五月の雨と竜の鈴 12
今日は天赦日。がんばりました。
「そして何でも屋さん、きみの場合は」
若い日の記憶にうっかり気を取られていた俺を、穏やかな声が引き戻した。
「心の油に危険な火を近づけないようにしている──。おそらく、想像力を逆の暗示で抑えているというか、コントロールしているんじゃないかな? ……無意識に」
どこか生温いような、何ともいえない慈愛に満ちた表情で、真久部さんは俺を見ている。
「それは、どういう──」
「怖いと思うから怖い。そして、怖くないと思えば、本当に怖くなくなる。思い込んでしまえば、心の油に火が近づいても、それは燃え上がることはない。何故なら、その火には熱はないから──。熱くも冷たくもない、プラスでもマイナスでもない曖昧な暗示の力が、想像力の海を凪いだままにしている……」
──見ない見えない聞こえない。すべては気のせい気の迷い。
「……」
何とも答えることができず、俺は黙ってしまった。
意地悪な人は、ふふ、と笑って瞳を和ませる。
「有ると思えば有る、無いと思えば無い。禅問答みたいだけれど、でもねぇ。見えないと信じていればそこに有るものすら眼に入らないし、見えると信じれば、見えないものまで見えてしまう──」
何もない暗闇に何かの気配を感じて怯えたりするのは、火を持たず、夜闇に潜む外敵に怯えていた原初の恐怖の名残りだから、自然なことではあるんだけれど、と続ける。
「度が過ぎるのは、ね……。よくたとえで言われる枯れ尾花、それを幽霊と見間違うのはいいけれど、ただのススキに怯えて正気を失い、逃げ出して車にはねられたり、池に落ちて死んだりとなると、それはもう自分の想像力に殺されたようなものだと思いませんか? 昔話には、狸に化かされたとかいう話がちょくちょく出てきますけど、あれも、そう、半分くらいはそういうことなんじゃないかなぁ──」
どう思います? そんなふうに言って、ちょっと小首を傾げてみせる。誘うように。
「あー……度が過ぎるのは、何でもよくないですよねぇ」
だけど俺は誘いに気づかぬふりをして、無難にうなずくだけにしておいた。下手に反応して、「え、残りの半分は本当に化かされたってことですか?」てなこと言ったら、喜ばれてしまいそう──っていう俺の気持ちなんか全てお見通しなのか、何故かうれしそうに眼を細め、真久部さんは言葉を継ぐ。
「──ほらね、きみはよくわかっている。きみの心の結界はとてもしなやかで、滅多なことでは壊れない」
「はあ……」
結界……? 俺、単純に怖がりなだけなんだけどなぁ。
「きみは怖いのが嫌いだけれど、どこか遠いというか──そうだね、獰猛な白熊を、動物園の透明な壁越しに見ているようなところがある。心が張った、結界の内側から。だから、まやかしの恐怖に呑み込まれるようなことがない──。きみのそういうところに、僕は頼もしさを感じているんですよ」
「……」
想像力。時に人を殺すほどの力を持つそれ。暗示の力だけが、唯一その想像力を制御することができるのだとさらに告げられて、俺はようやく真久部さんが何を言いたいのかわかった、つまり──<見ない見えない聞こえない……>という俺的慈恩堂心得は、間違ってはいないということだ。
そんなふうにせっかく納得してみたのに。
「だけどねぇ、何でも屋さん。その頼もしさでも太刀打ちできないことが、世の中にはあるんですよ……恐ろしいことに」
「え……」
「尼入道が、まさにそういったもののひとつなんです。暗示すら退ける恐怖──それ故直接的な脅威となり、人を害する……だから、出会ってはならないし、出会わないようにしなければならない──」
真剣に語られる言葉に、またぞろ寒気がしてきて、俺は無意識に両腕を擦っていた。
「言い伝えはまさにそのためのものであり、大鈴は対策でしかなかった──。五十川さんが覚えていなかったことを後悔しているのも、僕が──己の勉強不足、不明を申しわけなく思っているのも、そのためです。今ではすっかり忘れ去られていた化け物ではあるんですが、かつてはもっと身近なもので、それはもう、たいそう恐れられていたということなんですよ……」
だんだん小さくなる声でそう言って、真久部さんがまた眼を伏せてしまう。丸められた肩がなんだか小さく見えて──いや、ホント。俺だってアレを思い出したくはないんだけど……ないんだけど、でもさ。
「五十川さん世代で、既に過去のものだったみたいだから……昔に怖かった話が、現代ではちっとも怖くなくなったなんていうのは、よくある話というか──」
昔はさ、<がんばり入道>とか、何のためにいる(?)のかわからないような妖怪もいたみたいだし。<すねこすり>って怖いかなぁ? 夜中のトイレが不気味だとか、なんかいきなり足元がくすぐったい気がしたとか、大して意味のないことに意味を求めてるうちに、そういう存在を創り出したんじゃないかと俺は思ってる。
「昔は、夜の闇が深かったですからね──」
眼を伏せたまま、真久部さんは言う。
「蝋燭の明かり、行燈、提灯。消えてしまえば真っ暗で、自分の鼻の先すら見えない。だから闇に蠢くものは何であれ恐ろしかった、たとえそれが自分の影であったとしても。けれどもそれは想像力の産物であって、本来は害がない。──真っ昼間に現れる尼入道とは、そこが違うところです」
「……」
つまり、あまりにもはっきりと姿を現すので、絶対に気のせいにさせてくれないヤツってこと……? それって、かなり、ものすごく──。
「目立ちたがり……?」
ぽろり、そんな言葉を呟くと、ずっと固くなっていた真久部さんの頬がゆるみ、いつもより白かったそこにちょっとだけ血の気が戻った。
「もう、まったく何でも屋さんは──」
そう言っていつものように笑うから、俺はなんとなく安心した。別にウケを狙ったわけじゃないんだけども。
「何でも屋さんは、僕の心の結界までも張り直してくれるんですねぇ」