五月の雨と竜の鈴 5
※2019年7月24日推敲。2127文字→2472文字 話の流れは変わりません。
そんなところでどうしたんだろう? その人は、鳥居から少し離れた叢の中に突っ立っているようだ。
「……」
うっかり道を外れたハイカーか、それとも麓の村の人が参拝に来た? 俺が神社に礼をしているあいだ、話しかけるのを待ってくれているのかも。そんなふうに考えて姿勢を戻し、挨拶しようと思ったけれど──、動けない。
金縛りじゃない。そうじゃないんだ。ただ、下手に動けない、動いてはいけない、声も出しちゃいけない。そんな気がして身動きできない。
その人も動かない。
頭を下げたまま、眼だけで俺はそっちを見た。氏神様の杜の道は、途中の樹高の低い木々の続くあたりまで丈高い草の中だ。だから、普通は道から外れたりしないだろうし、もしわざわざ叢の中に入ったというのなら、草が踏まれて道がつくはず。なのに、そういった痕跡が見当たらない──。
するり、風が抜けていく。
木々や草がさわさわと揺れる。俺の着ている長袖シャツの袖や、腰に縛っているパーカーもはためく。なのに、その人の着ているものは微動だにしない──あれ? 服だと思ったけど、違う。黒い、着物……? どうして今まで気づかなかったんだろう、粗末な布地が破れてほつれて、まるで萎びた海松が垂れ下がっているみたいだ。なのに、風などまったく知らぬげに、襤褸切れの端がそよぎさえしない。
それに気づいたとたん、心臓が大きな音を立てた。じわりと恐怖が押し寄せる。何故かはっきりと、真久部さんの持たせてくれた煙草も線香も頼りにならないと感じた。背中が重苦しいほど冷たく、寒くなった。脂汗がにじむ──。
その人は動かない。
怖い。怖い、怖い怖い! 走って逃げたい! そんな衝動に駆られたけれど、鳥居の向こうに頭を下げた姿勢のまま、俺はなんとか深呼吸をした。息が極端に浅くなっていたことに気づく。落ち着かなきゃ。焦っちゃダメだ。いくら昼間で明るく見えても、ここは山の中。異界なのだ──。
──理解できないことが起こっても、理解しなくていいんです。
ただそのまま立ち去りなさい。
真久部さんはそう言っていた。
だから、俺は何も考えないようにゆっくりと頭を上げた。動かない人影などそ知らぬふりで眼もくれず、くるりと向き直って鳥居を背にし、前だけを見る。帰るんだ、人のいる世界に。──勢いをつけるために、もう一度深呼吸をする。
その人は動かない。ただじっとそこにいるだけ。
だから、大丈夫。リュックを揺すり上げ、俺は歩き出した。晴れた空、輝く新緑。明るい世界だけを見て、二重写しのその向こう、異なる世界など見えない、気づかないふりをする。
一度通った道だから、二度目は歩きやすくなっている。不規則不揃いな敷石には慣れたし、左右から覆いかぶさる草も、往きに歩いたぶんだけ折れている。登山仕様の靴がしっかり足元を掴んでくれて、踏み出す足が頼もしい。
ホーケキョ ケキョ
ホー
ウグイスの声。無意識に強張っていた顔が、のどかな鳴き声に緩んだのがわかる。帰りはゆっくり、ハイキング気分で心楽しく──。
そう思ったときだった。視界の隅に、またあの人影が見えた。草の海を、音も立てずに移動してくる。俺の後をついてくる。黒い、着物……ああ、あれは坊さんの墨染めの衣だ。見てもいないのに、視える。剃髪したでこぼこの頭、ささくれた衣。下に着ている小袖の襟元は、元は白かっただろうに、煮しめたように茶色く汚れている。
風が吹く。草はそよぐ。
なのに、海藻のようにほつれ果てた袖や裾を揺らすこともなく、滑るように坊さんがついてくる。草の中、俺のすぐ隣にピタリと張りついて。
「……!」
ドッと汗が出た。前を見ているのに、坊さんが真横から睨んでくるのが目の端に見える。三白眼というのでもないだろうに、その憎悪の表情は何故か白目が目立つ──。
何かに似ている、と気を紛らわすために考えながら足を動かす。そうだ、樋口さんちのチョコちゃん。あの子に似てるんだ。誰にでも乱暴に吠え掛かり、飼い主の樋口さんさえ何度も噛まれているという、可哀相にしつけのなってない豆芝の──。
毎朝毎夕散歩に連れて行ってもらい、餌も水もたっぷりもらっているのに、どうしてか人間すべてを憎んでいるかのようなチョコちゃんの、高く低く唸りながら今にも襲い掛からんと吠え猛る、あの顔。
寸前まで構って欲しそうで、とても友好的に見えたのに、お近づきにしゃがんでそっと手の甲を差し出そうとしたら、何故かいきなり激昂して噛まれそうになって慌てた。
昔テレビで見た、文楽人形の美女が一瞬で鬼女になる仕掛け。あれに似ていると思った。あの豹変ぶりはそれほど異様で、直前の友好的で親し気な仕草は、人を誘き寄せて噛んでやるための罠だったんじゃないかと今でも思う。繋がれてるチョコちゃんに手を出して、噛まれた人が実は何人もいると聞いたけど、そりゃ騙されると同情したよ。樋口さんに懇願されたけど、本犬の同意のないリードを握るのはどうしても無理だった。
散歩を頼まれて、俺が唯一お断りした犬の、吠え唸りながら鼻に寄せた皺、剥き出しの歯、膨らんだ白目──。
ああいう表情を人間がすると、こんなにも醜くなるのかと俺は内心で驚愕していた。ギロギロと、ぬめるような白目の光。賢くなさそうな瞳が、憎悪に凝り固まって縮んでいるかのようだ。小さい子がふくれたときにするように、顎を傾けて突き出すように引き結んだ唇はいかにも愚鈍そうで、その下の喉は……喉仏がない? ってことは、女性──? 尼さんなのか……?
「……」
どうでもいい。尼さんだろうが、坊さんだろうが。もういい加減ついて来るのはよせ。何で俺を追いかけるんだ、俺はお前に気づいてない。気づいてないんだ!
「ぁ……」
そうだ、鈴! 怪異に遭ったら鈴を鳴らせと渡された、でっかい鈴。この道に入るところで一度落としたけど、しっかり拾ってポケットに入れた。
震えそうになる指先で、ポケットのボタンを外す。中の鈴を取り出そうとして、違和感を覚えた。違う! これは鈴じゃない、似たような大きさの、ただの石だ!
真横の尼さんの顔が、嘲笑うように厭らしく唇を歪めるのがわかった。