仔猫の話 八月の終わりと九月の始めに 前編
空が、赤い。
時が止まったような不思議な色に満たされて、見慣れた街がまるで見知らぬ人のよう。
空のすべてが赤く染まるような朝焼けは、たまにしか会えないレアキャラみたいだ。見られるとちょっとうれしい。でも、朝は青系の空でないと、朝! って感じがしないな。なんとなく安らいでしまうというか……。
そんなことを考えながら時計を見、朝の犬散歩のお迎えに、まだ余裕があるなと思う。早く行って、余裕ぶん長めに散歩したらグレートデンの伝さんも喜ぶかな。
にゃあ
静かな住宅街をのんびり歩く俺を呼び止めるのは、いつもこのあたりで見かけるお野良だ。白い毛が、空の色を映して薄赤に染まっている。
「おはよう。見回りか?」
にゃん
「そっか、ご苦労さん」
にゃーん
鳴きながら、猫は歩いては止まり、歩いては止まりして俺の顔を見てくる。まるでついて来いと言ってるみたいだ。
「なんだよ。俺もそっち行くからいいけど」
猫の道案内、ファンタジーだなぁ、なんて思いつつ、薄赤い光をまとった白猫の後をついて行く。よく通るこの路地の先は、一応車の通れる道路だ。でも道はちょっと入り組んでて、外部の車はあんまり来ない。
行っては止まり、俺が追いつきそうになるとまたトコトコ歩き出す。……──あれ、この路地こんなに長かったっけ。それぞれの家の敷地越しに、曲がったり多少はジグザグしてるけど、もう向こうの道路が見えるはず……。
にゃあ
赤い空、ほの赤い光に閉ざされた路地。その途中、どこかの家の裏口なんだろう、開いた木戸の前で白猫がちょこんと座ってこっちを見てる。
「……俺、道を間違えたのかな?」
この路地に、こんな木戸のある家、あったっけ。初めて開いてるとこ見たのかもしれないけど──。覗き込んでみると、庭木のヤツデの葉が繁ってる。重なり合ったその奥は、空の色を映した薄暗がりになっていて、建物の影は見えない。
「……」
なんとなく振り返ってみると、来たはずの路地もまた、ほの赤い光の中に溶けている。
「──お前、お野良じゃなくてここんちの子だったのか?」
にゃあ
返事されても、わからない。猫は木戸をくぐらず、まだそこにいる。路地に、今まで知らなかった横道があったのかな、と考えながら、俺はとりあえずそいつを撫でて落ち着こうとしゃがみこんだ。
「あれ? お前、腰に柄が……尻尾、グレーだったのか。ん? 耳も……」
頭をすりすりしてくる猫は、頭と背中、両足は真っ白で、腰のあたりに雲のような形をしたグレーの縞、尻尾と尻尾の付け根、両耳も同じ柄になっている。それに、さっきまで大人の猫に見えたのに、どうしてか、今は仔猫だ。
「なんでお前、小さくなって……」
思わず呟くと、仔猫が鳴いた。だけれど、声が聞こえない。
きっと仔猫特有の、甲高くも愛らしい声だろうに。
「お前がここに連れてきたのか?」
また、仔猫が鳴く。声のない声で。
「……猫又なのかな? 尻尾、一本しかないけど」
間抜けなことを呟く俺に、仔猫はただ、うれしそうに鳴き声の形に口を開ける。でも、やっぱり聞こえないんだ。機嫌よく細められた目は、何色だっただろう。俺、知りたかったのに──。
仔猫が目を開けた。大きな目を、ゆっくりまばたく。
──ああ、思ったとおり、きれいな色だ。うれしくなって、抱き上げようとしたのに、仔猫はするりと俺の手を離れた。
タタッ、と木戸の前で止まり、俺の顔をじっと見上げる。小さく口を開けて、またひと声鳴いたようだ。そしてそのまま木戸を潜って、ヤツデの影に見えなくなった。
あれは、あの仔猫は──。
思い出そうとしたその時。
ドーン!
ほとんど耳元で何かが爆発した。したと思った。一瞬の風圧と轟音に反射的に目をつぶり、しゃがんだままの姿勢から尻餅をつく。何が何だかわからなかったが、咄嗟に事故だと思った。そのとおり、目を開けると、ほんの目の前鼻の先、路地の出口に車が斜めに突っ込んでいて、腰を抜かしそうになった。
あとほんの何センチかズレてたら、頭がスイカみたいに砕け散っててたんじゃないか──? 今更ながらの死の恐怖に、心臓が乱れ打つ。息が苦しい。
耳鳴りがしてクラクラする頭を押さえながら、路地の壁伝いになんとか立ち上がる。見えたのは、ひしゃげたフロント部分。飛び出したエアバッグとシートに挟まれたドライバ―、そして額から流れる赤い──。
朝焼けは、いつの間にか消えていた。雲が多めの青い空、この時間はまだ輝きが弱い。茫然としつつ、機械的に時計を見る。路地を抜けるのにけっこうな時間が掛かったと思うのに、いつもの路地を通り抜けたくらいの、一分ほどしか経っていない。
にゃあ
足元で声がする。最初に見た、よく見掛ける大人の白い猫。仔猫じゃない。柄も違う。あの仔猫はあの木戸の奥へ……。目だけで探して、さらになんとか身体ごとふり返ってみたけど、赤い光に閉ざされた路地に口を開けていたあの木戸は、朝焼けの光とともに消えていた。
にゃーん
白い猫は挨拶のようにひと声鳴くと、事故車など一顧だにせず、素早く路地を引き返していった。空と共に、路地も明るくなりつつある。見送りつつ、現実に戻らなきゃと気づく。ドライバーの呻き声。俺、何やってんだ、早く警察に連絡しないと、いや、救急車呼だ。いや、どっちも──。
焦るのに、身体が動かない。俺が色んなことを消化できないでいるうちに、近隣の住民が家から出て来ていたらしく、騒がしくなっていく。