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新鮮なひと6

 



 来訪者の手土産というロールケーキとココアでもてなされながら絵に描かれている全員の名前と所在を聞き取り終えた志義(しぎ)だった。それによると――

 向かって左、水泳帽の男は三宅洋介(みやけようすけ)。東亜経済調査部勤務。現在満州に住んでいる。

 真ん中は、大伴慶(おおともけい)。第四銀行に就職して新潟市在。

 右端が尾崎秀樹(おざきひでき)。朝陽新聞記者。本社勤務で住居は大阪市。


「なるほど、さっきの人は尾崎秀樹(・・・・)さんか。新聞社の先輩なんですね?」

「帝大時代からのお友達で、朝陽新聞社へ誘ってくださったのも尾崎さんなのよ。伯父様が論説委員をやってらして就職の際は凄くお世話になったんですって。輝彦(てるひこ)さんも一人っ子だから、言うなればお兄さんみたいな存在かしら」

「ああ、だから? 心配して訪ねて来たんですね?」

 描かれていた《猫》の件についてはまだ志義は香苗に詳細を明かしてはいない。現段階で必要以上に依頼人の不安を煽ってはならないし最終的な報告は興梠(こうろぎ)さんに任せるべきだ。

 唇を舐めながら志義は慎重に尋ねた。

「何か訊かれませんでしたか、ご主人のこと」

「訊かれたわ。尾崎さんも輝彦さんの居所(いどころ)を探してくださるって。でもそれは警察に突き出すためや会社への忠誠心からではなくて、輝彦さんのこと信じてるからだって。逃げ隠れせずに出頭して真実を話させたいっておっしゃるのよ」

 若妻は両手で包むようにカップを持っている。春を待ちきれずに寒風を突いて咲く辛夷(こぶし)のようだ。

「だから、行き先に心当たりがあるなら教えて欲しいって」

「教えたんですか?」

「無理よ! だって、私、知らないんですもの」

 地が出ている! ココアを啜りながら志義は微笑まずにはいられない。

 探偵社のソファに座っていた時と湯浅香苗(ゆあさかなえ)はまた違って見えた。

 展覧会で別の絵を見るみたいだ!

 丘の上の洋館では緊張して冴え冴えしていた。高貴な王女のように。

 今、自宅の茶の間に座った湯浅夫人は夫人というより少女のよう。〝女学生〟でまだ十分に通用する。

 (可愛らしい人だなあ!)

 夫、湯浅輝彦と二人きりの時はこんな風だったんだな、と志義は思った。この家の中、夫にだけ見せた仕草の一つ一つを全て見てみたい気がした。

「じゃ、尾崎さん、がっかりしたでしょうね?」

「ええ。でも知らないんだから仕方ないわ。何か思い出したらすぐに連絡して欲しいって言って帰って行かれたの」

「あの、僕が来て……お邪魔でした?」

「とんでもない!」

 ひらひらと手を振る香苗。

「と言うより、嬉しいわ! 尾崎さんよりシギちゃんが傍にいてくれた方が何倍も! だって私」

 胸の前で両手を組み合わせる。

「言ったでしょ? 弟が欲しかったの。栄子ちゃんみたいに」

「え、えいこちゃん?」

「同級のお友達よ。栄子ちゃんなんか二言目には弟さんの自慢ばかり。中学の主席でスポーツ万能で、その上、美少年なんだもの! 嫌になっちゃう」

 人差し指を唇に寄せて、

「あ、でもね、ここだけの話、栄子ちゃんの弟さんよりシギちゃんの方がズゥ―ッと可愛いいわよ!」

「コ、コホン……香苗さんは、ご主人――輝彦さんとはどうやって知り合ったんですか? お見合いですか?」

「それが、おかしいのよ!」

 香苗の華奢な手が志義の肩を叩く。

「私が女学校の二年生だった時――」


 学校帰りよく立ち寄る古本屋。

 突然、近づいて来た学生服姿の帝大生が四角い包みを差し出した。

「失礼は承知です。どうか、これをお受け取り下さい」

「はい?」


「それが輝彦さんだったんですね? わーお! それで?」

「彼ったら私にその包みを押し付けるや、走り去ったわ! その時、私一人じゃなかったのよ。さっき言った栄子ちゃんや、里美ちゃん、佐江さんがいたのに。私、そりゃあもう、顔から火が出るくらい恥ずかしくって泣いちゃったわ!」

