夢の中 11
「ありがとうございます、お気遣いいただいて──。
ああ、話し込んじゃってすみません。お見舞い先の子、早く良くなるといいですね」
「こちらこそよ。ありがとう、何でも屋さん」
にっこり笑った早川さんは、ちょうど来たタクシーに乗って去って行った。
次の依頼は横山さんちの庭の水遣り。横山さん、急なお出掛けで夫婦揃って三日くらい家を空けないといけなくなったんだって。夏は本当に、園芸種はちょっと水を遣らないとすぐ枯れちゃうもんね。せっかく咲いてきた向日葵も、一日忘れただけで萎れて焦ったって横山さんおっしゃってた。
園芸種も、最近は色んな向日葵があるから、出会うのが楽しみだ。白いのとか、赤っぽいのとか、八重咲なんかも見かける。横山さんちのは背の高くない、太陽神の名前の付いたお花のたくさん咲くタイプ。なんとこれ、冬になって霜が下りるまで咲き続けるらしい。すごいぞ、太陽神!
水を浴びてツヤツヤ元気になった太陽神に元気をもらい、カンカン照りの道を行く。靴底がアスファルトで溶けそう……なんて思いながら、帽子を被り直す。あー、裏地に作ったポケットの保冷剤、すっかりあったかくなっちゃったなぁ。横山さんちのが、草むしりでなくて良かったよ。
「……」
額から汗。首に掛けた手拭いで拭うと、つい溜息が出る。
さあ、戻ってシャワーでも浴びてしゃっきりしよう。そう思いながらぼんやり歩いていると。
「あー!」
曲がり角の向こうから、車のエンジン音と、悲鳴、自転車の倒れる音。車はそのまま去って行く。まさか轢き逃げ? 黒のセダンだ。ナンバープレートは角度的に見えず。
慌てて角を曲がると、倒れた自転車を前に、中年の女性が立ち竦んでた。
「大丈夫ですか?! 今の、当て逃げですか?」
女性は首を振る。
「違う。ブレーキが、いきなり──」
車が来たからとブレーキを握り込んだら、その瞬間にワイヤーが千切れたらしい。
「ブチッと切れて。反射的に足をついて」
自転車だけ倒したと、彼女は言う。蒼白になった顔の、こめかみには黒子──ん? この人、なんか見覚えが?
「石井さん?」
「え?」
「あ、失礼しました。俺、何でも屋の──」
「ああ! 前に庭木の枝払いに来てくれた、」
石井さんは強張っていた表情をちょっとだけゆるませた。こういうとき、知ってる顔は心強いと思うんだ。
「怪我はないですか?」
「え、大丈夫。大丈夫だけど、びっくりして」
暑いし、今ごろ怖くなったし、暑いし、と繰り返す。
「暑いですよね。ホント、こんなあっついアスファルトの上で転ばなくてよかったですよ! 運動神経良いんですね」
話しながら、俺は倒れた自転車を起こした。あー、フレーム曲がってる。
「娘時代にも一回こんなことがあって──走馬燈が走るって本当みたい、何でも屋さん」
ブレーキワイヤーが切れた瞬間、その時のことが頭に浮かんで、とっさに身体が動いてたんだという。
「もう少しで車にぶつかるってとこで、ハンドル切って、片足ついて。あの時は自転車は倒さなかったけど、さすがにこのトシになったら自分が助かるのに精一杯だった……」
修理代、高くつきそう、と曲がったフレームを見て嘆く。
「いや、そのまま車にぶつかってたり、転んで頭打ったりどっか折ったりしてたら、もっと高くつきますよ。健康第一ですよ」
「それはそうね、そうよねえ」
深く溜息を吐き、石井さんは腕に引っ掛けていた布製バッグの中から、スマホを取り出した。
「こんな時間……急がないと。せっかっく早めに家を出たのに、これを引きずって駅までは。
ああ、来てくれたのが何でも屋さんで良かったわあ。お仕事、頼める? これ、ウチまで運んでもらえない? 家にはお義父さんがいるから──」
壊れた自転車を、何でも屋さんに運んでもらうって連絡するから、お願い! と頼まれた。快諾すると、足早に石井さんは駅に向かって歩き出し──。
「石井さん、ヘルメット!」
「あら! やだ、すっかり忘れちゃってたわ、恥ずかしい」
照れながら慌てて戻ってきて、脱いだヘルメットを自転車のカゴに入れた。
「じゃあ、よろしくお願いします!」
あらためてそう言って、石井さんは布製バッグの中から折り畳みの日傘を取り出し、歩きながら広げて差していった。お、あれは遮光率九十何パーセントかの機能的なやつ。──ヘルメット、庇があるのと、頭を覆われてることで脱ぐのを忘れちゃったんだな、慌ててたし。
そして、俺もキツい。石井さんちって、坂道のてっぺんなんだよ。そしてこれは電動自転車。ごついフレームにどっしりとバッテリー。重い──!
汗をだらだらかきながら、石井さんちに到着。忘れずに連絡を入れてくれてたみたいで、お義父さんがお仕事料を払ってくれた。
さあ、今度こそ帰ってシャワーを──。
そう思ったとき。
「え……」
俺は見つけてしまった。
「……」
行きには気づかなかった、溝に突っ込むみたいにしてあった放置自転車。その荷台に、見覚えのあるハードカバーの本が載っているのを。
何でも屋の忙しい日常……。
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