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・お茶請け・ 彼岸花の向こうに 3

「これを飲みなさい」


煎茶茶碗を渡される。普通よりさらに温めにされたお茶を、言われるまま飲み干した。──そのまま、俺は放心していたようだ。


「味はするかい?」


たずねられて、俺はのろのろと顔を上げた。阿加井さんと老婦人が気づかわしげに覗き込んでくる。


「味……、ですか……。あ……」


上手く口が動かない。だけど、何をしゃべっていいのかもわからなかった。


「これをお上がりなさい!」


言葉を理解するより早く、口の中に何か丸くて軟らかいものを突っ込まれた。驚いて、眼を白黒させてしまったけれど、味はわかった。


「どうです? わかるかしら?」


緩慢に舌を動かし、顎を動かしながら、俺はなんとか首を頷かせた。


「……甘い、です」


「そう。良かったわ」


老婦人はホッとしたように微笑んだ。その笑みは上品で、とても俺の口に茶菓子を詰め込んだのと同じ人とは思えない──。


「でも、今そこに父と母が……俺が中学生のとき、死んで」


「それは幻よ。夢よ」


きっぱりと、言い聞かせるように彼女は言う。


「ただの──影みたいなものですよ」


「影……」


でも、本当にそこにいたんだ──。考え込む俺に、阿加井さんが追い打ちを掛ける。


「あの世の影であり、この世の影──ただの影法師だ」


「ここでしか、会えない影でもありますよ」


知っているはずでしょうに、と挑むようにつけ加え、彼女はまだぼんやりしている俺に向き直った。


「何でも屋さん。阿加井の庭の、この場所ではね。彼岸花の咲くこの時期だけ、あの世とこの世の境目が曖昧になると言われているんですよ。あなたはご両親に会えたのね……もう何十年もそういう人はいなかったのに、きっとあなたは運がいいのだわ」


うらやましいわ、ぽつんとそんなことを言い、彼女は群生する彼岸花を見やる。その目は遠くの山より、もっと遠いところを見ているようだった。


「馬鹿々々しい」


阿加井さんが言う。言葉とは裏腹に、口調は優しげだ。


「執着してるから会えないんですよ。あなたもご存知でしょう」


「執着? そうかしら」


不思議そうにたずねる顔は、童女のよう。


「執着でしょう」


「わたくしは聞いてみたいだけなんですよ。どうしてそんな誤解をしてしまったのかと」


「あなたがずっと思っていたのは、兄だけだったのにね」


「……」


「でも、本人に会ってそれを聞いてしまえば、あなたは気が済んでしまうでしょう」


「そうね」


「そうして、今度こそ忘れてしまうでしょう。もしかしたら兄は、それが嫌で姿を現さないのかもしれませんよ」


「あなたたち兄弟は、どちらも意地悪だわね」


彼女はふっと目を伏せた。


「──もう、忘れてしまいたいのに」


呟いた声が風に溶ける。言葉を含んだ風が、彼岸花をそよがせて空へ、遠くの山へと吹き渡ってゆく。午後の日差しに溶ける赤。その朱金の色は、何かを俺に思い起こさせた。


夜と朝の間を繋ぐ赤──。夕焼けと、朝焼け……。


無意識に、俺はそれを口に出していたらしい。


「そうだね、黄昏の色だ」


「夜明けの色だわ」


二人の軽いやり取りが、何故だか遠くなる──。


「『私たちはすべて、踊る光の万華鏡。太陽の光に踊り、宙の闇に踊らされる万華鏡──』」


あれ? 俺、今、何か言ったっけ。二人が、すごく驚いたような顔で俺を見てる。


「『踊り続けるのに疲れて……赤い世界に逃げたんだ。慌ただしく移り変わる光と闇、そのあわいに現れる、黄昏と夜明けの静かな薄明り。赤く透き通った光は、彼岸花の色。あんまり綺麗で美しくて、静かで──つい、戻るのを忘れてしまった』」


「……あなたは、馬鹿だわ。そこは── 一度行ったら戻れない世界よ」


彼女の声が、震えている。どうしてだろうと、俺はやっぱりぼんやりしたまま思っている。


「『そうですね。考えなしでした。あなたに、いつまでも覚えていてほしいような、忘れてしまってほしいような……私は卑怯だ。朝に向かうとも、夜に向かうともしれない赤い空のように、曖昧な心のまま──』」


あなたの心を信じられなかったのは、私の心の弱さ、とまた俺の口が紡ぐ。


「『あなたのような闊達な女性には、私のような面白みのない男より、自由気ままでいて、人好きのする、明るく陽気な弟のほうが合うのではないかと……』」


「──同族嫌悪という言葉を、知らなかったんですか、兄さん」


短い沈黙のあと、そんなふうに思っていたなんて、と阿加井さんが小さく呟く。


「そうよ!」


鳳仙花の実のように、彼女の言葉が鋭くはじける。

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□■□ 逃げる太陽シリーズ □■□
あっちの<俺>もこっちの<俺>も、元はみんな同じ<俺>。
『一年で一番長い日』本編。完結済み。関連続編有り。
『俺は名無しの何でも屋! ~日常のちょっとしたご不便、お困りごとを地味に解決します~(旧題:何でも屋の<俺>の四季)』慈恩堂以外の<俺>の日常。
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