「あはは! だろうなあ! でも、遣り手だな、輝彦さんは。あーあ、せめて興梠さんにそんな度胸があればなあ!」

「あの探偵さんのこと? お兄様なの? もしくは、シギちゃんのお姉さまの旦那様?」

「とんでもない、赤の他人ですよ、僕たち」

 慌てて志義は手を振った。

「僕、姉はいますが結婚して欧州に住んでいます。興梠さんは――寂しい独り者ですよ」

「独身でいらっしゃるの? オモテになるでしょうね? 知的だしお洒落だし、美男子ですもの」

「そう思いますか? でもね、マーッタクモテないんだな! 飼い猫にまで嫌われる始末」

「まあ、何故かしら?」

「さあね、怪しい趣味でも隠し持ってるのかも」

 また香苗の手が志義の肩を叩く。

「いやーね! 《孤島の鬼》の探偵じゃあるまいし!」

「あ、ごぞんじなんですか、その小説?」

 江戸川乱歩著。宗教上の規制の厳しかった欧州に先駆けて同性愛嗜好を活字で印した世界初の探偵小説である。

「シマッタ!」

 香苗は悪戯を見つかった少女のように舌を出した。

「秘密よ? でも、女学生は、皆、読んでたわよ。そうね、私は《淫獣》の方が好き。静子さんが可哀想でたまらないわ」

 香苗は女主人公をまるで友人のように名前で呼んだ。

「かわいそう?」

「そうよ。彼女は何も悪いことしていないわ。そう思わないこと?」

 作中の登場人物静子はマゾヒストという特異な設定である。鞭打たれるのを好む女。白い襟首から覗く爛れた刻印……それが物語の始まり。

「愛の形は色々ある。法律で罰されない限り、愛し合う者同志がそれを求め合うなら、許されるべきだわ。だから、乱歩のあの結末はおかしいわよ」

 志義はそんな感想を初めて聞いた。友人たちは悪徳で淫靡な香りを絶賛しているが。

 目を見張っていると香苗は更に言うのだ。

「木々高太郎の《文学少女》も悲しいお話だった! 《永遠の女囚》も! 男の人たちって、探偵小説でどうして女をあんなに可哀想に書くの? ひどいわ」

「あはは! 香苗さんみたいな元気な主人公なら悲しいお話は無理だろうな!」

 心からの志義の言葉だった。

「あら?」

 香苗は目を瞬いた。

「輝彦さんもいつもそう言うのよ。私のことお転婆だって。黙ってたら、それなりに(しと)やかに見えるのに、中身は破天荒なジャジャ馬だって。でも」

 さっき勢いよく少年の肩を打った手が閃いて顔を覆う。

「そこがいいって、 いつも、褒めてくれるの。いつまでも、そのままでいてくれって…」


 ―― 君はそのままがいいよ! いつまでもそのままでいておくれ。

    色褪せないで………溌溂に、新鮮に……


「可愛いらしいとか、綺麗だって褒めてくれる人はいたけど、私のことそういう風に言ってくれたのは輝彦さんが初めてよ。普通は眉を顰める色んなことを、全て面白がってくれるの。君らしいって笑ってくれる。だから私はあの人の前ではお澄ましなんてする必要がなかったわ」

 若妻は日々の風景を活写した。先刻、少年が望んだそれ。

「私、草の上に平気で座れるし口笛だって吹けるわ。蛍や蝉を手掴みで捕まえられる。洗濯物を山ほど貯めたあとで、お天気の良い日には1日中歌いながら洗うの。小説に夢中になって晩御飯を作り忘れるのは日常茶飯事。でもそういうところが全部君らしいって!」

 白い両手に顔を埋めて依頼人は泣き出した。

「何処へ行っちゃったの? 輝彦さん? 私、寂しいわ。早く……帰って来て……」

「――」

 この場合、探偵の助手にできることは何もなかった。

 手を伸ばして、小刻みに揺れる背中を撫でる。いつも黒猫にそうしているように、そっと優しく。

 胸の中で呟いた。

 (前言撤回!)

 香苗さんなら悲しい物語には(・・・・・・・)させない(・・・・)。絶対、誓って、この僕が……!





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