五月の雨と竜の鈴 9
※2019年8月21日推敲。2195文字→2368文字 話の流れは変わりません。
大人が、とても軽い気持ちで子供に与えてしまうトラウマの功罪について考えていると、真久部さんがそっと手作りのお茶請けをすすめてくれた。
ん? そうえいばちょうど昼のおやつ時か。俺が黙り込んだのは、小腹が空いたせいだと思われたとか? 違うんだけど、でもこの人の作るものは何でも美味しいから……。お? 割ってみると、ふわっとお茶のいい香り。粒あん入りの抹茶マフィンか!
ほころんだ俺の顔を見て、真久部さんは少しだけ表情をゆるめた。
「──新作なんですよ。何でも屋さんは緑茶がお好きだから、抹茶味もいいかなって」
抹茶味、最高です! 俺はぶんぶんうなずいた。口の中いっぱいに広がる、小麦粉とバターと抹茶の絶妙なハーモニー。卵だってとってもいいのを使ってるって俺知ってる。そこにしっとり上手に炊いた粒あんが加わって、甘さ控えめの生地部分と相性がばっちり! ──今の俺は多分、満面の笑みになっていると思う。
真久部さんもちらりと微笑んで、さっきの話の続きを始めた。
「幼い頃の五十川さんのトラウマはともかくね、何でも屋さん」
言いながら、空になってる湯呑み茶碗に新しいお茶を淹れてくれる。
「尼入道の話はしょせん、大人が子供に言うことを聞かせるための方便、ただの御伽噺だと心の中で片をつけて、今回のことがあるまで細かいことはすっかり忘れてしまっていたと、そういうことらしいんです。──あまりに空想的な存在だし、無理もないとは思いますが」
「そりゃ、まあ……」
同じく空想的な、たとえば河童とか、天狗とか、実際見たことあるなんて人いないもんな。あんなのはみんな、御伽噺の中だけの架空の存在だ。尼入道とかいうのもその手の類だと、普通は思って当然だろう。
だというのに、俺。何故かそういうのと遭遇しちゃった、らしい。もう全て気のせいだったということにしておきたいんだけど……。気のせいがダメっていうなら、狐と狸が久々に通りかかった人間に大ハッスル、がっつり手を組んで大いに化かしまくり、怖がるさまをきゃっきゃうふふと楽しんでいたんだよー、とか考えておくほうがメルヘンでいいんじゃないかな──。
とかぼーっと思ってたら。
「忘れていたせいで、人様を危ない目に遭わせてしまったと、五十川さんはとても後悔してらしてね……」
シリアスに目を伏せる真久部さん。うん、そう言う真久部さんも同じくらい落ち込んでるっぽいよね──。
「いや、まあ……そりゃ確かに、尼入道避けってことこそ知らされなかったですけど、怪異に遭ったら鳴らすようにと、そこはきっちり大鈴を持たせてくださったわけだし」
対策グッズを用意してくれて、使用方法も教えてくれてたんだから、いいと思うんだ! ──落としちゃったのは自分の落ち度だし、と言うと、真久部さんは首を振った。
「御札を納めに行くとき、あの大鈴を持っていくようにと指示をしたのは、単純にそうするのが仕来りだったから、というだけのことらしいんだよ。つまり、それが必要な理由は覚えていなかった。それでも、五十川さんはこういったことの仕来りや決まりは守るほうが良い、という考えでいらして」
それはとてもいいお心掛けなんですがね……、とまた真久部さんは溜息を吐く。
「──鈴のついたキーホルダー、持っててくださって本当に良かったですよ、何でも屋さん。それが無ければ危なかった、いくら護りの強い君でも」
「え……」
思わず声が漏れる。あんまり考えないようにしてたけど、俺、そんなに危なかったの……?
「五十川さんの忘れていたこと、それは、<もしもクログツナに出会ったら、絶対に見送られてはいけない>というものでした。──話によると、どうやら君は見送られる形になってしまったらしいね」
「……クログツナ?」
って何。わかってない顔してる俺に、真久部さんは教えてくれる。
「黒い朽ち縄。クチナワから転じてクツナ。──クチナワとは、蛇のことです」
黒い蛇を見たんでしょう? そう言われ、俺は思い出した。氏神様の神社に通じる細道の入り口で、俺を驚かせてくれた小さなカラスヘビ。赤い舌をチロチロ出し入れしながら、まるで俺を見張るようにしていた……。
「俺、そいつにびっくりしてスッ転んだんです! 大鈴は、そのときに落として。拾ったつもりが似たような大きさの小石を──」
ポケットに入れていて、肝心のときに鈴が無かったんだ。そう言うと、真久部さんは難しい顔をした。
「もう、そこから魅入られていたのかもしれないね……。もしもクログツナのことをあらかじめ聞いていたら、蛇を見たところでそんなに驚かなかったと思うよ」
「……」
確かに、心構えがあればあそこまで驚かなかったかもしれない。小さいやつだったし。
「見送らせないためには、近くに石でも投げて追い払えばいいということです。追い払うだけで、決して殺してはいけないそうですがね──」
何でも屋さんは言わなくてもそんなことはしないだろうけど、と呟く。
「クログツナは、尼入道の眷属とも、あるいは、尼入道自身が姿を変えたものとも言われているそうです。その小さな眼で対象を見つめ、遠ざかる背中を見送ることにより、尼入道の視線を繋ぐのだとか。氏神様を恐れているので、御札を持っているあいだは襲ってきませんが、御札を納めて神域から出てくると姿を現し、じわりじわりと対象を睨み殺すそうです」
「睨み、殺す……?」
あの、醜く膨らんだ白目。ぎろりぎろりと蠢きながら俺の動きを追っていた、あの小さな黒目──。
「……!」
丈高い草の中、不気味な尼にどこまでも追いかけられた。真横から顔を覗き込まれ、どんどん恐怖を煽られて。粘つくような敵意と害意、悍ましい呪言。怪異に遭ったら鳴らせと渡されたその鈴が、小石に変わっていたときのあの絶望感。
ののかのくれたキーホルダー、そこについてた小さな鈴の音だけが俺の支えだった──。