五月の雨と竜の鈴 14
2020年4月23日推敲。2330文字→2702文字 話の流れは変わりません。
何かを含んだような表情に、俺の背中までうっすら寒くなる。
「そ、それはどういう……?」
たずねる声まで震えそうだったけど、真久部さんはそれには触れてこなかった。代わりに、もっと怖いことを言う。
「昔々あの辺りではねぇ、子供がなかなか育たなかったらしいんだよ。他所と比べても明らかに」
「え……」
「七つまでは神の内、という言葉が何より重かったというか……。そんなふうに考えて無理やり納得するしかないような、そんな時代が長いこと続いていたらしいんです。──近隣から、何かの祟りじゃないかと遠巻きにされるくらいには」
「……違うんですよね?」
恐る恐るたずねると、「ええ、もちろん」と、今日の真久部さんは思わせぶりに怖がらせることなく、すぐにうなずいてくれる。
「祟りなどという超自然的な現象ではなく──、おそらくは風土病というものだったんじゃないかと、僕は考えています」
「とある一定の地域にだけ、流行る病気のことですよね──?」
どうしてそういう考えに? 言外にこめた俺の疑問に応えるように、「ただの思いつきではありませんよ?」と先を続ける。
「 あの辺り一帯の水源近くに、沼があったらしいんです。夏になると汚泥が悪臭を放ち、何とも知れない虫が発生する、そんな不浄な沼が。だから、それが原因だったんじゃないかとね」
沼は、山裾の窪地にじくじく溜まった水が、狭い範囲で湿地をなしたものだったという。まばらに生えた細い木々のあいだに、澱んだ水辺を好む草や、ぶよぶよとした苔、ぬめった髪の毛のような水草が繁茂する、とても不気味なところだったらしい。そこには不思議な形をした虫や、珍しい両棲類などが棲息していたという。
「南北に細長く、南側にはよく日が当たるのに、北側は常に日陰でじめじめしていたというよ。近づくと、ぐねぐねと渦を巻く眼に見えない何かが、ねっとりと身体に纏わりついてくるようで薄気味悪く、誰も長居はできず、すぐ立ち去ったとか──」
「……」
眼に見えない何かって、何……? とびくびくしてたけど、すぐに「まあ単純に、暖かい空気と冷たい空気が対流していただけだと思うんだけどね」と補足してくれたので、ホッとした。
「そ、そうですよね! 南側の、陽射しで暖められた水面から空気が上に上がって、北側の冷えたままの空気が下から流れ込んで、ぐるぐると。浜風みたいに」
「まあ、ぐるぐるというほど勢いよくはなかっただろうけれどねぇ。小さな溜池程度の広さしかなかったようだし」
真久部さんはちょっと笑った。
「ただ、そこはさっきも言ったとおり窪地だったので、そういった空気の揺らぎを感じやすかったんじゃないかとは思います。ごく狭い範囲で、ゆるり、ゆるりと蠢き棚引く、生暖かいような冷たいような湿った空気──。さぞ、気味悪かっただろうねぇ。加えて、そこだけ植生の違う草木に、見慣れない虫や蛙やイモリ……。まるきり異次元の世界のようで、近寄る人も滅多になかったというのも、さもありなんと言うしか」
「……ですね」
うん。そこが他と比べて異質である理由を理解はできても、俺だって近づきたくないなぁ。
「なんか、悪いものが溜まりやすそうというか──」
「悪いモノ、ですか?」
面白そうに、わざとらしく首を傾げてみせる真久部さん。
「ち、違いますよ! オカルトな悪いモノじゃなくて、現実的な悪いもの。ほら、夏には悪臭がしたというし、何かのバイキンとか! たとえば、その湿地で小動物が死んで、その遺骸が腐ったりしたら。覿面に水が汚れるじゃないですか」
疫病って、そんなふうにして発生することがあるって、俺だって知ってるぞ。
「そうですね。ええ、何でも屋さんのおっしゃるとおり」
満足そうな猫みたいに眼を細め、さらりと肯定してくれる。
「空気も水も、そこに棲息するすべてが閉じて澱んでいるような場所だったので、一種独特の黴菌だか、ウイルスだかが発生していたんじゃないかと僕も思ったんだよ。水源の近くに、そんな場所があったとなれば、ねぇ。乳幼児の死亡率が他所より高かったというのもうなずける。しかも、成人しても、他の地域に比べて早死にの人が多かったとなれば──」
「……まさに風土病、ですね」
恐ろしいことだけれど──、でも、何だかしみじみしてしまった。土地に根付いて生き、土地に根差した病に脅かされ、それでもそこで生きてきた。台風が来るのも地震が起こるのも当たり前のこの国だから、土地の病も当たり前のこととして受け容れて、ただ懸命に日々を生きる……。
「でもね、それもある時期から急速に収まり、今に至るということなんだよ」
「ってことは、何か対策できたんですか?」
よく効く薬草が見つかったとか? そう思って聞いてみたけど、人が何かしたわけではないと言う。
「言い伝えによると、地震があったらしい。かなり強く揺れて、崖崩れなどもあって一部、川の流れも変わるほどだったとか。──その後、湿地は枯れていたそうです。地下の水脈が、断たれたか何かしたんだろうね」
幸い、村の井戸には変化がなかったという。
「建物が崩れるなどの被害はあったらしいけれど、それで命を落とした人はいなかったといいます。地震があったのが昼間だったというから、みんな野良仕事で外に出ていたのがよかったんだろうね。赤子は籠に入れて親の近くだし、小さい子たちは皆で遊ぶか親の手伝い。一部家にいたお年寄りたちも、すぐ外に逃げて助かったというよ。季節も寒くはない頃のことだったというし、井戸の水さえ飲めればなんとかなっただろうねぇ」
「水、大事ですよね──」
地球は水の惑星という。だからそこに生まれた生き物は全て水の申し子なのだと、誰かが言っていた。水がなければ、生きて行くことはできないのだと。
「そう。そして水といえば水神様、つまり竜神様。その竜神様が、ちょっと暴れたせいで地面が揺れたんだと、村人は考えたようです。川の流れが変わったのがその証拠だと。だから地震後すぐに、昔からある山の中の祠に詣でて、人死にのなかったことへの感謝と、今までと同じようにお祀りを欠かさないので、どうかどうかお鎮まりくださいと、皆でお願いをしたそうです」
件の湿地が枯れているのに彼らが気づいたのは、その年の冬のことだったそうだよ、と真久部さんは言葉を継ぐ。
「毎年寒くなると、必ず誰かが病の床に就き、それが体力のない年寄りか幼い子供なら、命を落とすことが多かった。その辺りではそれが当たり前のことで、誰もが何かを覚悟していた──。というのにその年は、病が重くなる者が一人もいなかったというんです。有り難いことだけれども、何故だろう? 誰もがそう思い、不思議がっていたといいます」