五月の雨と竜の鈴 8
長い間中断してしまってすみません。
モニタの異常で、三分の一強が捩じらないネジリアメに覆われてしまって…。
※2019年8月19日推敲。2034文字→2195文字 内容に変わりはありません。
「そんなわけで昨日、お見舞いも兼ねて面会時間早々にお邪魔したんですが、挨拶するなり泣かれてしまって……」
あれには焦った。四人部屋の他の患者さんたち、全員リハビリとかで不在でよかったよ。でなきゃ、骨折で弱ってる老婦人を泣かせるなんて、コイツどんな悪いヤツなんだろう、とかヒソヒソされてしまう羽目になったかも……初対面なのに。
事情を説明──はややこしくなるからしなくていいけど、知ってて周囲に取りなしてくれそうな真久部さんの知り合いの人は、数日前に退院したっていうしさぁ。
「まあ、お孫さんの八歳の誕生日までに御札を納めることができるかどうか、ずっと張りつめてらしたようなので……あんなに喜んでもらえたら、俺も何でも屋冥利に尽きるというか」
なだめるの大変だったけど。けどまあ、伝言だけじゃやっぱり不安だったみたいだから、時間をやりくりして最速で報告に行ったのは正解だったと思う。
「こういうのは、何でも屋さんに任せておけば大丈夫──、なんて。五十川さんにはわからないことでしょうからね」
はぁ、と真久部さんは悩まし気に溜息を吐く。
「いやあ、はは……」
こういうのって、どういうの? 怖いからたずねるわけにもいかず、愛想笑いでごまかすも、しょげてる様子の真久部さんはいつものようにつついてくるでもなく、両手に包み込んだ湯呑み茶碗の中身をじっと見つめ、意味もなく揺らしながらぼそぼそと話す。
「御札のことに関しては、僕はちっとも心配してなかったんだよ。だけど、まさか本当に尼入道が出るなんて──」
思ってもいませんでしたと呟きながら、結局飲まなかったお茶を茶托の上に戻して項垂れる。
「いつもの備えで充分だと、安易にも考えてしまっていたんです──」
「せ、線香と煙草と酒に塩、ですね?」
俺が相槌を打つと、真久部さんは無言でうなずく。
「いつもいろいろ持たせてくださって、あはは。ま、まあ、それでだいたいはいけるんですよね!」
何が、とは言いたくない。それを聞いた真久部さんはまた溜息を吐く。
「小物はね。──一番大切なのは決まりごとを守ることだけど、それに関しては君はほぼ完璧ですし」
「……」
仕事をするにあたって指示された手順や決まりは、守るのが当然だと思うんだけどな。たとえそれが素人目には無意味に感じられたとしても……。まあ、真久部さんが俺を買ってくれている一番の理由はそれみたいだから、ここは素直に喜んでおこう。うん。
「僕はね、何でも屋さん。今回の大鈴は、既に形骸化した慣習に過ぎないと考えていたんだよ。五十川さんだって、御札を納めるときに鈴を持つのは昔の縁起担ぎみたいなものか、単なる熊除けだろうとおっしゃっていたし……あの辺りに熊は出ないそうですがね──」
だから、大鈴が壊れた経緯を聞いて、五十川さんもだいぶん慌ててらっしゃいました、と続ける。──いつもは読めない怪しい笑みを浮かべている真久部さん、その黒褐色と榛色の、色違いの瞳がわかりやすく愁いを帯びているので、俺は何だかへどもどしてしまった。
「いやー、はは……く、熊は怖いですよねぇ。あはは。あー、とにかく。俺は今回粗忽にも、お預かりしたものを壊してしまったわけで。弁償しないといけないと思って、落としたときの状況とかをお話したんですけど、五十川さん、聞き上手で──」
つい、軽い気持ちでしゃべっちゃったんだよな、気味の悪いモノに追いかけられたけど、どうやら狐か狸に化かされたみたいです、って。
笑い話のつもりだったのに、「それがまた、坊さんかと思ったら尼さんでねぇ」って言ったとたん、五十川さん、みるみる青くなって──。骨折以外にも持病があると聞いてたし、慌ててナースコールを押したさ。すぐに来てくれた看護師さんが慌ただしく脈を取ったりし始めて、お邪魔な俺はそっと病室を出たんだ。次の仕事まで、もうそんなに時間もなかったし。
今日、また様子を見に行くつもりだったけど……、昨夜、そろそろ寝ようかという頃に真久部さんから「五十川さんの依頼の件で話があるので、お時間のあるときに店に来てください」と暗い声で電話があったから──。
「その、尼入道ですか? 怖かったけど、怖いだけのやつだと思ってたんですよ……」
怖かったよ。あの時は本当に怖かった。今でもあの膨らんだ白目とぎろぎろ動く小さな黒目を思い出すと、ぞぞっ! と全身に鳥肌が立つくらいだし、笑い話にでもしないとやってられない……。だけどさ、それ以外の害はなかったんだ。──真久部さんが普段、この手の依頼をするにあたり危険視しているらしい、夢見や体調の悪化に繋がるようなことは。
尼入道はねぇ、と真久部さんは語る。
「最後の目撃例は、江戸時代の終わりか、明治の初め頃……百数十年ほど昔のことらしい。五十川さんが子供の頃、昔話として御祖母様から聞いたことがあるというくらいでねぇ。今の人はほとんど知らないんじゃないかとおっしゃってました」
悪い子のところには尼入道が来るよ、白目で睨まれるよ、とおどろおどろしい声で言われて、子供心にトラウマになるほど怖かったそうです、とつけ加える。
「……」
娘のののかがもっと幼かったとき、あんまり食べ物の好き嫌いをするから、「もったいないオバケが出るぞ~」と脅したら、その夜、もう収まりかけてたオネショが再発したことを思い出した。反省……。ののか、今でももったいないオバケを怖がるからな──。