五月の雨と竜の鈴 6
※2019年7月24日推敲。2037文字→2029文字 話の流れは変わりません。怪尼のことばを方言ぽくしてみました。
足元だけを意識して、ただ歩く。ひたすら歩く。見なければいい、見なければ……。俺は歩いているのに、視界の隅の尼さんの位置は変わらない。まるで互いに静止しているかのような錯覚に陥って、一瞬足がふらつきかける。同じ速度で並走する列車の片方に乗っているように、自分が動くのではなく、周りの景色が後ろに流れていくようだ。
汗が、眼に入る。拭うために上げた腕を、尼さんに掴まれてしまいそうで恐ろしい。瞬きをする。尼さんがこちらの様子をじっと覗っているのがわかる。周囲の草がなびく。俺のシャツがはためく。尼さんの衣は動かない。睨む白目だけが鈍く光を弾く。何者に対してかもわからない、憎悪に濁った小さな瞳。
質の悪い3D映像だ、きっとそうなんだ。実体なんてない、ただの映像。怖い以外に害なんてない──。
そう思ったときだった。
「……っ!」
尼さんが、首だけをにゅっとこちらに突き出してきた。突き出して、じっとりと俺の顔を覗き込む。もう眼の端だけではなく、片目の三分の一ほどの視界を奪われてしまった。
──見ない、見えない、聞こえない。すべては気のせい、気の迷い。
心の中で、怪しい古道具屋・慈恩堂で店番をするときの心得を繰り返す。童子人形があくびをしたように見えても、招き猫がやたらに小判を光らせてくるような気がしても、大きな金具のついた船箪笥の中から波の音が聞こえるように思えても、それはみんな気のせいだし、気の迷いだった。──そうすることができた。
今、それがとても難しい。
慈恩堂の古道具たちには感じない、粘りつくような敵意を感じるからだろうか。
──見ない、見えない、聞こえない。すべては気のせい、気の迷い。
気づいているくせに、と尼さんの唇が動いたような気がする。乾いて、ささくれた分厚い唇。
──見ない、見えない
見えてるくせに
──……聞こえない。すべては気のせい
気のせいやったら
──気の迷い
気の迷いやったら、なんでそんなに先急ぐん
──見ない
見えてるから
──見えない
見えへんと思いたいんやろ
──聞こえない
聞こえてるんやろ?
──見ない、見えない、聞こえない
見えてるし 聞こえてるはず
見ぃや 聞きや
吾ん姿 吾ん恨み
耳元で聞こえるそれを、幻聴と思うのは難しかった。尼の唇が動いて、御経のようなものを誦する。早回しに高くなり、遅く伸びて低くなる。甲高い子供の声にも獣の唸りにも聞こえるそれは、御経ではなく、不吉な呪言のようにも聞こえた。
なぁ~まぁ~んだ~ダダダダダダ……
ょよ~ぜ~ガモンガモンガモン
いっさいショショぎょう~ねぇんぎょ~
違う、違う、聞こえない。そんなもの聞こえてなんかいない。そうだ、鈴、鈴を振って音を──ポケットの中の鈴は、落としたときに石とすり替わってしまった。
ょ~だいピクピクピクシュシュシュシュ
し~ょーゆーさんま~くドドドドう~う~
さい~ぞ~ううう~さいぞう~ウウウウぅゥ~
鈴は、今が必要なときだったんだ。ようやくそれがわかった。だけど、鈴、鈴は……ああ、ののか、パパ、もしかしたらもうお前に会えなくなってしまうのかも……ののか、俺の可愛い娘……。
「!……」
ののか、鈴。ののかのくれたキーホルダー。家の鍵をつけてウエストポーチに入れ──てない。鍵を掛けてポーチの中に仕舞おうとしたとき、近くでいきなりパトカーのサイレンが鳴ったから、びっくりしてズボンのポケットに──。
震えそうになる手で、尻ポケットを探った。尼のいるほうと逆で良かった、そう思いながら、小さな鈴のついた鍵を取り出す。狭いポケットから外に出されたことで、鳴ることを思い出した鈴が、可愛らしい音を立てる。
ちりん ちり ちり
そのとたん、俺の頬につくくらいに突き出されていた尼の顔が少しだけ遠のいた。
ちりちり ちりん
澄んだきれいな音。呪言を唱えていた唇が、悔しそうに歪むのがわかった。
ちり ちり ちり
顔は引いたが、尼はまだついて来る。ついて来て、しつこく呪言を唱え続ける。
ウぅウウぅゥ~さ~い~ぞ~ううう~さいぞう~
し~ょーゆーさんま~くドドドドう~う~
ピクピクぴくしゅ~
尼の白目がさっきよりも膨らんだ気がした。嫌悪と恐怖で息が苦しい。ハッハッハ、自分の呼吸音が耳障りだ。どうやって息をすればいい?
ちりちり ちりちり
鈴を振れ、娘のくれた鈴を。あの子が俺を思う気持ちが、俺を護ってくれる。
ちりちり ちりん
「……」
五十川さんから預かった鈴があんなに大きかったのは、このためか。小さい鈴では、尼を撃退するまでには至らないのかもしれない。
ぞ~あ~くくクククくさぁぁ~いぞぉぉ~
アァ~くふげんふへんんん~ンン~
へぇんへぇん~んん~しょ~きキキィキィィ~
悍ましい響きの呪言が、伸びたり縮んだりしながら虫のように耳の奥を這い回り、じわじわと精神を侵そうとする。──息ができない。
目の前が、昏くなる。
ああ、空はあんなに眩しくて、爽やかな風が吹き、ウグイスは長閑な鳴き声を響かせていた。そんな明るい五月の山の片隅で、俺はこの尼に殺されてしまうのか──。
尻と尼って、似てるよね