いた手紙の件を報告しなければ。貴方が承諾してくださって、遙々同行していただいたことも、上の方に正式に伝えようと思います」
「僕らは鎌倉へ行こうと思います」
今度こそ、探偵がきっぱりと告げた。
「誰か――警察関係者をつけましょうか?」
弓部の申し出を興梠は断った。
「いえ、僕らだけのほうがいい。僕らだけでじっくりと、見て、考えたい」
「了解しました。どうぞ、貴方の望む通りのやり方で自由に行動なさってください。その上で、何事か発見なり進展があれば署の方にご連絡をいただけますか?」
探偵と警部補が実務的なやり取りを交わしているのをぼうっと見ていた志儀。肩を叩かれる。
吃驚して振り返った鼻先に薄い箱が差し出された。
「一本どう? お近づきのしるしに」
片岡家の令息、青生だった。即座に首を振る志儀。
「え? でも、これ――タバコは僕……まだ……」
「シガーキャンディだよ。薄荷飴さ! 勘違いするなよ」
「あ」
片岡家の長男はクックッと笑った。
「可愛いなあ、君! 神戸の中学生ってスレてないんだなぁ!」
「き、君こそ――か、か、可愛いぜ、女の子みたいにっ」
精いっぱいの反撃である。青生は鼻を鳴らしただけ。シガーキャンディを一本取りだして銜える。
この少年がそれをやるとアンニュイで絵になる。宛ら、フランス映画の一場面みたいだ。負けじと志儀も銜えたが――
いかんせん、どう見てもこちらはロリポップを舐めるノ図。
「それにしても、探偵ってスゴイんだね? 弓部警部補が私立探偵に協力を仰ぎたいと言い出した時は、僕も父様も疑心暗鬼だったけど」
意外にも率直な探偵礼賛の言葉に志儀は気分を良くした。
「妹がいなくなってここ数日、警官たちはただもう右往左往するばかりだったのに。今日の、あんな奇怪な手紙を一目見ただけで、即座に『心当たりがあります』だもんな!」
自分の探偵を褒められるのは悪くない。志儀は得意げに鼻を蠢かした。
「フフン! まぁね。興梠さんはああ見えて、名探偵だからね!」
煙草、もとい、棒キャンディを盛大にスパスパやりながら、
「君も、大いに期待していいよ。興梠さんなら、絶対に妹さんを見つけ出せる。無事、お父さん、お母さんの元へ連れ戻してあげるから」
少年は晴れ渡った四月の空を見上げた。
「そうだといいけど」
「え?」
「いや、信じるよ。君のその言葉……でなきゃ……」
ほうっとぺパーミントの息を吐く。
「でなきゃ、僕は救われない。永遠に」
「?」
「この迷宮から抜け出せないってこと」
青生は志儀の耳に口を寄せて囁いた。
「なぁ? 迷宮に囚われているのは誰だと思う? 妹の珪子だけじゃない。晶子姉様も、そして、僕もさ」
「どうゆこと?」
「フシギ君!」
探偵の呼ぶ声。見ると既に探偵も警部補も到着したタクシーに乗り込んでいる。
「はぁい! 今、行くよ」
走り出す少年にもう一方の少年が箱を放った。
「持ってけよ! 考え事をする時……行き詰まったら……頭がスッキリするから」
日頃〈鋭い人間観察者〉を自認する探偵助手・海府志儀の、片岡家長男についての感想は、
「ヘンナヤツ!」
だった。
興梠と志儀を駅で降ろして、弓部は署に戻って行った。
二人は一路鎌倉へ。
横浜からは国鉄電車でおよそ30分の距離である。
一般に〈横須賀線〉とも総称されるこの線は軍港・横須賀への連絡が目的だったため早くに整備された。1931(昭和6年)には全車電化されている。また風光明媚な土地柄ゆえ沿線が別荘地、高級住宅地としても愛されたため、二等車(現在のグリーン車)が常備連結、海軍高官や逗子、鎌倉から通学する良家の子女が御連れの女中とともに乗り降りする姿が見受けられた。
なお、二人が乗った車体は有名な〈横須賀色〉ではなく茶色である。いわゆる〝スカ色〟クリームと青のツートンカラーは1949(昭和24年)を待たねばならない。
「ねえ、どうして鎌倉に行こうと思ったの?」
緑の風が吹き抜ける車内で、早速、探偵に志儀は訊いた。
「届いた手紙が全て鎌倉の消印だったせい? それから――弓部警部補が、犯人、または、その仲間ではないかと疑っている電気店の、なんて言ったっけ、曽根武の遺体が発見されたのも鎌倉だから?」
「よくできました」
「……こうしてみるとさ、横浜はどでかい近代都市で、世界に開かれているってカンジだけど、鎌倉ってヒッソリと塞がった町だよね?」
車窓を流れ去る鳩の模様の黄色い看板を目で追いながら少年は呟く。探偵は応えて、
「そりゃそうさ。まさにそれ、〈天然の要害〉に目をつけて、この地を源頼朝が選んだんだから」
地形的に開かれているのは唯一、南の相模湾――海だけ。残り三方は山で塞がれている。源氏山、六国見山、大平山、天台山、衣張山……
「鎌倉はまさに理想的な中世の都。日本の要塞都市だよ」
「ふうん? じゃ、僕たちも、閉じ込められないよう気を付けなくっちゃ」
助手の言葉に探偵は笑い声を上げた。
「ご忠告感謝するよ、フシギ君」