五月の雨と竜の鈴 13
「へ?」
どういう意味かと戸惑っていると、真久部さんはまた、ふふっと笑いながら新しいお茶を淹れてくれた。茶殻を茶こぼしに捨て、茶葉を換える。瑞々しい緑色をしたお茶からは馥郁たる香が立ち上がり、この季節の新緑の森を思わせた。
「何事も考え方次第──。わかっているはずなのに、つい悪いほうに流されてしまいそうになっていましたよ」
自分にも温かいのを淹れ直してゆっくりと啜っている。そして、いま初めて気づいたかのように、「美味しいですね」と言った。薄く立ち上る湯気を遠い眼で追っている。
「……だって真久部さん、いつもいい煎茶出してくれてるじゃないですか。あ、ほらマフィン! 作っても自分ではあんまり食べないみたいだけど、こっちも美味しいですよ!」
俺ももうひとつもらいますし、一緒に食べましょうよ。勢い込んでそう言うと、ちょっと驚いたように眼を瞬かせる。でもすぐに笑ってうなずいて、デパ地下に売ってるのと遜色ない自作マフィンを、丁寧に割って口に入れた。
「……」
「ね?」
ゆっくりと噛みしめながら和んでいる姿に、この人の真似をして首を傾げてみせると、少しだけ照れたような微笑みが返ってくる。
「ふふ……手前味噌ですよねぇ」
残りの半分を眺めつつ、そんなことを言う。
「んー、これは自家製味噌じゃないから、手前マフィン?」
思いついて、つい口走ってしまった俺のしょーもないギャグに、真久部さんは肩をふるわせた。
「何だか、元気が出て来ましたよ」
「そ、そう? それなら良かったです」
俺のオヤジギャグだって、役に立つことがあるんだ! ──元義弟の智晴には、毎回冷たい眼で見られるけど。
「──今日は怖い話ばかりして、すみません。脅かすつもりはないんですが」
いつもと違ってねぇ、なんてちょっと意地悪く、でもいつものこの人らしいことを言う。それから、ふうっと息を吐いて、話し始めた。
「尼入道──。アレはかつて、あのあたりの村にあった小さな寺の尼僧だったそうです」
「あー……その。アレって、ちゃんとした尼さんだったんですか……?」
ちゃんとした、っていうのも変だけどさ。あまりに悍ましいモノだったんで、本当に御仏に仕える存在だったなんて信じがたい気がしたんだ。
「剃髪した姿で出てきたでしょう? 尼僧、僧といっても昔のことだから自称などもあったようですが、アレはちゃんと尼さんだと周囲に認識されていたようですよ」
「はぁ」
そうなのか……。
「村は、当時としては大きなものだったそうです。だから、村はずれにあった寺もそれなりのものだったとか。ただ、前の住職が亡くなってからは無住になっていて、住職と前後して亡くなった寺男が寝起きしていた離れなどは、荒れるに任せるしかなかったらしい。──そこにいつからか旅の尼僧が住み着いて、本堂の仏様の世話をしていたというんだよ。尼入道はその尼僧の連れていた、小坊主ならぬ小尼だったのだとか」
「小尼……」
なんか、全体的にゴツゴツして、女性としては大柄だった印象があるんだけど。
「──何でも屋さんが何を考えているかわかるような気がするけれど、それが後に化け物になるような者だったとしても、誰にだって子供の時代はありますよ?」
眼だけで軽く咎めてみせる人に、俺は、あはは、と笑ってごまかしてみた。
「尼入道の師にあたる尼僧が、どこから流れてきたのかは伝わっていません。ただ、村人が気づいたときには粗末な離れを庵とし、本堂に通って仏様に野花を捧げ、清掃や朝夕のお勤めをしながら質素に暮らしていたのだとか」
「勝手に住み着いたりして、村の人に咎められたりしなかったんですか──?」
今の時代なら、不法侵入って言われそう。
「いくつもの御経を読める、まともな修行を積んだ尼さんだったようですから。次の住職もなかなか来てくれず、住職の代わりに経を唱えられた村長も高齢で、本堂の仏様の御世話やら、仏事にも困っていたところだったらしいので」
住まいしたのが、本堂に近い庫裏ではなく、あばら家のような離れだったのも良かったんでしょう、と真久部さは言う。
「己の分を弁えて、ただただ御仏に仕える姿勢。素性はわからないけれど、それなりの教養もあるようだし、そういう人物ならば寺を任せてもいいだろう、と。昔は大らかでしたからね」
今のようには、学問も教養も簡単に学べない時代であったし、少しでもそれを身につけている人間は貴重だった──。そう説明されてみれば、俺にもその尼僧の価値が理解できた。
「これも仏縁だろうと、村長も村人も納得したようです。改めて、離れを庵として住まうことを許し、尼僧もそれに感謝して、日常のお勤めのほかに、村の子供に字を教えたりなども始めたそうです。庵主さまとして、それなりに親しまれていたようだね」
「優しい人だったんですね」
「そうなんだろうねぇ。空き家とはいえ、勝手によそ様に住み着いたのも、元はといえば連れていた小尼が体調を崩したせいらしいし」
昔の旅は、子供には特に過酷だったでしょうから、とつけ加える。
「そっか。歩きですもんね……そういえば、その時の小尼は幾つくらいだったんでしょう?」
「さあ、そこまでは」
伝わってないからわからないけど、七つは越えていたんじゃないか、と真久部さんは首を捻る。
「でないと、体調不良から快復するのは難しかったんじゃないかなぁ。──その村のあった、あの地域的に」
そう言って、うっすらと笑った。