新鮮なひと1
★ ようこそ、興梠探偵社へ!
※なお、この図はあくまで宣伝用のイメージです。
本編中にこのようなシーンは(多分)ありません。
★では、どうぞ、今回も楽しんでいただけたら幸いです!
「嘘だろ?」
薄く開いたドアの隙間からチェスターフィールド調の重厚な黒革のソファに座ったその人を見て海府志義は息を飲んだ。
流行のパーマネントの髪、白い項。モダンな銘仙の着物に翡翠の指輪。
年の頃は21、22といったところ。
今日、週番会議で学校にいつもより長く居残っていた自分を呪った。
そのくらい芳しい、夢のような場面……
未だかつてここ興梠探偵社の事務所では見受けられなかった麗しい情景……
こんな美しい依頼人がやってくるなんて……!
「おっと?」
「わ!」
部屋から出てきた探偵とぶつかった。
近づいてくる影に気づかないくらい志義の目の焦点はソファの佳人に釘付けだったのである。
「危ないじゃないか、フシギ君! ドアの真ん前に突っ立っているなんて――気をつけたまえ」
注意する探偵の腕をハッシと掴んだ。
「あの人、誰? まさかと思うけど、依頼人? それとも、興梠さんの恋人?」
「おいおい、フシギ君、そのまさかはどっちにつくんだい?」
助手の少年の失礼な問いかけに一瞬眉を寄せたものの慣れっこになっているので探偵はあっさりと答えた。
「勿論、依頼人だよ」
「そうだと思った! でなきゃ、あんな素敵な人があんなとこに座ってるはずないものね?」
「いろんな意味で言いたいことは山ほどあるが、とりあえずは助かったよ。では、君、お茶を用意してくれないか?」
「喜んで!」
志義は颯爽と駆け出した。
「今日ばかりは特上のアールグレイをお出しします!」
特上のって、では、いつもは何を出しているんだろう?
チラとそんな疑問が頭を掠めたものの、探偵は部屋の中に引き返した。
「失礼しました。たった今助手が戻ったので――これで落ち着いてお話をお聞きできます」
探偵はサイドベンツの裾を翻して真向かいの一人がけの椅子に腰を下ろした。この日のスーツは黒のヘリンボーン、3つ釦。
「それで、どういったご相談でしょう?」
暫し間があった。
やがて――
伏せていた長い睫毛を上げて美しい依頼人は口を開いた。
「行方不明の夫を探していただきたいんです」
「それは、また――」
思わず声を上げたのは全速力で部屋に戻って来た助手だった。
特上のアールグレイを入れたカップをテーブルに置きながら、
「初めてのマトモな――探偵社らしい依頼だなあ!」
「これ、フシギ君」
慌てて目配せする探偵。
「君は黙っていなさい」
咳払いをすると、
「それで――何故、この探偵社へ? どなたかのご紹介でしょうか?」
「それは――」
佳人は顎をあげはっきりと言い切った。
「夫がそうするように申しましたの。夫のたっての希望なんです」
「はあ?」
「ですから、夫が私に言いましたの。自分がいなくなったらその時はぜひ、こちら――興梠探偵社に捜索を依頼するようにと」
「つまりなんですか?」
興梠は一語一語噛み締めるようにして聞き返した。
「いなくなったご当人が、あなたに、自分を僕たちに探させるよう命じた、と?」
「そうですわ」
「前言撤回! ヤッパリな!」
勝ち誇ったように少年が叫んだ。
「またしても風変わりな依頼じゃないか!」
流石に探偵は助手を叱った。
「これ、フシギ君。そんなことで驚くのはやめたまえ」
「そのとおりですわ」
「え?」
この場面での美しい依頼人の賛同を奇異に思って振り返った探偵。依頼人は続けた。
「こんなことで驚かれては困ります。だって」
白魚の如き指でレースのハンカチを揉みしだきながら、言うのだ。
「行方不明になった夫の名をお聞きになったら、皆様はきっと、もっと驚かれることでしょう」
「とおっしゃいますと?」
「申し遅れました。私の名は湯浅香苗。夫は湯浅輝彦と申します」
「――」
沈黙の到来。
押し潰されたような重い静寂の中、片側の窓から溢れたステンドグラスの光だけが賑やかにさざめいている。
「ユアサテルヒコ? アレレ?、どこかで聞いたような……あー!」
探偵のビューロに目をやって志義が声を上げる。
「あそこだ! 今日の新聞にのってた――」
「え? ノアローと何か関係がある人なのか?」
探偵の不敵な飼い猫は新聞の上で寝るのが好きである。
そのせいで探偵は(その職業には致命的なことにもかかわらず)猫が自分の意志でそこから他所へ動くまで新聞が読めない。猫が触らせてくれないから。
抱き上げて退けるなど以っての外である。
そう言う訳で、この日、興梠響はまだ新聞を読んでいなかった。
一方、助手の志義は自分の家で朝、一応、目を通していた。
「いや、のってるの意味が違う。ノアローは新聞の上に乗るのが好きだけど、こっちの旦那様は載ってた人!」
探偵とその助手の頓珍漢なやりとりを聞きながら依頼人はキリッと唇を噛んだ。
《スパイ逃走す!?》
《間際で取り逃がした警察はこの不手際をいかにして回復するのか?》
《海を越え国境を跨いで暗躍するスパイの恐怖!》
昨日、警察は朝陽新聞記者湯浅輝彦(26)をスパイの疑いありとして家宅捜索に入った。だが、その気配を事前に察知したらしく当人はさっさと姿をくらまし――
「へえ! ご主人はスパイだったんですか? そりゃ凄いや!」
猫を払い除けて改めて紙面を読み返しながら叫ぶ志義だった。
無邪気な助手の言葉に湯浅香苗はきっぱりと首を振った。
「夫はそのようないかがわしい者ではありません!」
見開かれた黒曜石の瞳から一筋涙の雫がこぼれ落ちる。
「私は夫を信じています。夫も、私に信じるよう言いました。決して恥ずかしい行いはしていないと。だからこそ……あなたの名を私に告げたんです」
「もう少し詳しく説明していただけませんか?」
こういう時の探偵の声は心に染みる。人を落ち着かせるバリトン。生意気な助手でさえこっそりその声を称賛している。
「わかりました」
美しい依頼人は握りしめていたハンカチで頬を拭うと話し始めた。