冬の金魚 その後 1
短く終わらせるつもりですが、念のために数字にしておきます……。
三月初め、まだ寒い。
でも、梅の花はそろそろ満開。近くに寄るといい匂い。
東風吹かば匂い起こせよ梅の花……なんて風流ぶって呟きつつ、自転車漕げば駅が裏、すすけたビルの一階に、昭和風味の純喫茶。
「こんにちは。梅野さんいますか~?」
ドアを開けてのぞくと、ああ、探し人はやっぱりここにいた。もう一人のお客さんと、カウンターの中の大将と、同年代のご老人どうし三人で呑気に雑談してる。
「あー、ウチのやつ、何でも屋さん呼んじゃったか」
久しぶりの外出なのになぁ、と梅野さんは頭を掻く。
「ダメですよ、スマホの電源切っちゃあ。──奥さん、心配してらっしゃいましたよ。退院したてだっていうのに、出歩いちゃダメでしょう」
梅野さん愛されてんなぁ、なんて、お客さんと大将に笑われてる。
「帰りは歩くんじゃなくて、タクシーに乗ってくださいね。奥さんからの伝言です」
「いやー、出歩くってほどじゃないんだよ、何でも屋さん。ここにだってバスに乗ってきたんだから。僕だってちゃんと考えてるんだよ」
それにしても、何でも屋さんは何でここがわかったんだい、と梅野さんは不思議顔。
「勘です! って、言いたいとこですけど、俺、実は前に、何度かここに入っていく梅野さん見たことあるんですよ。──奥さんに、内緒の場所なんでしょう? 事前にお聞きした、梅野さんが立ち寄る可能性のあるお心当たりの場所に、このお店の名前なかったですもん」
梅野さんの秘密のお店、純喫茶・野梅系……これ、“ノウメケイ”じゃなくて、“ヤバイケイ”って読むんだって。といっても“夜露死苦”的な感じじゃないよ? ちゃんとした読み方で、梅の原種に近い系統? のことをそういうんだって。物知りな大仏の御隠居から教えてもらった。
「阿漕が浦だよ、梅野さん」
お客さんが笑う。
「悪いことはできないねぇ」
「コーヒー飲むのが悪いこと? そんなことないよねぇ、マスター」
マスターは笑っているだけ。
「何度も通っていれば、そのうちヨメさんにだってバレてたさ。まあ、俺もここを隠れ家にしてるからなぁ。いや、俺もバレてんのかもな、ヨメに。俺に言わないだけでさ。ああ怖い怖い。梅野さん、四の五の言わずに帰りなよ」
マスター、タクシー呼んでやってよ、なんてお客さんは勝手に仕切る。
「山の神は怒らせると怖いよ。早く帰んな」
「桜庭さんは相変わらずイヤミだねぇ」
あ、桜庭さんっていうのかこの人。覚えておこう。人の名前を覚えるのは、営業の基本さ。
「だって梅野さん、まだ顔色戻ってないもん。病み上がりが生意気言ってちゃいけないよ。ヨメさん口煩いって言うけどさ、心配だから五月蠅く言うのさ。俺みたいに放って置かれてるのとは違うよ。ありがたいと思わなくちゃ」
「そういう桜庭さんだって、前に奥さんと一緒に買い物してるの見かけたことあるよ。百貨店の宝石売り場で、仲良さそうだったなぁ」
「あ、あれは結婚記念日だったから──」
桜庭さんはらしくもなさそうなのに赤くなった。
「苦労かけたし、誕生石の指輪が欲しいっていうからさぁ……」
「愛妻家だねぇ」
反撃して、梅野さんはマスターと俺たちに断ってスマホでタクシーを呼ぶ。
「さて。駅近だし、すぐ来るだろう。それまでここにいる。何でも屋さん、ウチのやつに連絡してやってくれないか? 一時間もしないうちに帰るって」
タクシーなら三十分もかからないだろうけど、余裕を見ておいたほうがいいからね、と苦笑してみせる。
「わかりました。あの……俺なんかが言うのは何ですが、あまり奥さんに心配かけるようなことは……。昼前から姿が見えなくなって、薬も服まずにどこかで倒れていたらどうしようと、真っ青になってらっしゃいましたから──」
何でも屋なんかに捜索を依頼するなんて、よっぽどのことですよ、と俺は大袈裟に言葉を盛っておく。
「薬は持って出たのに……」
溜息を吐いて、梅野さん。
「昼だって、マスターの特製クラブハウスサンドを──」
「食べきれないって、俺に半分よこしたのは誰だよ」
「喜んで食べてたくせに」
「まあまあ」
マスターが割って入る。
「桜庭さんも心配してそんなこと言ってるんですよ。梅野さんも、お二人とも大切なお客様です。お身体大切にしつつ、末永くうちの売り上げに協力してください」
ね? と笑うマスター。かなわないなー、と苦笑いするご老人たち。そのあいだに俺は梅野さんの奥さんにメールをする。
「今、奥さんに梅野さんのご無事と、帰宅目安時間をお伝えしましたので、俺はこれで。──ここのこと、奥さんには黙っておいてあげますから。お二人とも仲良くしてください」
何でも屋さんにもかなわないなー、と二人同時に笑い声を上げ、「僕もウチのに指輪でも買うべきかなぁ」「それがいいよ」なんて会話が始まった。
俺はマスターに黙礼して外に出ようと──
「ヨメさんの誕生石は何よ?」
「えっと、一月生まれだから……何だろう?」
「一月ならガーネット。柘榴石ですよ」
──柘榴石かあ。ドアが閉まる寸前、聞こえた石の名前に、何となく立ち尽くす。いやいや、もう水無瀬家の家神様の遷座も無事終わったことだし。今月も蔵整理に行くけど、前回は真久部さんが手伝ってくれたお蔭でかなり捗ったし、実地でいろいろアドバイスもらったから、次は手際よくやれそうだし……。
さて! 俺も家に帰って昼メシを、と思いながら、自転車に跨ってペダルを踏もうとしたとき。
「何でも屋さんじゃないですか。こんにちは」
振り返ればそこに、古美術雑貨取扱店慈恩堂店主、真久部さんがいつもの胡散臭い笑みをたたえて立っていた。